大隅登の告白 ‐中編‐
登が語るところによればこうだ。
去年の六月半ばのことだ。その日は日曜日であった。
昼の三時を過ぎた頃、寧が学校の友人宅へ出掛けたのを見送った登は庭に出て花壇の手入れを始めた。他の誰もが外出していて、邸内には登の他には警備のメイド人形だけという寂しい状況だった。曇り空の下、やや涼しい空気に肌を晒しながら一時間程作業していたという。
ふと、屋敷の正面の方角へ目を向けた登は、そこに見知らぬ男の姿を見た。スーツ姿の三十代くらいの痩せぎすの男だ。道路脇の樹木に背を傾けてじっとしていた。
一見すると思索にふけっているかのように見えた。だが、その男を何気なく見つめている内に、登は不審に思う気持ちが強まっていった。男は屋敷へは全く目もくれないで、ただ立っているようであった。しかし、時折――ほんの一瞬程度だが観察するような視線を屋敷へ向ける時があった。登はそれを見逃さなかった。
男は庭にいる登には気づいている様子はなかった。丁度草や木の陰で見えづらい位置にいたのが幸いしたのだろう。登は男からは見えない位置へと慎重に移動し、男の監視を始めた。
不埒な輩が『同盟』関係者に害を成そうとするのは珍しくない。その中には、関係者の家に放火したり、破壊行為を行う者もいる。御影家も過去にそういった事件に見舞われたことがあったらしい。俺が引き取られてからは一度もなかったが。
妙な男もその類かもしれないと、登は警戒した。
それから十分ばかり監視は続いた。男も登も一歩も動かない。男は屋敷を、登は男を観察する。男は相変わらず自分自身が見張られていることに気づいた様子はない。
男はこのまま見ているだけか、それとも何らかの行動に出るのか。
時間と共に登は徐々に焦れる。
そして――その緊張は突如破られた。
突然、男が何かに気づいたように頭を景色の奥へと向ける。釣られて登もそちらへ目を向ければ、一人の人物が男の立つ方向へと真っ直ぐ歩いてきていた。男も手を挙げて、その人物へと歩み寄った。
それを見ていた登は思わず息を呑んだという。現われた人物は登のよく知る人物であったからだ。
その人物は男に対してとても嫌そうな表情を浮かべ応対した。それから少し会話を交わした後、二人は連れ立ってどこかへと行ってしまった。
登はどうすべきか少しの間逡巡してから二人を追うべきだと判断した。近くにいたメイド人形に簡単な指示を出して留守を任せ、二人が消えた方角へと急いだ。
二人の姿はすぐに見つかった。場所は屋敷に程近い小さな広場。近所の子供達が遊び回っているのを眺めるようにベンチに座っていて話をしている最中であったという。
登は丹念に足音と気配を消し、背後から忍び寄る。そして、二人の会話がぎりぎり聞き取れる距離まで近づくと、様子を窺った。
二人の会話は途中からであったが、登はその内容をほぼ全て記憶していた。
「だから言っているでしょう? 彼にはお父さんの話を伝えただけです。それ以上のことは何もありませんよ」
男はもう一人の人物へ、弁解するような言葉を口にする。
もう一人はそれを受けて男を睨みつけた。
「……それだけなら、どうしてあれ以来蓮の行動に不審なところが出たの? その後だよ、あの事件が起きたのは。あれはあなたのせいじゃないの、浅賀さん」
「そこまでは知りかねます。ただ、私が何かしたとお考えであれば推測違いだと断言しておきましょう」
浅賀と呼ばれた男は嘲る調子を含めて答えた。口の端が歪んでいて、小馬鹿にした表情を浮かべていた。
会話の中に出てきた名前を耳にして、登は身体が震えるのを感じた。
聞き違いでなければ、それは亡き友人の名であった。
この二人は一体何を話しているのか?
そんな疑問が頭を占める間にも、会話は続いた。
「じゃあ教えて、鋭月が蓮に伝えようとした話って何?」
「残念ですがプライベートな話題ですのでお話しできません」
「それが肝心なんだけど?」
「そう言われても困ります。ただ――鋭月さんが蓮さんに教えようとしていた話を、私が代わりに伝えた。それは真実と断言します」
今度は鋭月の名が出てきて、いよいよ登の警戒心は最大まで上昇した。これはもう只事ではない。二人は鋭月と蓮の間にある何らかの事情について語り合っているのだ。
男が屋敷の近くにいたのは、もう一人の人物――“彼女”が現われるのを待っていたからに違いない。
浅賀は立ち上がると、愉しむような目で少女を見下ろした。
「まあ、場合によってはお話しする機会が巡ってくるかもしれません。ですからそう怖い顔なさらないでください」
浅賀の視線を受けた少女は表情を変えないまま、淡々と言葉を発する。
「……一つだけ言っておく。もし、今後寧や他の皆の身に何かあれば……そのときは絶対にただでは済ませない。たとえどんな邪魔が入っても必ず殺す」
言い終える瞬間、殺気が周囲の空気を震わした。それは離れた場所にいる登がはっきりと感じ取るほどであった。それでいながら広場で遊んでいる子供たちには殺気が当たらないように、器用に調節されて放たれていた。無邪気に遊ぶ声が、ほんのすぐ傍の出来事に全く気づいていないことを示している。
だが、浅賀は真正面からそれを受けてなお平然としていた。それからやれやれと言わんばかりに首を振る。
「ですから私に他意は一切ないと説明したでしょう? とにかくもう私の周りであれこれ嗅ぎ回るような真似はやめてください。その方がきっとあなたのためになりますから。次はもっと和やかに語り合いましょう御影紫さん」
「紫が……?」
「ああ」
登の口から明らかにされた事実に俺は戸惑うしかなかった。俺は浅賀と密会していたある人物とはてっきり五月さんだとばかり思っていたからだ。雫と凪砂さんも俺と同じ考えだったのだろう、二人とも目を大きく開いていた。
「どうして紫さんと浅賀が? その話を聴く限りじゃ紫が浅賀のことを探っていたように思えるが……」
「ああ、その時は二人がどういう関係なのかわかんなかったけどさ、ただあの時の紫お嬢の顔マジでヤバかった。あんな怖い顔してるの見たことねえ」
登は当時の様子を思い出したのか身体を震わせた。
俺は紫が激しく怒る場面を一度も見たことがない。マイペースな性格だった彼女は、敵対者にも感情を強く出すことはなかった。強大な力はあれどろくに喧嘩をしたこともない。何かトラブルに巻き込まれてものほほんとしているような少女だった。
その紫が怒りを覚えるというのは、彼女をよく知る俺たちにとっては想像し難い話だ。
「それで口止めされたっていうのは?」
登はこの秘密を黙するように“本人から頼まれた”と言っていた。それは奴が盗み聞きしていたことを紫に悟られたことを意味している。
その点を指摘すると、登はばつが悪そうに表情を歪めて頭を掻いた。
「バレないように見てたつもりだったけど紫お嬢には通用しなくてよ。浅賀がいなくなった後でこっち振り返って“何してるの?”って睨みつけてきたぜ」
あれもなかなか怖かった、と語るその顔には薄ら冷や汗が滲んでいる。
「一体何の話をしてたのかは訊いたんだ。蓮の名前も鋭月の名前も出てきたしな。だから……対立派と関係のある話かなと思って」
一瞬口籠ったのは、雫のいる前で蓮の事件について口にするのを避けようと思い直したからだろう。雫の様子を確認するが少し眉を動かしただけで大きな変化はない。それよりも何か考え込んでいるらしく、一言も発さない。
「で、蓮とか鋭月のこと昔から人で、蓮についていろいろ話を訊いたって言ったんだけど、どう考えても嘘なんだよな。全然そんな感じには見えなかったし。大体嗅ぎ回ってただの、殺すだの明らかに物騒だろ」
「それでも今までその話黙ってたんだろう?」
「そりゃ絶対誰にも話すな、ってマジな顔で脅されたから」
「お前……」
そのまま言いなりになるのもどうなんだと呆れたが、登は仕方ないと言うように首を振った。
「お前は見てないからそう言えるんだろうけど、滅茶苦茶必死な顔だったんだぞ。旦那にも絶対言わないでくれ、あくまで“個人的な問題”だからって」
個人的な問題というのは明らかに嘘だろう。紫が鋭月と浅賀の関係を知っていたのであれば、当然その背景を探っていたに違いないのだから。登もそれくらいは察していたはずだ。
「でも、放置しておくのもあれだし……だから“最低限のこと”だけ説明しろって言った。それでひとまず他の人には黙ってやるからって。そうして聞きだしたのが……その、鋭月が蓮宛てに何か伝言を残していたらしいって話だったんだ。それを伝えたのが蓮が死ぬ一ヶ月くらい前のことで、紫お嬢はそのことを探ってたんだ」
先程の話の中にも出てきた二人の会話の根幹を成す部分だ。この会話の内容を信じるなら、浅賀は実際に鋭月からの伝言を伝えたらしい。その内容は不明ときた。
何故、奴が逮捕されてから長い時間が経過した後に奴の言葉など伝えたのか。しかもそれは蓮が凶行に及ぶ直前のことだった。
それにそもそも鋭月が伝言など託すのかという疑問もある。二人の親子仲は決して良好とは言えなかった。蓮の母親が密告した件からわかるとおり、鋭月は家庭の蔑ろにしていた。そんな男が息子宛てに後悔や懺悔の言葉を語るとは思えない。何より鋭月に限ってはそんなことあり得ないと誰もが考える。
もしや――と胸の奥でざわりと不安が音を立てる。
動機のわからない蓮の凶行。その原因となったのがこの伝言ではないのか?
蓮が寧の命を狙った理由が、この伝言に隠されているのではないか?
それが正しければ紫が浅賀を嗅ぎ回っていたのは、それが事実かを確かめるためだと推測できる。何らかの事情でこの伝言の存在を知った紫は、そのメッセンジャーたる浅賀に辿り着いた。
脳内で過去の断片が繋がり合うのを感じた俺は、そのまま思考の海に沈もうとした。
それを破ったのは、突然耳に入った冷たい声だった。
「……待ってくれ。蓮くんが死ぬ前に鋭月の言葉を伝えられたということは……彼が死んだのはそれに関係しているのか?」
絞り出すような雫の声にはっとして顔を向けると、紅い瞳に静かな、しかし確かな激情が浮かんでいた。
「……雫さん?」
訝しげに凪砂さんが声をかけるが、肩を震わせたまま反応しない。身体が動きそうになるのを必死で抑えこんでいるようであった。
「何を言っているんだ? 蓮が死んだのは別にそれとは――」
「やはり蓮くんの死はただの事故ではなかったのだな?」
雫の口から出た台詞は他の全員を硬直させた。
今、彼女は何と言ったのか?
「雫、君は――」
「そうなのだろう?」
紅い瞳に宿る悲しみが俺を射抜く。そこには確信の色があった。
その時、俺はようやく理解した。
真実を明かすまでもなく雫は知っていたのだ。
蓮の死の裏に隠された秘密を。