一時の休息
意識が覚醒したのは、がちゃんと大きな音が立てられたのと同時だった。
それがドアノブを乱暴に回す音であることにすぐ気づいた。枕の上に置いた頭を僅かに扉の方へと傾ける。扉は軋む音とともにゆっくりと開いた。
次に聞こえたのは何かが小走りする音だ。足音を殺すように素早くベッドの傍へ駆け寄ってくるのがわかる。だが、悪意は感じられない。
そして次の瞬間、ベッドの上に重い物が飛び乗ってきた。シーツの上をぼふぼふと踏みながらそれは俺の眼前へとやって来る。
「トリス……何の用だ」
屋敷に滞在中の狸がつぶらな瞳を間近から向けてくる。愛くるしい姿は寝起きの頭にとって良い癒しとなりそうだ。
トリスは俺の腕の隣で丸くなるとそのまま寝転んでしまった。ただ甘えたいだけだろうか。拒絶する意思はないのでそのまま好きにさせる。いずれ飼い主が探しに来るだろう。それまでは添い寝に付き合ってやるとしよう。
飼い主の少女がやって来たのはそれから十分ほど後だった。
「……また余所のお部屋に入り込んでいたのですね。困った子なのです」
「その口ぶりだと常習犯らしいな」
暗い部屋に廊下の灯りが差し込んでベッドの上のトリスを照らす。やって来た飼い主の顔を見つめて短く鳴いた後、トリスは絨毯の上に降りた。
「申し訳ないのです、お休みのところをお邪魔して」
「構わない、そろそろ起きようと思っていたからな」
時計を見ると八時半を回っていた。食堂はもう片付けが終わっているだろうから、後で部屋に夕食を持ってきてもらおう。
大きく背伸びをして凝った身体を解す。せいぜい二時間程度の睡眠だったが少し楽になった。
外を見ればすっかり日が落ちた空に星が瞬いていた。庭からの灯りが窓際をほのかに彩っている。今夜も警官たちが庭を警邏しているようだ。
「今日は本当にお疲れだったのです。さっき凪砂さんから里見修輔が搬送先の病院で目を覚ましたと聞いたのです」
「里見の意識が戻った? 頭を打っていたが大丈夫だったのか?」
「怪我は酷くないので近い内に事情聴取を行えると言っていました」
「そうか……何かわかるといいな」
里見が搬送された病院では『同盟』が万全の警備体制を敷いている。単独の脱走は困難を極めると考えていい。対立派の仲間が救出に来る可能性もあるが、奴らとて市街地で大立ち回りを繰り広げるつもりはないはずだ。数日の間は様子を見るだろう。
「鋭月に近い人物の逮捕は久々だからマスコミも騒ぐだろうな。ここの事件と併せて報道が過熱するな」
「さっきニュースで流れていたのです。逮捕された家の写真もネットにアップされているのです。浅賀って人の個人情報まで流れていたのです」
「全く……情報が出回るのが速い」
この調子だと浅賀が行方不明になったことも話題に油を注ぐに違いない。下手をすればあちこちに延焼しかねないので辰馬さんが事後処理に苦労しそうだ。
トリスは彩乃の足元に擦り寄っていたが、もう飽きたのか急に部屋の外へ走り去っていった。
「ああもう、あの子は……」
うんざりした表情で彩乃は呆れたように言う。
「由貴さんもあの子を叱っていいのです。放っておいたらやりたい放題するので」
「さっきも言ったが他の人の部屋にも潜り込んでいたのか?」
「はい、寧さんと秋穂さん、それから五月さんの部屋にも。ちゃんと自分を甘やかしてくれる人だけ狙っているのです」
寧がトリスと遊んでいるのは知っていたが五月さんと秋穂さんもそうなのは知らなかった。
「五月さんは一度お菓子を分け与えていたのでそれが目当てなのでしょう。秋穂さんは動物好きでたまに構っていると聞きました」
そういえば秋穂さんは子供の頃に犬や猫を飼っていたことがあると言っていた記憶がある。あれは俺の両親がまだ生きていた頃だった。自分自身の過去をあまり語ろうとしない秋穂さんが、一家団欒の席に招かれた際にふと漏らした話だ。
「部屋に勝手に入っていたら追い出して構わないのです。たまに異界を構築して寛ぐこともありますから。以前私の部屋のクローゼットを異界の入口にした時は大変だったのです」
「苦労してるな」
俺は頬を膨らませて文句を言う彩乃を微笑ましく思った。最初の頃と比べると随分感情豊かになった彼女は、今は他の人たちとも気軽に接しているようだ。父親が死んだ事実をまだ現実に感じられない状態は続いているが、いずれそれも受け止める時が来るだろう。
「どうしたのですか? 人の顔を見て」
「……いや、一先ず落ち着いて良かったと思ったんだ」
そう言うと彩乃はばつが悪そうに顔を背けた。
「最初からこうだったのですよ。むしろトリスがいなくなったことの方に取り乱したくらいなのです」
「恥じる必要はないぞ。感じ方はそれぞれだ」
「……本当にそう思うのですか?」
自信に欠ける様子で訊ねてくる彩乃に頷く。
「何をどう思うかなんて時と場合によって適当だ。ほんの少し感情が昂ぶったり沈んだりしただけで普段はしないような判断を下すことなんて挙げればきりがないぞ。時間が経って客観視できるようになったらまた改めて考えればいい」
「あなたって年の割に達観しているのです」
「よく言われる」
感情の力を操る能力なんて使うと自然とそうなるものだ。別に俺に限った話ではない。
「だが……気にしているのなら相談に乗れなくはない」
「相談?」
「実はな、信彦さんは事件の前の晩に俺のところへ相談に来たんだ。お前のことで」
「ええっ!?」
彩乃は目を丸くした。
「信彦さんも心配していたんだ。母親が死んでからお前が心を閉ざしがちになったことを解決したいと考えていたらしい。あまり気にかけてやれなかったって後悔していた」
「お父さんが……」
俺と彩乃は揃ってベッドに腰を下ろす。彩乃は小柄な体躯を前屈みにして俯いた。
「それでだ、その件でお前に確認したいことがある。今警察が捜査している案件とも関わりのある内容だ。事と次第によっては面倒になるかもしれんが……」
「何ですか?」
「……信彦さんはお前が『WHITE CAGE』というクラブに出入りしていることを教えてくれた」
クラブの名を出した途端、彩乃の表情が引き締まった。
「成程、それを訊きたかったのですか?」
「この件は他に沙緒里さんと慎さんも知っている。まだ上には報告していない」
『WHITE CAGE』に関する件は捜査を進めるうえで避けられない。浅賀の行方を追うなら桐島晴香とこの店の繋がりは把握する必要があるのだ。当然、店に出入りしていてかつ桐島と接触のあった彩乃の証言は重要だ。
彼女の抱える問題と事件双方を片付けるためにもこの状況は都合が良かった。そう判断した上で俺は彩乃に切り込む。
「それで――捜査と関係しているというのは、もしかしてあの店が何らかの理由で疑われているということなのですか?」
「店の方はまだわからんが常連客の方に不審な点がある。桐島晴香って女は知ってるよな?」
「はい……でもここ数年くらい見ていないのです」
桐島晴香は立花明人が失踪してから半年後に失踪している。それがおよそ二年半前のことだ。当時の記憶もおぼろげなのだろう。
「ああ、しかし……お前十二歳くらいの時からクラブに出入りしていたのか?」
「いや、それはその……語弊があるのです。そうじゃなくて……後でちゃんと詳しく説明しますから話を進めてほしいのです」
酒を呑んでいるなら風紀上の問題としても見過ごせない。もし、そうであるなら信彦さんの代わりにしっかり灸を据えるつもりだ。
「はあ……まあいい。その桐島晴香が対立派のメンバーである可能性が高いとわかったんだ」
「な……本当なのですか?」
「例の浅賀という男と桐島は昔同じ職場に勤めていた。その頃から近しい間柄だったらしい」
「それって……桐島さんが里見と知り合いだったかもしれないと?」
「恐らくはな」
俺が答えると彩乃は悔しそうに唇を噛んだ。母親を殺した犯人の仲間が堂々と自分の前に姿を晒した事実に憤っているのだろう。そして、それに気づけなかった自分自身にも。
「気持ちはわかるが今は抑えてくれ。お前は桐島と会話を交わしたことがあるんだよな?」
「そうなのです。いつだったか私が一人でいる時に話しかけてきたのが切欠なのです。それ以来たまに私に構うことがあったというか……」
「最初は向こうから接触を図ってきたのか?」
「はい、それから何度か私の話相手になってくれたのです。私みたいな子供が出入りしていることを咎めず、若い子は好きに生きていいと言ってくれて」
「……桐島がそんなことを言ったのか?」
「よく私のことを励ましてくれたのです。お母さんが死んだことやお父さんとの仲がぎくしゃくしてることを語ったら親身に聞いてくれて……それで塞ぎ込んでいた気持ちが晴れたのですが、まさか対立派だったなんて……」
どうも腑に落ちない。加治佐から聴いた桐島の話と全然違う。彼女によれば桐島晴香とは横柄で権力を笠に着るような典型的な嫌われ者だったはずだ。
ところが彩乃に対しては思いやりのある人間のように接していたという。桐島が素性を隠してクラブに出入りしていたのであれば多少は猫を被るかもしれないが、それにしては印象が全く異なる。
「嫌な奴だとは思わなかったか?」
「いいえ、全く。少なくとも店の人からの評判は悪くなかったのです」
「そうか……」
どういうことだ? この矛盾は今持っている情報だけでは解消できそうにもない。
「やはり店員にも話を聴きたいな……」
「店に行くなら私が話を通しておくのですよ。あそこの人たちは過激な思想は持っていませんから、落ち着いて話ができると思うのです」
「ああ、そうしてくれると助かる。凪砂さんにもアポを取ってもらうつもりだが、お前の口添えもあればスムーズに行くだろう」
俺たちは凪砂さんの元へ報告に行くことにした。
できるだけ早く話す機会を設けられたらいいのだが。