大隅登の告白 ‐後編‐
「雫、君は……」
何か言おうと口を開くが、言葉が続かない。
頭の中を言葉が駆け巡る。何を言えばいい? 今からでも取繕うか、それとも無言を貫くか? いや、そもそも何故雫は真相を知っていた?
口の中が乾燥して不快な感触を覚える。意識すれば瞬きの回数も増えていることに気づく。身体を動かそうとすれば気怠さを覚えて、思わず止めてしまう。
俺が判断を迷っている中、先に行動したのは雫の方だった。
「……済まない。こんな場面で明かして混乱させるつもりはなかった。つい興奮して口にしてしまった……自分で言っておいてなんだが、この話はまた後にしよう」
申し訳なさそうに頭を下げる雫に、誰も言葉を発さない。脳内から溢れ出そうになっていた言葉は、静けさと共に奥へと引っ込んでいった。
部屋に何とも言えない空気が充満する。
「えーと……とりあえず話の続きをするか」
「あ、ああ、そうだな」
雫が何故真実を確信していたのか疑問は残るままだが、当初の目的を完結させるのが先だ。
話題を戻すことに同意した全員が、姿勢を正して仕切り直した。
「ええと、結局お前は礼司さんにそのことは報告しなかったんだな」
「まあな」
「何故、報告しなかった? 紫の頼みを優先する必要はなかったはずだ」
「……」
そこで登は完全に押し黙ってしまった。どう答えるべきか思案しているのが手に取るようにわかる。
「そうだな。確かに旦那に報告すべきだった。仮にも『同盟』に名を連ねる一人としては、それが道理だ」
「なら、どうして?」
そこで登は腕を組み、慎重に言葉を選ぶようにゆっくりと語りだした。
「俺に絶対誰にも言うなって頼んだ時の紫お嬢の顔がさ、すげえ必死な顔だったんだ。今までも散々俺たちを振り回して好き勝手やってたけど、あんな風にものを頼むことなんて一度もなかった。それにお嬢が真面目な顔するのはいつだって本気の本気って場面だけだ。だからかな、理由はわからないが今はお嬢の好きにさせようって気になったんだ。まあ、平たく言えばただの勘だな」
勘か。普通なら呆れるところだろうが、この場合はそうともいえない。
俺の知る限り、紫は幼少期の異界事件以降は周囲の手を借りるようになり、単独で調査に当ることはなくなった。そんな彼女が恋人の死――付け加えるなら妹の殺害未遂にも関わる重大な事件の調査を一人で行うかといえば、腑に落ちない話だ。
蓮の死の裏に秘密が隠されていると知って浅賀を追っていたのは、まず間違いない。それを隠す理由がわからないのだ。鋭月の伝言が重要な鍵となるなら、礼司さんに話して再調査するようにはたらきかけることも可能だったはずだ。だが、実際には単独で調査し、登に対してきつく口止めした。
紫は何を考えていたのか。彼女は決して無謀なことは考えない。自らにできることを冷静に見極め、動くのが常だった。秘密裏に動いていたことにも、彼女なりの理由があったはずだ。
「紫がわざわざそんな真似をするには何か裏がある。それが何かはっきりするまではそっとしておくつもりだったのか?」
その当時は切迫した状況であったわけではなかったのも理由の一つだろう。俺が屋敷を出て行った後に再調査が行われたという話は聞いたことがない。あれから後も連絡を取り合っていた秋穂さんが一度も言及していないなら、少なくとも『同盟』がそう指示した事実はないに違いない。
「……うまく言葉にできないけどよ、多分話さなかったのは正しかったと思ってる。お嬢が消えたのがあれから二ヶ月くらい後のことだろ。変な手紙も残してさ」
『蓮に逢いに行く』とだけ書かれた置手紙のことか。
「あれはお嬢が自分の意思でどっかに行ったってことを示唆してた。それに蓮に逢うってのは意味不明だとしても、浅賀と話してた内容と関係ある可能性って思ったんだ」
「だから、紫がいなくなった後も黙っていた、と」
「まあな。ただ、今回の一件で浅賀のことが知られたからどうしようかって悩んでたけど……由貴が凪砂さんと雫さんと一緒に捜査してるのは知ってたから、お前たちだけには話しておいた方がいいって思ったんだ。お前なら辰馬さんとか沙緒里さんには漏らさないだろ?」
「まあな」
浅賀と対立派の関係が明るみになった以上、秘匿していても意味はないだろう。だが、紫が独自に調査していた件はおいそれと話せることではない。そこで俺なら信用できると判断して語った――体よく押しつけたともいえるが。
「しかし……何故、私にも明かそうと思ったのだ? 由貴くんと凪砂さんだけでいい気がするが……」
雫がそう訊ねると、登は肩をすくめた。
「それはそうだけどさ。でも、雫さんをここに呼んだのは旦那だろ? それも調査なんて頼んでさ。しかも蓮の友達を選んでだ。なーんか……お嬢の件とどっか繋がっているんじゃないかって気がしないか? だから雫さんにも話した方がいいと思ったんだ。由貴と凪砂さんといつも一緒にいるのは知ってたから、おそらく心配はいらないと判断した。それにもしかしたら雫さんが例の伝言の内容に心当たりあるかもしれないし」
登の予想は凡そ合っていた。礼司さんが俺に託した件や、“猟犬”からの指示等を知らなくとも、その程度は推測できて当然かもしれない。
「ああ……そういうことか。だが、済まない。私もその伝言とやらには全く心当たりがない」
「そっかー……ひょっとしたらって思ったけど」
残念そうに溜息をついて、登は天を仰いだ。
「……ま、これで俺の話は終わりだ。何か役に立てたか?」
「ああ、参考になったよ」
新たに判明したのは、紫が失踪前には既に浅賀に目をつけていた事実だ。俺たちは鷲陽病院の事件と辰馬さんの証言から奴に注目したが、紫はどのような経緯で奴に辿り着いたのだろう。彼女もどこかでそれらの情報を入手したのか。
可能性はないとはいえない。ひょっとしたら蓮がどこかで鷲陽病院の話を語っていたかもしれないし、五月さんと浅賀が逢っていた話も別のルートで得ていたとも考えうる。少なくとも『同盟』本部の警備部は既に把握していた。紫が何らかの手段でその情報を盗んだ――というのは紫ならさもありなんと納得するところだ。
それにもう一つ重要な事実がある。浅賀が失踪したのは昨年の五月末だった。だが、登の目撃談は六月半ば。既に浅賀は姿を消している時期だ。その時に浅賀は紫に接触してきている。
登の証言から察するに、特に変装もしていなかったようで大胆に姿を晒したことになる。単に忠告のためだけに現われたというには不自然な状況だ。あのタイミングで紫に釘を刺すことに意味があったのか、それも気にかかる。
これは仮定に過ぎないが、紫が登に口止めしたのは、浅賀の居所を他の誰かに知られるのが都合が悪かったからという理由もあったのではと俺は考えた。
点と点は繋がり、新たな線はできた。まだ線と線が繋がることはないが、前進していることだけは確かだと感じる。
俺たちは登に礼を述べると、部屋を後にした。
廊下を歩きだして少し後、先頭を歩いていた雫が立ち止って振り返る。
「……さて、訊きたいことがあるだろう?」
「ああ、俺の部屋でいいか?」
「構わない」
敢えて中身に触れない曖昧な会話を交わす。場所は当然のように俺の部屋だ。雫を連れ込むのはこれが三度目なのでもう気にしない。それを知らなかった凪砂さんが顔面を蒼白にしていたが無視した。そういえばここに住んでいた頃に、凪砂さんを部屋に入れたことはなかったと思い出す。
何とか凪砂さんの気を落ち着かせてから部屋へと戻る。俺は椅子に、女性二人はベッドに並んで腰掛ける。
「ええと……そうだな、どこから話そうか」
咳払いをしてから言葉を選ぶようにゆっくりと語りだす。どう言えばいいか悩んでいるのか唸っていたが、やがてはっきりとした口調で再び口を開いた。
「……余計な言葉は省いて簡潔に述べるべきだな。私は――蓮くんの死がただの事故でないことをずっと以前から知っていた。いや、正確に言えば察していた。そして――それは先程のあなたたちの反応からして正しいのだろう?」
覚悟はしていたが、こうも真っ直ぐ突きつけられると思わず目を背けたくなる。
だが、そうするわけにはいかない。これは俺自身の問題だ。かつて俺が犯した罪だ。
呼吸で気を静めた俺は、紅い瞳を見返して言う。
「そうだ、蓮の死は事故なんかじゃない」
絶望的な宣告でもしたかのように俺の声は震えていたと思う。
雫は瞠目し――それからゆっくりと目を閉じて、ぽつりと呟いた。
「やはり礼司さんは……」
「礼司さん?」
養父の名が出てきたことに、疑問が口を突いて出る。
凪砂さんは「ふむ」と納得の表情を浮かべた。
「ひょっとして礼司さんが教えたのかい? 蓮のこと」
礼司さん――確かに情報源として一番考えうるのはあの人だ。事件の関係者であり、雫と近しい間柄である人物。
けれども雫はそれを否定した。
「“教えた”というのは語弊がありますね。彼はその点に関しては一切語りませんでした」
「あれ、そうなのかい?」
「はい、ただ――」
雫は意味ありげに言葉を切ると、俺たち二人の顔を交互に見つめた。
「最初から疑問ばかりだった。そもそも何故“猟犬”は礼司さんに鷲陽病院の事件を調査するように指示したのか? 私と協力し合うように仕向けたのか? これがずっと気にかかっていた。私たちの接点は蓮くんだ。私は彼の友人で、消えた紫さんは恋人。そして、夏美も私と同じだ。それなら蓮くんは、この事件でどんな役割を果たしているのかと考えて……ふと、彼が死んだことはただの偶然でないのかもしれない――と思うようになった」
これだけ多くの出来事が短い期間に、立て続けに起きたのだ。その中の単なる事故で片付けられた蓮の死にも、何か秘密が隠されているのではないか。そう推測したのも無理はない。俺が彼女の立場でも、やはり疑問を抱いただろう。
「それに、以前礼司さんにそれとなく蓮くんが死んだ時のことを訊いてみたのだが……平然を装っているように見えて、どこかぎこちないように感じた」
「部外者に簡単に悟られるなんて礼司さんらしくないね。焼きが回るような年でもないのに」
礼司さんは“猟犬”の意図を図りかねて、雫との距離感を気にしていたのかもしれない。
想像にすぎないが、礼司さんも俺と同様に、蓮の事件の真相を語るべきか悩んでいたのだろう。その僅かな動揺が所作に表われたのだと考える。
「それに礼司さんが死んだこともだ。あれも何か裏があるに違いない。ほんの一、二年の間にこれだけ死人や行方不明者が出るのはおかしい。あれが最後の一押しだった」
実際、警察も礼司さんが殺された可能性を疑っていたので、その点に関しては正しいはずだ。
確かな根拠はない。だが、沙緒里さんが教えてくれた重要な事実――礼司さんが死ぬ前に、この屋敷にいる人たちが面会していたという話は、その事実を示唆している。
礼司さんは何者かに殺されたのだと。
「……由貴くんも知っていたのだろう? 話してくれるか?」
「ああ」
最早隠す必要はない。一度覚悟を決めると、これまでの葛藤が嘘のように消え去っていった。まるでそんなもの最初から無かったかのように。
きっと俺は心のどこかでこうしたいと願っていたのだろう。自分なりにあの過去にけりをつけなければ先へは進めないと。そう思いつつも、放逐されてから燻り続けていたことに内心苛立っていたのだ。
だからこれは、その最初の一歩だ。
「蓮は――事故で死んだんじゃない。俺が殺したんだ」
俺の声は、自分でもよくわかるほど透き通っていた。