花の香り
「話が一段落した所で悪いのだが」
雫が一度咳払いしてから話しかけてきた。
「事件の捜査はどうなったのだ? 当然蓮くんの動機など追及したのだろう?」
「ああ、それか」
そこまで話は進んでいなかったので、まだ触れていなかった部分だ。
「まず、寧の回復を待ってから事情聴取を行った。一番の当事者だからな」
蓮の目的は寧の殺害。そのために奴は寧を氷見山公園まで連れ出して犯行に及んだ。職員の証言から寧が自らの意思で蓮に同行したことは判明していた。何故、蓮と共に本部を抜け出したのか。その点について詳細な証言を求められた。
寧が言うにはこうだ。
試合の前から気分を悪くして、休憩時間中は控室で休んでいた。そこへ蓮が一人だけ戻ってきた。どうしたのかと訊けば“紫が寧の様子を心配していた。傍についてあげたいが急な用事が入って行けないので、自分が代わりに行くことにした”と答えたという。
寧が承諾するとさらに“氷見山公園で気晴らしに散歩しないか。気分が悪いのは緊張が原因だろうから歩けば良くなると思う。近場なので時間もかからない”と誘ってきた。寧はその案に乗ることにした。この時、俺たちに連絡することは考えなかったらしい。
そして、園内を散歩している途中、例の遊歩道へと進み……事件が発生した。
「電話に出なかった件は?」
「マナーモードにして気づかなかった、だと」
だが、紫はこの証言に対して異を唱えた。彼女は寧の手当をしている時に、妹のスマホを調べていたのだ。寧が故意にコールを無視したのかどうか確認したかったらしい。その際に寧のスマホがマナーモードに設定されていなかったのを確認したと証言した。
「それで?」
「本人は“鞄に入れていたから聞こえなかったんだろう”とさ」
他の小物に音が遮られたためコール音が聞こえなかったのだと寧は弁解した。
正直に言えばこれは嘘だと思っている。
事件前から寧の様子には不審な点はあったが、あれは体調を崩していたからではなく別の理由が存在していたからに違いない。それに蓮が俺たちを先にレストランへ行かせたのも寧を連れ出すためだ。あの二人は試合前に二人きりになっていた時間があった。寧の様子が一変したのもその後だ。二人は本部を抜け出して氷見山公園へ赴くことを、あの場で決めたのではないだろうか。
誰にも行先を告げなかったのも、電話を無視したのも、他の誰かに邪魔されたくなかったから。仮にこの推理が正しいとするなら、二人は何をしようとしていたのか?
「しかし――事件後のごたごたのせいであの子の真意を追及するのは有耶無耶になってしまった」
「ごたごた……ですか?」
呆れた口調の凪砂さんは不満げに鼻を鳴らした。
「由貴が今この家には住んでいないということはもう知っているかな?」
「はい……何かトラブルがあって家を離れたとか」
「その原因が蓮の事件にあるんだ」
雫が驚いた顔で俺に視線を向けてくる。俺はそれに頷きを返した。
「捜査を進める内に困った事実が明らかになってしまったのさ。それなんだが……このことは流石に部外者の雫さんに話すのはまずいかな?」
「いえ、もう隠す必要はないでしょう。今では対策がありますから」
『同盟』内部にも知られている話であるし、調べようと思えばすぐにでも探りだせる内容だ。不用意に口外すべきではないが隠し通すほどでもない。
「蓮に撃たれた時について寧に事情聴取したところ、当時の状況が鮮明になった」
まず、遊歩道を進み橋の辺りにまで差しかかったところで蓮が誰かに見られているような気配を感じたと言い出した。蓮は“もしかすると異界の入口が開いて魔物が出現したかもしれないので、気配を感じた方角を調べてみよう”と提案した。寧はすぐさま同意して二人で林の中へと足を踏み入れた。そして、寧が周囲の警戒をしながら蓮と話していると、奴が銃口を向けてきたという。
ここで一つの疑問が浮かび上がった。現場検証及び蓮の遺体の検分を行ったところ、寧はあの場で一切“天候操作”を発動していないことが判明したのだ。つまり寧は完全に無抵抗のままだったということだ。
これは彼女をよく知る者からすれば考えにくい話だ。寧はたとえ攻撃を受けても決死の覚悟で反撃を試みる性格だ。苦悶に耐えながら蹲るだけなどあり得ない。
事情聴取をしていた捜査担当者もそのように考えた。そこで抵抗する気力が湧かなかったのかと疑問を投げかけた。
寧はこう答えた。
「“天候操作”を発動させようとしたら、ギルヘミアの香りが漂ってきて……それで眩暈がしたから何にもできなかったの」
ギルヘミアは異界から輸入された花の一種である。多年草で育てやすく人気のある品種で、ホームセンターの園芸用品売り場に行けば種を買うことができる。
寧は蓮に襲われた際にこの香りを嗅いだというのだ。
「何故ギルヘミアの香りがすると抵抗できないのだ?」
「実はな、寧はギルヘミアの香りがしたときはうまく能力を発動できないんだ」
「……何だと?」
雫の紅い瞳が大きく見開かれた。
「この事実を最初に知ったのは……俺と紫が小学校の五年生くらいのときだったかな」
俺は昔日の記憶を蘇らせた。
ある休日のことだった。俺、紫、寧の三人は庭へ出て能力の訓練をしていた。その頃は礼司さんからの言いつけで精密操作の訓練を重点的に行っており、その日も三人で実践と考察を繰り返しながら時間を過ごしていたのだ。俺は感情のエネルギーを様々な形状に変化させる訓練を、紫と寧は天候の素早い切り替えを訓練していた。
当時寧はまだ七歳。今とは異なりあどけない少女であり、何かにつけて俺や紫について回るのが常だった。そんな義妹は姉と義兄が訓練しているのを見かけるや否や自分もやると鼻息荒くやって来た。寛容的な紫はそれなら同じ能力を扱う自分と一緒に訓練しようと提案し、姉妹は仲良くあれこれと試行錯誤を始めた。
最初は順調に進んでいた。幼くも礼司さんの教育が行き届いた寧は大きな失敗を犯すことなく、一生懸命に“天候操作”を行使していた。俺もそれとなく二人の様子を気にかけていたが、特に心配することもないと楽観して自分の訓練に集中するようになった。
ところが訓練を開始して一時間ほど経過した頃、事態は急変した。登が温室から花の鉢を抱えて俺たちの傍を通り過ぎようとした時のことだ。
「お、やってるなあ。どうだ調子は?」
登は俺たちに気づくと鉢を抱えたまま近づいき声をかけてきた。
「まあまあってところだな。最近は礼司さんとの模擬戦でも戦えるようになったし自信もついてきた」
「修行熱心で良いことだ。俺は仕事あるから付き合えなくて悪いな」
登は鉢に植えた花に視線を落とす。薄く蒼い花弁が特徴的な花だった。
「それ温室にあったギルヘミアだよな? どこかに移すのか?」
「師匠のところ。名取家の別邸に欲しいだとさ」
「ああ、新しく花壇を造ったって聞いたな」
以前老朽化した別邸の改築工事をするに当って庭に花壇を設置することにしたと耳にした記憶がある。そこに植える花のいくつかを登の温室から譲り受ける話があった。
「今日引き渡す予定なんだよ。もうすぐ名取家から軽トラ寄越してくれるはずだ」
登が温室の方を振り返る。温室の前には引き渡す予定と思われる植木鉢が何個が置いてあった。
「全部異界種の花か?」
「ああ、名取の先代がガーデニングにはまっててさ。最近は異界種に興味を持ってるって師匠が言ってた」
名取家の先代は齢九十をとうに超えているが、まだまだ健在だ。長男に家督を譲り渡した後はこの街の端にある別邸に移り住み、多忙な日々から解放されてのんびりと余生を謳歌している。
先代と逢ったのはほんの数える程度だ。既に引退した身であることもあって表にはあまり出てこない人だという。
俺はギルヘミアの鉢をしげしげと眺めた。色艶が良く甘い香りが漂う。しっかり手入れをした花なのだろう。
「じゃ、俺はもう行くから頑張――」
登がそう言いかけた時だった。
「ああ!」
突然悲鳴が上がった。驚いた俺と登が声の上がった方を見ると、寧が座り込んで顔を腕で覆い隠していた。紫が血の気を引かせた顔で声をかけていた。
「寧! 怪我はない!?」
姉の問いかけに対して寧は怯えるように震えながらこくこくと何度も頷き返す。
「おい、どうしたんだ!」
「わからない。急に爆発して……」
「爆発?」
よもや敵襲かと思い周囲を警戒したが、特に変わった様子はない。普段通りの閑散とした光景だ。
それに敵襲なら五月さんのメイド人形が異変を知らせてくれるはずだ。多数の人形が配備された警備網を突破して敷地内に進入するのは難しい。さらに登の“花壇”も敷地を囲う柵に沿って設置されている。陸路からの侵入は考えにくい。
では、空かと見上げてみても不審な影はない。青空には雲一つなければ鳥も飛んでいない。
どういうことかと首を傾げていると、寧が再び叫んだ。
「そ、それ……あっちに持っていって! 早く!」
「それ?」
寧は追い払うように手を激しく振っている。
何を指しているのかと疑問を抱いて辺りを見回したが、特に気になるものはない。妙だと思いふと視線を落としたところに登が抱えている鉢があった。
「……まさかこれか?」
「は、早く! 嫌! 気持ち悪い!」
寧は今にも泣き出しそうな表情だった。
登が慌てて鉢を離れた所へ持っていくと何かを確かめるように何度も鼻で息を吸う。それからやっと落ち着いたのかゆっくりと安定した呼吸を始めた。
「どうしたんだよ寧お嬢は? 只事じゃないぞ」
「わからん。とりあえず何が起きたか詳しく訊かないことにはどうしようもない」
若干瞳に涙を溜めてぐずるように鼻を鳴らす妹を宥めていた紫は、困った顔でこちらを振り向いた。
「どうしたんだろう。わけがわからない」
「とにかく事情を説明してくれ。何があった?」
「ええと、私と一緒に“天候操作”の練習をしてたの。いくつかの天候を短時間で何度も切り替える練習なんだけど、最初に慣れてる私が手本を見せて、その後で寧が同じ手順でやるの。何も問題なく順調にできていたから私も大丈夫かなって思ってたら……急に口を押えて気分が悪そうになって、それから周りに生成してた雹の塊が全部弾け飛んだの」
地面に散らばった雹の欠片を拾って観察してみる。強い衝撃で破壊されたかのように粉々になっている。
「それって気分が悪くなったから能力の制御ミスったんじゃねえの?」
「気が逸れただけでこんな大事になるか? 俺は紫の特訓に何度も付き合っているが、ミスをしても爆発なんて起きないぞ」
「その通り。普通はこんなこと起きない」
ならば一体どんな理由で爆発が起きたのか。俺たちだけで考えても答えは出てこない。
俺たちは礼司さんに事情を説明した。彼は話を最後まで聴き終えるとすぐに娘を『同盟』傘下の病院へと連れていった。検査が実施されたのはそれから間もなくだった。
結果判明したのは、寧はギルヘミアの香りを嗅ぐと精神的に大きな衝撃を受けるという不思議な事実だった。何故かギルヘミアの香りにのみ著しい拒絶反応を示し、あまりの必死さに息を止めて検査室から逃げ出そうとしたほどだ。
それだけではない。能力の制御を失った原因についても検査を行ったところ、これは精神的ショックが主因ではなく匂いの成分が能力が暴走するトリガーとなっていたことが判明した。これには皆が驚いた。
何らかの条件を満たすと能力に変化が生じる例は過去に幾多ある。しかし、匂いの成分を吸引することがトリガーとなるケースはこれが初めてだったのだ。
この一件は寧にとって大きな弱点が存在する事実を明らかとした。
ギルヘミアの香りを用いれば寧を容易に無力化できる。
仮に悪意ある何者かがこの情報を手に入れたらどうなるだろう? 例えば御影家に恨みを持つ対立派の一員が。
あまり想像したくない話だ。
礼司さんはこの話を迂闊に他言しないように念を押した。当然の措置だ。場合によっては惨事を引き起こしかねない内容だ。秘密は屋敷内部の者だけの間で共有することになった。
従ってこの秘密を部外者である蓮が知るはずはない。
そのはずだったが――。
「実は漏れていた?」
「ああ」
雫の指摘に俺は渋い顔をつくった。
「それで、だ。話は最初に戻る。後になってこの秘密を蓮に漏らしたのが俺だとわかった。これが屋敷を出る羽目になった原因だ」
なるほど、と雫は納得した顔で呟いた。
「……それは問題になって仕方がない。当主補佐になる予定の者がやらかしたとなれば」
「我ながら本当にそう思うよ」
全くもって同意するしかない。たった一度の過ちが危うく義妹の命を奪うところだったのだ。反省のしようがない。
「だが、あなたがそんなミスをするとは俄かに信じ難いな。他言無用を言いつけられていたのを失念していたわけでもあるまい」
「本当に些細なミスだったんだ。蓮が近くにいる状況で不用意にその話題に触れてしまったんだ」
「それに関しては登にも非はあるな」
「登くん?」
凪砂さんに雫が疑問の言葉を返す。
「そう、二人がギルヘミアのことで会話していたのを蓮に盗み聞きされたのさ」
いつの出来事だったか蓮が屋敷を訪れたある日、俺と登を含めた三人で気ままに過ごしていたときのことだ。登が異界から取り寄せた植物が花をつけたと聞いたので見に行こうと決まった。
温室には薬効のある植物がいくつもあり何かにつけて役に立つ。これらは登が率先して栽培しているものであり、そのために温室を増設したほどだ。
件の植物は大きく色鮮やかな花を誇らしげに咲かせていた。そんな中、普段温室に立ち入ることのない蓮が他の花も観賞してみたいと言い出ししばらく留まることになった。
俺にとっては見慣れた光景であり特別興味を惹くものはなかったので、歩き回る蓮には付き添わず登と雑談を交わしていた。
「それにしてもこの温室も広くなったな。土地が余っているとはいえ無計画に建て増ししたんじゃないか?」
「まあな。旧館近くは使ってない所多いし、旦那も有効活用できるなら構わないって考えだ」
「建物のデザインも凝るようになったな……氷見山公園の植物園と遜色ない見栄えだ。昔は本当に小ぢんまりとした温室だったのに、いつからこうなった?」
「親父が引退した後からだな。俺の好きにしていいって言われたから遠慮なく好きにさせてもらったぜ」
登は気楽でどことなく仕事に手を抜きそうな男に見えるが、ガーデニングにかけてはとことん拘る性格だ。これは父親の影響が大きい。先代の庭師も己のセンスと技術を注ぎ込んだ芸術作品としての庭造りを得意としていた。もっとも彼は小さくまとまった庭造りを重視しており、息子の方は荘厳で見る者の心を奪うようなスケールの大きい庭を目指している。登は口にこそ出さないがそんな父親を密かに敬い、彼が手がけた庭を代わりに手入れしている。
「異界種の花も増えたな……だが、やはりギルヘミアはないんだな」
「そりゃあな、寧お嬢が嫌がるし」
それはごく自然に出てきた言葉だった。
「早く抑制剤の開発が進めばいいんだが……匂いを嗅いだだけでアウトというのも難儀だ」
「発作さえ無ければなあ。今じゃ見るのも駄目ってレベルだし」
「単なるアレルギーか何かならともかく能力の制御にも影響するというのが厄介だ」
この時、俺たちはすぐ近くに蓮がいることを失念していた。見慣れた場所、同じ屋根の下で暮らす者同士の会話。そんな普段と変わらない環境がこの失態を許してしまった。
蓮はこの後粗方観賞を済ませたと言いながら戻ってきたが、恐らくどこかで俺たちの会話を聞いてしまったのだろう。そうして寧の弱点を知ったのだ。この秘密を知るのが屋敷内部の者だけである以上、蓮がそれを知る機会はこの時以外に思い当たる節はない。
「失態を犯したことよりも皆が庇ってくれたのが余計に辛かったな。責めてくれた方が気は楽だったと思う」
「そうだな。だが、あの時の君は事件のショックでかなり陰鬱な状態だった。追い打ちをかけたくはなかったんだろう」
一連の流れに心の整理をつけられなかった俺は糾弾する声に対してろくに反論をしなかった。このまま大人しく罰を受けたいと望んでいたのだ。そうすれば区切りをつけられる気がしたからだ。
その願いに反して外部はともかく礼司さんたちは寧ろ俺を気遣ってくれた。後から聞いたところによれば、寧は自分自身の油断と浅慮な行動にも非があると主張して俺への風当たりを弱めてくれたらしい。
「由貴を責めた連中には蓮の共犯者じゃないかと疑いをかける奴も少なくなかった。放置すれば面倒な状況になる恐れもあったから、擁護してくれたのは有難かった」
「それでも結局は屋敷を追い出されたのだろう? 何と言えばいいのか……残念だったな」
適切な慰めの言葉を探る雫に、俺は首を振って答える。
「いいさ、今はこうして戻ってくることができたんだ」
「その通りだとも。もう片付いた話だ」
片付いた話――確かに俺に関する問題はそれでいいかもしれない。
しかし、本質的な話はそういうわけにもいかない。それは凪砂さんも承知しているだろう。
「それじゃあ話を続けよう。寧の証言には怪しい箇所があったが、最終的にそれらは大きな問題にはならないとされた。理由は二つ。第一に、寧と蓮が何か理由があって公園に行ったとしても、それ自体が事件に関与しているとは考えにくいと判断されたから」
「……公園に誘い出した理由そのものはあくまでプライベートな事情に過ぎない、ということですか?」
「そうだ。他人には言えないような事情があるなら、それをネタに脅されたら従わざるを得ないこともある。そうなるとちょっと難しい話になってしまう。御影家の跡取りに纏わる赤裸々なアレコレを暴くのは如何なものか? そう考えた捜査陣は及び腰になってしまったのさ」
「しかし、それが蓮くんの動機に繋がる可能性だって――」
「かもしれないな。だが、それは検討されなかった」
雫の反論は途中で遮られた。
「由貴や紫の証言からあの二人の間に“何か”があったのはまず間違いない。しかし、捜査ではそこに深入りすることはなかった。何故だかわかるかい、雫さん?」
「何故って……?」
強調するようにゆっくり説明する凪砂さんに、雫はただならない雰囲気を感じ取ったらしい。
凪砂さんは瞳の奥に怒りを滾らせた。
「全くふざけた話さ、『同盟』の上層部から捜査陣に圧力がかかった」