御影寧暗殺未遂 ‐征伐‐
内容を一部修正(2019.12.8)
レストランに足を踏み入れて辺りを見渡せば、すぐに紫たちが座るテーブルが目に入った。こちらだと主張するように紫が気だるげに右手を挙げている。
「ん? 蓮は一緒じゃないのか? てっきりお前と一緒に師匠と話してると思ってた」
「誰かから電話がかかってきたみたいだ。少し話をするから先に行ってくれだと」
「ふうん」
俺が登の問いに答えると、登は特に気にした様子もなく小さく呟いてからメニュー表に目を落とした。
「……なあ、寧の様子どこかおかしかったと思わないか?」
俺は控室前での会話を思い出しながら、胸の内に燻る疑問を提示した。
皆は一様に小首を傾げる。
「それな、なーんか変だったな」
「朝はいつもと変わりない様子だったと記憶していますが……」
使用人二人は同意の言葉を口にする。違和感を覚えていたのは俺だけではなかったようだ。紫の方も黙っているが、表情からは同じ感想を抱いていることが読み取れる。
「試合前に俺と紫が控室に戻った頃にはもうあんな感じだった。何かあったのか?」
「うーん……俺たちはお前たちが戻る少し前に出て行ったからな。ただ、出て行く前は……別に何ともなかったよな?」
「はい、私もそう思いました」
つまり登と五月さんが控室を出てから俺と紫が戻るまでに、様子が一変したというわけだ。大した時間ではなかったはずだ。その間に心境を大きく変化させる出来事があったとは考えにくい。
「ああ、でも――」
「ん?」
思い当たる節を見つけたというように五月さんが声を上げた。
「私と登さんが出て行った後、蓮さんが控室の方に向かっていました。もしかしたら蓮さんなら何か知っているかもしれません」
出てきた親友の名に俺は眉を寄せた。
そういえば蓮も別れる前にどこか妙な態度だった。
奇妙な符合に釈然としない感情を抱く。
「んー……それにしても寧があんな態度とったの久々」
紫がテーブルの上に上半身をだらりと乗せてぼやいた。行儀の悪い姿勢を五月さんが窘めるのも気にしていない。
「そうだな、お前が次期当主の椅子を譲った時以来か?」
「うん、あの時もぎくしゃくした」
当時を懐かしむように目を細める紫。混乱に巻き込まれた身としては思い出しただけで溜息が出そうだ。
何の前触れもなく唐突に宣言された次期当主の放棄。当時の当主であった礼司さんに話を通さずに行われたその言葉によって、御影家とその周囲がひっくり返った。
誰もが紫に撤回を求めたが、彼女はそれをいつもの調子で軽く受け流した。
自分は当主になるつもりはない。次の当主には寧を推すつもりで動く――そう明言した才女に皆表向きは了承するしかなかった。
「そりゃ周囲からすればわけわかんねえ状況だったからな。誰もが次の当主は紫お嬢って思ってたところにあれだもんな」
「実際寝耳に水だったからな」
「反省してる」
だらけた姿勢のままそう口にする姿は、とても心から反省しているとは思えなかった。
しかし、紫は上半身を起こすと神妙な面持ちになり言葉を続けた。
「正直に言うとどうしようかずっと迷ってた。お父さんの跡を継ぐべきか、自分で道を選ぶべきか……どっちも遣り甲斐はあると思っていたから」
「……今でも気は変わらないのか」
「ん」
俺は今一度意思を確認するために訊ねたが、返ってきた答えは予想通りのものだった。
紫は俺に向けて、薄く慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
「結局のところ、私か寧のどちらかが“征伐”に参加するのは決まってるようなもの。両方行かないのはあり得ない。だったら私が行く。それだけ」
“征伐”――その言葉が紫の口から出た時、一瞬場の空気が硬直したような気がした。
血統種が人と共に歩み始めてからの世界の歴史は、凡そ平穏とは言い難い。その時間の長さだけ血で血を洗う争いが繰り広げられたと言っても過言ではない。
それは人を喰らう魔物との戦いであったり、あるいは同胞たる血統種との勢力争いであったりと、枚挙に暇がない。積み上げられた屍の数は数万にも及ぶと言われている。
それでもなお共存共栄の道が絶たれていないのは先人たちの意志と不断の努力があったからだ。俺は大きな戦いを経験したことはないため想像もつかないが、『同盟』の一員として彼らには敬意を表している。
きっと礼司さんや小夜子さんも同じような道のりを辿ってきたのだろう。ふとした時に二人の姿を眺めていると、そこに二人が体験してきた過酷な戦いを連想させる何か――雰囲気といえばいいのだろうか、一種のオーラのようなものを感じ取ることができた。それは精神力を基盤とし、“同調”を操る俺だからこそ知覚できたのかはわからない。ただ、その感覚が幻でないことだけは確信していた。
そんな壮絶な歴史を乗り越えた上で築かれた現代でもなお戦いは続いている。
その内の一つが鋭月一派を始めとする対立派との戦いであることは説明するまでもない。
しかし、敵は血統種だけではない。その祖先であり今も各地で跋扈する魔物の脅威もまた根深いのだ。
魔物は異界を構築してその内部で生活する。一体の魔物が己だけの異界を構築することもあるが、多くの場合は“異界の主”を中心とする中規模の異界だ。
これは強力な魔物をトップに据えた上で、その魔物が構築した異界に配下となる魔物が集まることで生まれる。これらの中規模異界は統率された魔物の群れを形成する要因となるので、発見次第『同盟』による監視又は討伐が行われることになる。
これまでに数多くの異界が、主が討伐されたことにより消滅していった。その中には異界の主同士の争いで異界が他の異界を吸収したこともある。こうした異界は吸収を繰り返すうちに徐々に肥大化していき、大規模な異界へと変化していく。
このような大規模異界の主は知性の低い動物型の魔物ではなく、人間と同等の知能を有する人型の魔物――即ち血統種の祖先であることがほとんどだ。
人型に支配される大規模異界の内部では、人間の世界と同様のコミュニティが存在する。街があり、魔物の民が人間と同じように暮らす、そんなありふれた街の姿だ。
そして、人間に対して友好的な魔物がこの世界との交流を求めて交わった結果、血統種が誕生した。
今日の世界は、そうして手を取り合ったいくつもの異界と共に息づいている。
しかしながら――全ての異界がそうだとはいえない。知性を持たない魔物が王者として君臨する大規模異界は、今なお人間への脅威として存在している。
そして、大規模異界の中でも特に危険度の高いものについて、『同盟』が隊を派遣して主の討伐を決行することがある。
これを通称“征伐”という。
今、『同盟』上層部はある異界への“征伐”を計画している。
それが東京から遥か南、数百キロ先に存在する離島に入口を構える異界ナタラ。
ナタラはおよそ三十年前に発見された大規模異界だ。入口がある島は魔物が日常的に徘徊し、島の大地はナタラの植物によって覆われている。魔物の体表に付着した種子が外へ運ばれて根付いたのだろう。
ナタラに棲息する魔物には鳥類、魚類型の種が多いが、主は竜である。この異界は竜種が他の異界と比較しても多数棲息している。小さな個体では全長六メートル程度、最も大きな個体では二十メートルを超える。強さはどうかといえば、これも並の血統種が真正面から戦うには分が悪い。世界的にも上位のクラスに位置する竜ばかりで、特に危険な異界に指定されている。
近年、これらの竜が海を渡り他の島へ被害を及ぼしているという点が問題化し、『同盟』内で議題に挙げられた。
早急に対処するべきという主張は出たものの、その当時はまだ鋭月一派との対決の余韻も冷めやなぬ時期、国内の情勢を安定させることに精一杯であり、戦力をナタラに回す余裕がなかった。
それがようやく収まってきた今になって、“征伐”へ向けて人員を選抜することが決まったのだ。
問題はここで生じた。
御影家次期当主と目されていた紫が突如その座を降り、ナタラ“征伐”に名乗りを上げたのだ。
それは次期当主の放棄を宣言した翌日のことだった。