ほんのささやかな和解
「……どういうことだ? 彩乃がその店に通っていた?」
珍しく動揺した表情を見せた凪砂さんが俺にそう訊いてくる。。
俺は信彦さんから聞かされた話を、皆に対して説明した。この場に至っては最早隠す必要もない。
「そういうわけで、俺は信彦さんから彩乃の素行調査も頼まれたってわけだ。こっちは防衛自治派との関係だし、まだ打ち明ける段階でないと思って黙っていたんだが……」
「新事実が明らかとなった以上、そうはいかないな」
凪砂さんが重々しく述べるのに、俺は無言で頷くしかなかった。
単に防衛自治派との問題であれば、ここまで深刻になることもなかった。対立派と比較すればその活動はまだ優しい。血統種の排斥運動をしているとはいえ重大な事件を起こすことはなく、それに関与していたとしても観察を要する程度で済んだ。
だが、実際はそうでなかったとしたら――話は大きく変わってくる。
クラブに通っていた目的が、防衛自治派ではなく桐島との接触であったとしたら。彩乃が対立派の関係者と繋がっていたとしたら。
内通者の正体が彩乃だったとしたら。
そこまで考えて俺は一旦頭を冷やす。少し思考に熱が入り過ぎた。いきなり彩乃に疑いを持つのは流石に早計だ。冷静に一つずつ整理していこう。
まず、桐島との接触がイコール内通であるとは限らない。彼女は立花明人と違い、対立派に属していたという確たる証拠がない。状況的には黒だが、彼女は浅賀の裏の顔を知らなかったかもしれない。クラブに出入りしていたのことも、彼女が防衛自治派に属していたというだけに過ぎないと説明することも可能だ。
次に、仮に桐島が対立派であり、彩乃がそれを承知で接触していたという説が、まず考えにくい。なにしろ対立派は彼女の母親の仇であるのだ。それがどういう経緯で手を貸すことになるのか、想像しにくい。
何事にも絶対はない。だが、この推測に限っては突拍子もないと言わざるを得ない。その上十分な判断材料に欠けている。今は保留だ。
とりあえず二人について、加治佐に一つだけ確認してみることにする。
「……彩乃は桐島と面識があるのか?」
「ありますよ。そちらは確認済みです。店で二人一緒に何か話しているのを見ていた人がいます」
両者に接点はありか。それなら次は二人の関係性についてだ。彩乃は桐島の素性をどこまで把握していたのか。その答え次第では動き方を変えなければならない。
それにしても彩乃の問題がここで顔を出すのは、本当に予想外だった。
「参ったなまったく。こっちの問題は後回しにするつもりだったのに」
「由貴、御影家の中でこのことを知っているのは信彦さんの他には彩乃の家族だけで間違いないのか?」
「ええ、後は死んだ礼司さんぐらいですね。あの人も誰かに喋ってるってことはないでしょう」
元々口の堅い人であったから、その点は信用していいだろう。
「ふむ、それじゃあ時間を見つけてその店にも行ってみるとしようか。私たちが直接出向いた方がいいだろう」
国内の血統種の中でも重要な立ち位置にいる俺たちが姿を見せると相手側にいらぬプレッシャーをかける恐れがあるが、今回ばかりは事の重大さから自重するわけにはいかない。こちらがこの問題を重要視しているとアピールする目的もあり、相手側の迂闊な真似を防ぐことができるからだ。
店にアポを取るのを凪砂さんに一任して、俺たちは最後の失踪者の話題へと移る。
「さて、それじゃあラスト四人目についてですが……先に言ってしまうと、この人に関しては特にわかったことはないんスよね」
「何も怪しいところが無かったのですか?」
「検査施設によく出入りしていたとか、院長や浅賀から腕を買われていたという意味では裏がありそうですが、それ以上のことは出てこなかったッス。鷲陽の元職員の話では、他の人とはあんまり親しくしてなかったらしいッス。人付き合いの悪い人だったとか」
「ええと……確か資料によれば、名前は九条詩織だったか?」
加治佐がタブレットにその九条詩織なる人物の写真を映し出してみせる。見れば髪を後ろで束ねた少し気の強そうな目をした若い女性が画面に佇んでいる。右目の下の泣きぼくろが特徴的だ。
「彼女は内科の医者ッスね。立花と同じく院長らが連れて来たって話ッス。性格は……あまり人付き合いが良い方じゃなかったみたいッスね。桐島のように嫌われていたわけじゃないんですが、どちらかといえば他の人とは一線を引いて付き合う、みたいな感じで」
写真を見る限りでは美人の部類に入りそうだが、異性との交際も調べられる限りではなかったという。実際男性職員の中にアプローチを仕掛けた者がいたらしいが、にべなく断られたらしい。
「両親とも既に死別していて身寄りもいないッス。プライベートを探っても完全に空振りで……この人の線から情報を得るのは難しいッスね」
加治佐ががっかりしたように溜息を吐く。そんなこともたまにはあるだろうと慰め、俺は改めて四人の失踪者を頭に浮かべる。
五月さんと密会していた副院長、対立派傘下の製薬会社にいた薬剤師、嫌われ者の看護師、そして孤独を好む医師。
彼らを繋ぐ線は火災現場となった施設。彼らは一体何を知っていたのだろう。何故姿を消してしまったのだろう。
それを知るための何かが『WHITE CAGE』にあるのだろうか。
「そろそろ屋敷に帰るか。予定外のトラブルがあって長引いてしまったからな」
凪砂さんがそう言い、ふと店内の壁にかかった振り子時計に目を向けると午後四時半を回っていた。昼前から浅賀邸に出向いていたので随分と長い外出となった。屋敷の様子も気になるので凪砂さんの提案に従うとしよう。
「屋敷の人たちも心配しているだろうな。あんな捕物になるなんて思ってもいなかっただろうに」
出掛けた先に指名手配犯だからな。こちらが無傷だったのが幸いだ。誰か怪我をしていたら寧が大騒ぎするに違いない。
「部下が屋敷内の人たちの様子を報告してきたが……今のところ、里見が逮捕されたことを知って怪しい動きを見せた人はいないそうだ」
「五月さんも?」
「ああ、対立派と遭遇した話に驚いていたが、あとは変わりないらしい。他の人も同様だ。強いて挙げるなら、彩乃が里見のことを聞いて珍しく興奮した様子だとか」
彩乃の反応は概ね予想通りだ。特に怪しむべきところもない。
他の皆に関しても目に見える変化はないようだ。ただ、今後の動向には念のため注意した方がいいかもしれない。
「まあ、屋敷の方は皆さんにお任せするッスよ。有意義な時間を過ごせて良かったッス。捜査に加えてくれたささやかなお礼に、ここのお代は私の方で持つッス」
加治佐は先に席を立ち店主に代金を支払うと、一度俺たちを振り返り例のにこやかな顔を見せつけた。
「あんたはどうするんだ?」
「私は別の方面から――そうッスね、里見が囚われの身になったことで対立派の残党の方に新たな動きがあるはずですし、そっちを探ってみるとします。まだ、連中のアジトは判明してないんでしょう? ちょっと私にやらせてほしいッス」
「大丈夫なのか?」
「無茶はしないッスよ。私だって万能じゃないッスから。ちゃんと引き際は見極めるッス」
再び背を向けた加治佐に雫が心配の色濃く訊ねるが、彼女は芝居がかった調子で両腕を大きく広げてそう答えた。
「わかった。一応言っておくが、入手した情報は漏らさず明かしてくれ」
「了解ッス。そちらも頼むッスよ?」
加治佐は店を後にする。
俺たちも店主に挨拶すると、間もなく店を出た。
夕暮れの空を駆けて屋敷へ帰ると、意外なことに辰馬さんが外で俺たちの帰宅を待っていた。
「ようやく帰ったか。報告は既に受けている」
アンコロから降りて近づくと、辰馬さんはいつもの素っ気ない口調で告げる。ただ、その表情が今までと違いどこか柔らかになっている印象を受けた。
「珍しいな、辰馬さんが出迎えるなんて」
「昨日の今日で早速浅賀の家へ赴いたら対立派と遭遇したとあってはな、五月のことを確かめるつもりだったのか?」
浅賀を知っているだけに辰馬さんは俺の意図を読んだらしい。正確には鷲陽病院の事件の捜査がメインであるが、それには触れずにただ頷いておいた。
「まあ、そっちの収穫はゼロだったが。代わりに別の“大物”を見つけたよ」
「こうも立て続けに事件が起きてはかなわん。今はまだ伏せてあるが、いずれ世間にも伝わるだろう。マスコミの数がさらに増えるぞ」
礼司さんの死から数えれば、ここ最近発生した『同盟』及び対立派絡みの事件は四つになる。殺人や襲撃との関連性を突き止めようと、報道が過熱するのは目に見えている。流石に加治佐ほど堂々と動く記者は少数だと思いたい。
「済まない。恐らく辰馬さんと隼雄さんに対応を任せることになりそうだが……」
「それが私たちの仕事だ。お前はお前の好きにやれ」
マスコミ対策は『同盟』に押しつけることになってしまう。そう思って詫びようとしたが、辰馬さんから返ってきたのは意外な言葉だった。
驚いた俺がその顔を見つめると、辰馬さんは半ば呆れたように言った。
「事件を嗅ぎ回っているのは知っている。今更余計なことはするなと文句は言わん。どのみち私に決定権があるわけではない。ただし、くれぐれも立場を弁えて行動しろ。いいな?」
そう言い捨てると辰馬さんは屋敷の中へと消えていく。俺はしばらく目を丸くしたまま棒立ちしていた。
「ふーむ……あれは君を認めてくれたって解釈していいのかな?」
凪砂さんが耳元で嬉しそうに呟く。
昨晩の対決は結果的に辰馬さんの凝り固まった心を解すことに成功したらしい。今の彼の言葉には以前のような刺々しさは消え失せている。恐らく彼なりに俺を評価してくれようとしているのだと思う。章さんを補佐に推薦すること自体は諦めていないだろうが、もう俺を貶める真似はしないという確信に近い予感があった。
「……ええ、そうだといいですね」
永い間関係の悪かった伯父とのささやかな和解を前に、俺は感慨深く答えた。