仮面の下の微笑み
『WHITE CAGE』訪問の段取りは簡単に進んだ。彩乃が店のオーナーに連絡をしたところすぐに了承してくれたのだ。オーナーは彩乃が御影家の関係者であることを知っていたし、彼女の父親が死んだことも既に知っていた。その事件を捜査する一環の訪問となれば無下にできないらしい。
早速明日の午前にオーナーと逢う約束を取り付けた。場所はクラブの隣にある喫茶店。クラブが入っている建物と喫茶店が入っている建物の両方をオーナーが所有しているという。結構裕福な人物なのだろう。
オーナーは喫茶店のマスターでもあった。意外なことに今日凪砂さんの紹介で訪れた喫茶店の主人とも面識があるらしい。凪砂さんは以前に彼からオーナーが経営する喫茶店の話を聴いたことがあったのだ。
「そのオーナーのことを大層褒めてたよ――“あれだけの努力家はなかなかいない”とね。まさか『WHITE CAGE』のオーナーだったとは思わなかった」
彩乃からオーナーの名前は聞いている。
白鳥数馬。
まだ二十代後半の若い男だというがどんな人物だろう。
「防衛自治派の集まる店か……少しばかり不安だな」
雫が憂いを帯びた紅い瞳を揺らす。
「心配はいらないさ、喧嘩しようってわけじゃないんだ」
「彩乃さんの言うように気の良い人だと信じよう」
「そうだな……明日行けばわかることだ」
雫は夜空を仰ぎながら言った。
今、俺たちは昨日の夜と同じく庭に出ている。ライトアップされた庭の草木が暗闇を背景に映える中を警官やメイド人形が歩いているのが見えた。
先程まではトリスが芝生の上を駆け回っていたが、今は疲れはてて丸くなっている。彩乃がその隣に座ってトリスの背中を撫でていて、その奥には竜の巨体がゆったりと地に伏せていた。今日の朝に一緒に遊んでからアンコロも彩乃に懐くようになっていた。彩乃は最初初めて触れる竜に緊張していたが、今はとても馴染んでいる。
「そういえば里見修輔が目を覚ましたって聞きましたけど」
「ああ、簡単な会話くらいなら問題ないらしい。だが、尋問となるともう少し様子を見ないといけない。いくら血統種の犯罪者相手に手心を加えないつもりでも、ちゃんと話をするなら時間を置く必要がある」
“手心は加えない”というのは最悪力づくでも証言を引き摺りだす覚悟があるという意味だ。被疑者に対する拷問は禁止されているというのが表の話だが、これが血統種犯罪となると話は変わってくる。多種多様な能力を持つ血統種を屈服させるにはこちらも能力で対抗しなければ捜査に支障を来す。残念ながらそうしなければ対応できないケースが少なくないという現実を認めざるを得ない。この点は世論も認知しており賛否両論である。
「何か収穫があればいいんですが……あの里見相手なら骨が折れそうですね」
「そうだな、鋭月の忠臣だった男だ。そう簡単に口を割るまい」
俺は里見の風貌を思い出す。知的な印象こそ残していたが髭を生やして元エリートの面影を無くしていた男。これまでの地下生活がどれほど厳しいものだったのか想像はできない。鋭月一派は崩壊してからは頼れる仲間もほとんどいなかったはずだ。
しかし、あの男はそれに耐えて再始動のチャンスを窺っていた。今回何の目的でこの街へ侵入したのかは謎だが、陥落させるのは難しいだろう。
雫があ、と何か思いついたような声を上げた。
「里見さんには一緒に行動していた仲間がいるんですよね? その人たちの顔や名前は判明しているのですか?」
「そちらは全員分わかっている。里見以外のメンバーは四人いる」
俺は事件当日の朝に隼雄さんから教えてもらった。いずれも鋭月と近い者ばかりだ。
「田上静江、丹波秀光、宮内晴玄、横山修吾――雫は知っているか?」
彼女は俺に問いに頷く。
「皆蓮くんの家で見たことがある。よく里見さんと一緒に家に来て、鋭月の部屋で話し合いをしていた。私は知っているだけで話をしたことは一度もない。ただ――」
雫は一旦言葉を切り、懐かしげに、そしてどこか悲しげに眼を細めた。
「静江さんとはよく話をしたな。あの人は住み込みの家政婦だったから」
今回ターゲットとなっている対立派メンバー唯一の女性である田上静江の表の顔は桂木家の家政婦だった。しかしてその正体は対立派きっての狙撃手。血統種の能力と狙撃の技術の合わせ技で数多くの暗殺を手掛けたという。
「菓子作りが得意な人でな、夏美と一緒に遊びに行った時にはよく作ってくれたのだ。特にスコーンが絶品だった。手作りのジャムを添えたものが一番好きだった」
何も知らずに過ごした子供時代を偲ぶ彼女はどこか儚げに見えた。
「静江さんが罪のない人を大勢殺したなど正直今でも信じられない。あんなに良い人だったのに、と思うことがある」
「確かに良い人ではあっただろうさ。利害関係が生じない限りは」
凪砂さんは後半部分を強調するように付け加えた。
雫は一度凪砂さんの顔を見てから、すぐに庭へ視線を戻した。
「……そうですね。きっとそうなのでしょう」
「ああ、だから今度の事件を機に奴等を一網打尽にする。里見だけで済ませる気はさらさらない。一人残らず首に縄をつけてやる」
決意を新たにするように凪砂さんは宣言した。警察としても手繰り寄せた糸を手放すつもりはないのだろう。それは俺を含めた『同盟』も同じだ。
まだこの国に蔓延る桂木鋭月という巨悪の残滓を一掃する。それを成し遂げるための小さな一歩をようやく今日踏み出せたのだ。
「由貴、ちょっといいかな?」
背後から声がかかる。振り返るとこちらへ歩いてくる慎さんの姿があった。
「どうした慎さん?」
「母さんが由貴を呼んでるんだ。今日のことで話をしたいって」
沙緒里さんが?
今日のこととは勿論浅賀邸での出来事についてだろう。
「里見修輔と逢った時の話を詳しく聴かせてほしいと言っていたよ。それに他にも用件があるみたいだ」
「他にまだ何かあったかな?」
「僕も知らないんだ。他の人に知らせる内容じゃないと言っていたけど……」
凪砂さんを一瞥すると、彼女は無言で片目を瞬いた。
「わかった。すぐに行く」
俺は一人屋敷の中へと戻っていく。雫が心配そうな顔で見送っていたが、気遣いは無用と笑顔を返しておいた。
慎さんは彩乃の元へ行ってしまったので俺一人だけで屋敷の廊下を歩く。今夜の廊下はとても静かだ。居間や娯楽室から物音が聞こえないので、他の皆はもう自室に帰ってしまったのだろう。
階段を上がろうとした時、またも背後から声がかかった。
「由貴さん、少しお時間をいただいてもよろしいですか?」
秋穂さんが真剣な眼差しを俺へと向けていた。
「どうしたんだ?」
「沙緒里様に招かれたと耳にしましたので、急いでお伝えしたいことがあります」
そこで秋穂さんは周囲を見回し、誰もいないことを確認してから小声で続けた。
「昨夜、沙緒里様と二人で話す機会があったのですが……あの方は由貴さんの御両親と礼司様の関係を既に突き止められておりました」
思わず眉間に皺を寄せてしまった。
成程、そうきたか。
「……そのことで沙緒里さんは何か言っていたのか?」
「それが気味の悪いことに“仲良くしたい”と私に手を組むことを打診してきました。断りましたが」
ここで協力関係を築こうとするのは慎さんを当主補佐に就かせたいがために違いない。俺の扱いも保障すると約束して懐柔しようという腹積もりだろう。
「ちなみに、蓮さんの事件の時に警備部の内部調査で把握していたにも関わらず、上には報告せずに胸の内に留めていたそうです」
「……沙緒里さんらしいやり口だ」
あの人なら裏で交渉するためのカードとして用いるのが普通だ。他に隠し持っている情報も一つ二つではないだろう。そのことは上層部だって知っている。しかし、それでいて『同盟』にとって不利な行動は絶対にしないから、彼女を排除しようという動きも出てこない。御影家のブランドと才能を最大限に発揮して己に利用価値があると示しているのだ。
「恐らく由貴さんを呼んだのもそれに関係しているのでしょう。くれぐれもお気をつけください」
「わかっている、沙緒里さん相手じゃ油断はできないからな」
皆して沙緒里さんを警戒するようなことばかり言っているなと苦笑しながら階段を上がろうとした。
だが、ふと気になったことがあり再び秋穂さんの方へ向き直った。
「ところで、沙緒里さんは秋穂さんのことも調べていたのか?」
「ああ、私が鋭月の配下だった過去ですか? それもとうに突き止められていたようです」
その言葉を聴いてなんだか申し訳ない気持ちになった。
「……悪いな、俺の身辺調査のついでに秋穂さんの過去も洗われたんだろう? そのことを指摘されて嫌な思いをしたんじゃないか?」
秋穂さんが鋭月の元にいた頃のことを語ったことはほとんどない。どうやら彼女にとって忌まわしい記憶となっているらしく触れたがらないのだ。他人に詮索されることだって嫌うはずだ。
「心配ご無用です。驚きこそしましたがそれだけですので」
だから大丈夫だと無表情の顔を少しだけ綻ばせた。
その微笑みを見ると何も言えなくなる。昔のことを思い出してしまうからだ。
両親が死んだ後、親戚は誰も俺を引き取りたがらなかった。両親が対立派に所属していたことは知られていたので、余計なトラブルに巻き込まれるのを嫌ったからだ。そのまま『同盟』の児童保護施設に放り込んでしまおうという声が上がったのも当然といえる。
そんな中、秋穂さんはずっと俺の傍にいてくれた。会社を休んで何日もの間俺の世話をするため家に泊まり込んだ。そして、夜になると孤独に震える俺を抱き、今のように冷たい仮面をほんの少しだけ外して笑顔を見せてくれた。今なおこの笑顔は俺の中で安心の象徴となっている。
親戚たちに俺を引き取る意思がないなら代わりに自分が引き取るとも言ってくれた。尤も、その後で揉めていることを聞きつけた礼司さんがやって来て養子縁組を提案してきたので、立ち消えとなってしまったが。御影家の庇護の下で暮らすことが俺の将来のためにも良いと認めざるを得なかったようだ。
ただ、御影姓を名乗らず最上の名のままでいることを要求したという話は聞いている。
血統種に関する民法の特則には、養子縁組の際に養親の姓を名乗らずに元の姓を名乗り続けることを可能とする記載がある。秋穂さんは俺が御影を名乗ることには強硬に反対したらしい。礼司さんもこれについては特に反論しなかったようだ。
ともかく秋穂さんは何かと自分より俺を優先する傾向がある。そのことが心配で仕方なかった。あまり無理をしてほしくないというのが本音だ。
「何かあれば遠慮なく相談していいんだ。秋穂さんも俺にとって家族同然なんだから」
念を押すように言うと、秋穂さんは珍しくきょとんとした顔をつくる。それから数秒の間を置き破顔一笑した。
「ありがとうございます。もしものときは頼りにさせていただきますね」