疑惑の人々
朝の十時を過ぎた頃、俺は敷地内にある訓練場へと足を運んでいた。
訓練場は三年ほど前に建てられた施設で、血統種が制限なく能力の訓練を行うことを目的として設計されている。時には周囲に甚大な被害を及ぼすことのある能力を、不自由なく行使できる環境はあまりない。その手の特殊な施設は建設に莫大な費用がかかるからだ。
それを敷地内に立てようと言い出したのが礼司さんだ。昔、紫と蓮が空き地で実戦形式で訓練しているのを観た礼司さんが「どうせなら専門の施設を造ってしまおう」と建ててしまったのだ。模擬戦用のフィールドは屋内と屋外に一つずつあり、模擬戦の様子を撮影するためのカメラや計測機器も備え付けられている充実ぶりだ。
礼司さんは紫が周囲に打ち解けるようになったのがひどく嬉しかったのか、娘のために一肌脱げたと満足していた。意外にも親馬鹿な一面があったんだなと感心したものだった。
ここへ来たのは俺と寧の“調整”をするためだ。
俺が寧の補佐に選ばれた大きな理由が、感情や意志の強さを具現化する能力を保有していることだ。この能力は他者と“同調”することでその相手を強化するというサポートも可能である。礼司さんはこの力を寧のために活かしてほしいと俺に願い、その補佐とするべく俺を鍛え上げてくれた。
俺の“同調”は対象との相性が良ければ良いほどその効果が増す。以前の俺たちは充分すぎる相性の良さを発揮していたが、一年以上離れて暮らしたことで変化が起きていないか確認する必要があるのだ。
屋外フィールドへ入ると既に寧、隼雄さん、五月さん、登、さらにもう一人小柄な和服姿の女性が待機していた。
和服の女性は華奢な身体つきでどこかの令嬢のような出立だ。伸び気味の前髪から小さな瞳が見え隠れしているので表情を読み辛い。この女性こそ礼司さんと同じく『同盟』の最高幹部であり、今回の当主就任式に『同盟』の代表者として招待された名取小夜子さんだ。
一見するととても荒事に向いていないと思えるが、礼司さんと双璧をなす国内最大クラスの血統種であることは世間の誰もが知っている。
小夜子さんはつい先程到着したばかりで、“同調”の確認を行うと知るや自分も見学したいと言い出した。断る理由もないのであっさり許可された。
「準備はいいかしら?」
「ちょうどいい塩梅だ。見学者もいてほどよく緊張している」
「精々格好悪いところ見せないようにしなさいよ」
始まる前から昂ぶっている寧に苦笑する。まずは寧が単独で能力を発動したときの結果を測定するので、俺は小夜子さんの隣へと行く。
寧は大きく背伸びをすると、前方に立てられたダミー人形に人差し指を突きつける。次の瞬間、巨大な雹が空中に出現した。
礼司さんや紫と同じ能力――“天候操作”である。
寧は不敵な笑みを浮かべると同時にダミー人形に雹を発射する。雹は一直線にダミー人形の上半身を目がけて飛んでいき、直撃を受けた上半身は粉々になった。我ながらよくできたと寧は満面の笑顔を作る。
「前に見たときよりコントロールが上達しているわね」
小夜子さんが静かに感想を述べた。
「ここで訓練するようになってから大きく伸びるようになりましたよ。礼司さんは特に精密な操作を重視するように教えていましたから」
“天候操作”は狭い範囲で使用する際に精密なコントロールが不可欠となる。かつて紫が公園の異界で犬蛇の群れを殲滅したとき既に並外れたコントロールを見せつけていたが、あれほどの腕前の持主はそうそういない。
寧はその点紫に劣っていたので、姉に追いつくために努力を重ねた。その成果が去年の冬辺りから徐々に実を結び始めたのだ。
「なるほど、礼司も単純な威力よりもいかに器用に操るかが重要と唱えていましたからね」
小夜子さんは過去を懐かしむように遠い目をした。
計測機器のモニターを確認していた登が、前回の結果より威力とスピードが共に上がっていることをこちらへ伝えた。命中した箇所も上半身の中央部分で操作性も文句なしであった。この調子で伸びていけば礼司さんを超える未来も現実となる。
五月さんが指を鳴らすと、ダミー人形の残骸が消え去り新たな人形がフィールドに設置された。地面に転がっていた破壊された人形も一瞬で消えてしまう。
「いつ見ても便利な能力よねあれ」
「五月さんは自陣の中なら強力ですから」
人形を召還して自在に操作する――それが五月さんが持つ血統種の能力だ。
五月さんの先祖は人形を囮にして獲物を捕える魔物だ。美しい女性に似せた人形を作り出して、男を釣って異界まで誘い込み食い殺すという物騒極まりない生態をしていたという。それが何の因果か人間と結ばれ、人形を生み出す能力が受け継がれたという。
五月さんは人形を使用人代わりとして家事を手伝わせている。多数の人形を同時に操作すれば大勢の来客でも一度に捌くことができ、パーティでは大活躍する。この能力があるので屋敷の使用人は最低限しかいない。
「さあ、あなたの出番よ。思い切りやって頂戴」
俺は寧の背後数メートル離れた所へ移動すると、両手の掌を合わせて集中した。静かな興奮が血液に溶け出して全身を巡るような感覚に陥る。
寧の背中に目の焦点を合わせて“同調”を行う。俺と寧の精神の波動が重なる。心臓の鼓動すらも合わせるイメージを保ち能力を発動し続ける。
寧にもその感覚が伝わったのだろう、こちらを振り向いて微笑む。そして掌を空に突き上げ先程よりも遥かに大きい雹を作った。人形を包み込むほど巨大な雹は、今度は人形の全身を砕いてしまった。
五月さんと登は流石と言うように頷き、隼雄さんは口笛で感嘆を表す。小夜子さんも驚きを隠せない様子だ。
「お見事! 心配することなかったじゃない」
「結果も最高記録だ! 相性悪くなるどころか良くなってるぜ」
「どうなるかと思いましたが杞憂だったようですね」
寧が軽い足取りでやって来てハイタッチを所望した。背が低い寧がぴょんと跳ねて掌を叩くと、ぱちんと小気味よい衝撃が走った。
「最っ高! 今までで一番調子良かったわ! あなたも腕を磨いたんじゃない?」
当然だ。家を出てからも訓練を怠ったことは一度だってない。礼司さんの養子としてこれ以上彼の名を辱めないように心に誓ったのだから。
「どうやらこの一年間腐っていたわけではなさそうね。それだけは安心したわ」
小夜子さんからも合格を貰った。『同盟』最高幹部に褒められて俺も悪い気はしないので、相好を崩してしまった。
小夜子さんの好感触を見た隼雄さんはここぞとばかりに俺のアピールを始める。
「ねー小夜子さん、これだけサポートに特化してるなら寧ちゃんの助けになること請け合いだよ。昔のことも十分反省しているんだし認めてあげてもいいと思うんだよね」
「それとこれとは別よ。彼が相応しいかどうかはゆっくり決めるしかないわ。何しろ急な話だったんだから……とりあえず実力だけなら認めてもいいけど、ね」
小夜子さんは礼司さんの旧友ではなく『同盟』の代表者として来ているので、その点は譲るつもりはないようだ。
「全く……礼司も後のことで揉めないように決めておけばよかったのに。こういうことは事前に相談してもらわないと困るわ。今度の就任式だって少数で執り行うなんて……他にも来たがっている人はいたのに」
「そこはちょっと意図が読めないよね。由貴くんを嫌っている連中を排除するつもりかなって考えたけど、それなら他に招待していい人いるはずだし」
疑問を呈する二人を素知らぬ顔で俺は見つめる。
今回招待されたのは裏切り者の候補者ばかりで、この場を利用して裏切り者を炙り出す目的があるなどとは露ほども思わないだろう。候補者の多くは普段会う機会の無い人なので、このような場でないと話を訊くこともできない。
与えられた時間は三日だ。今日全員が集まり、明日に就任式を執り行い、明後日に解散となる。この間に調査を進めて手掛かりを発見、可能であれば相手の正体を見極めた上で捕縛したい。
「どうしたの由貴? なにか考え事しているみたい」
寧が不思議そうに俺の顔を覗き込んでいることに気づいた。
「いや、なんでもない。これから大変になるなと考えてただけだ」
「ふーん……それならいいけど。昨日秋穂さんから聞いたけど、あなた私の補佐になることにあまり興味ないらしいわね」
「なんだ、話していたのか。別に嫌ってわけじゃないぞ。お前の助けになれるのは嬉しいと思うし……ただ地位なんかに拘らないってだけだ」
「……そう。それじゃあこの家に帰りたくないってわけじゃないのね?」
寧の表情に陰りが生まれる。その瞳が一瞬不安に揺れたのを見逃さなかった。
「当たり前だろう。家族の下に帰りたくないなんて考えるか」
「それならいいけど……でもやっぱり口出しされないためにも地位は必要じゃない? 私はあなたが傍についてくれるなら安心できるわ」
期待に満ちた眼差しで見上げてくる寧に対して、俺は「……善処するよ」とだけ返した。
十一時、御影邸の居間で隼雄さんと寛いでいると玄関の呼び鈴がなった。
「辰兄かな、そろそろ着くって電話あったから」
玄関に行くと五月さんが三人の男性を出迎えていた。
寧と話している口髭を生やした恰幅のいい中年男性が、礼司さんの兄である辰馬さんだ。この街を含む一帯を管轄する『同盟』の支部でトップを務める要人であり、俺を屋敷から追放した勢力の筆頭でもある。今回寧の補佐に自分の息子を推薦したことから俺を敵視しているのは明らかだ。今も俺の姿を視界に入れて不快そうな顔をしている。
辰馬さんの後ろには若い男性が二人並んで立っている。
すらりと背の高い端正な顔立ちの青年が長男の章さん、髪を茶色に染めて黙っているチンピラ然とした少年が次男の慧だ。
辰馬さんが補佐として推しているのは章さんだ。彼は現在父親と同じ支部の血統種犯罪の対策課に勤めている。主な仕事は対立派による凶悪犯罪の捜査だ。正義感に満ち溢れる期待の若手と専らの評判であり、辰馬さんは方々で自慢している。
それにひきかえ慧は見たままの不良少年だ。高校には通っているが遊びに興じて成績は落第寸前、父親との仲も悪い。
この兄弟は俺とも比較的仲が良い。御影家の若い世代は俺も含めて年が近い者が多く、一族が集まるときには大抵一緒にいるからだ。
五月さんが三人を客間へと案内していくが、俺とすれ違う際に辰馬さんが苦々しく吐き捨てた。
「のこのこと帰ってきたか、御影家の恥さらしが」
そのまま俺の反応を確かめることなく去っていく。
「露骨に嫌われてるねー」
隼雄さんが呆れた顔で口にした。
「元々嫌っていたのもそうだが、息子が『同盟』最高幹部の側近になれるかっていうチャンスだからな。良い顔するはずがない」
「まだ章くんを推すつもりなんだねー。個人的に彼は悪くないとは思うけどさ」
隼雄さんは章さんを高く評価しているようだ。確かに彼ならば、と考える者は大勢いる。
だからここで裏切り者の存在が重要となる。章さんが裏切り者であるなら補佐の座を狙おうとする可能性が高い。また父親の辰馬さんがそうであっても、やはり章さんを補佐にして間接的に影響を及ぼそうと企むかもしれない。
一方、次男の慧は最近父親はもとより章さんとも距離を置きがちで、別宅に入り浸ってろくに顔を合わせることもないらしい。故に普段どこで何をしているか把握できていない。
そんなことを考えていると、今度は章さんが申し訳なさそうな顔でやって来た。
「済まない、父さんが失礼なことを……」
「気にするな、以前からああだから今更思うことはない」
「そう言ってもらえると助かるよ。……俺はさ、今度のこと結構本気で目指しているんだ。御影家をこれから担う者として全力でやってみたいんだ。だから……由貴とはライバル、ってことになるけど……遺恨が残らないようにお互い頑張ろう」
俺の顔を真っ直ぐ見据えながら、章さんははっきりそう言った。相変わらずの好青年っぷりだ。人望を集めるだけのことはある。
章さんが辰馬さんを追って廊下を歩いていく。慧は先程からずっと黙っていて、二人の姿が見えなくなっても何の反応もない。
「どーしたのさ、慧くん。さっきから考え事?」
「え? ああ……」
声をかけられて我に返った慧はきょろきょろと周囲を見回して、二人が行ってしまったことに気づいたようだ。
慌てて後を追おうとするが……突然振り返り俺の顔をしげしげと見てくる。
「? どうかしたのか」
「あ、いや……何でもない」
慧は言い繕うような様子に首を傾げる。結局慧はそのまま行ってしまった。
「何なんだあいつ……」
「なーんか慧くんって礼兄の葬儀のときから変なんだよねー。普段ならもっと口数多いのに」
「葬儀のときから?」
「礼兄の死因が不明だってことやけに気にしていたっぽいね。ひょっとしたら謀殺されたかもって疑いもあるから、自分にも何かあるんじゃないかって気になったんだと思う。辰兄もそのあたり心配してたし、沙緒姉に至っては警備部を動員して戦々恐々としてたし」
「なるほど……」
だが――俺を妙に気にしているような態度は何だったのだろう。
慧の不穏な有様が頭の片隅に引っかかったままだったが、一先ず置いておくしかなかった。
午後一時過ぎ、招待された残り四人が到着した。
礼司さんの妹の沙緒里さん、その夫の信彦さん、息子の慎さん、それに娘の彩乃だ。
「……お待たせ」
沙緒里さんは腰まで伸びた白髪を棚引かせ、一歩一歩踏みしめるような足取りで現れた。もう四十になるのに瑞々しい肌と唇の艶が見る者を誘惑しようとする。このミステリアスな女性は突飛な言動で周囲を困惑させる達人で、俺は補佐の件とは無関係にこの人が苦手だ。
沙緒里さんの隣に立っている男性が信彦さんだ。パーマがかった頭に閉じたような細長い目が、どことなく人当たりの良さを想像させる。沙緒里さんより二つ年下で、『同盟』傘下の研究所に勤めている。朗らかな笑顔で妻の肩に手を回している。
「やあ、君が由貴くんだね。慎くんから話は聞いてるよ。初めまして、御影信彦です」
「……初めまして、最上由貴です」
信彦さんと出逢うのはこれが初めてだ。彼は俺がこの家を出てから沙緒里さんと結婚した人で、同じ伴侶を失った者同士どこか気が合ったらしい。
この夫婦の馴れ初めは、あるとき沙緒里さんが信彦さんの勤める研究所へ赴いたことにある。沙緒里さんは『同盟』警備部門の責任者であり、ある要人の護衛としてやって来たそうだ。そこで二人は出逢いやがて恋に落ちた――というのは隼雄さんの言うことだ。
二人にはそれぞれ子供が一人いた。沙緒里さんの息子の慎さん、信彦さんの娘の彩乃だ。
彩乃も今回初めて顔合わせする人物だ。中学校を卒業したばかりで春から『同盟』が資金援助している高校へ通うことになっている。
彩乃は父母共に人間であり、一族の若手組の中では唯一血統種でない人物だ。一族に馴染めているのか気になっていたが……。
その彩乃は全く関心がないという風で俺たちから離れた所にいた。一緒にいる慎さんが俺たちについて説明しているが、聞いているようには見えない。
「……」
俺と視線がかち合った彩乃は何か反応するわけでもなく、目を逸らしてしまった。なんとなく居心地の悪さを感じる。
「あの彩乃って子、こちらを完全に無視しているみたいなんだが」
「人嫌いなところがあるのよ。あまり私たちと関わり合いになろうとしないの。慎兄さんにはそれなりに気を許しているけど、私とは話どころか視線すら向けようとしないわ。今由貴にしたみたいにね」
寧がちらちらと彩乃のいる方を窺いながら小声で補足する。寧は彩乃に良い感情を抱いていないようだ。
こちらに気づいた慎さんが挨拶にやって来た。彩乃の態度について彼は申し訳なさそうに頭を下げる。
「ごめんね、彩乃のことどうか悪く思わないでほしいんだ。本当は就任式にも来るつもりはなかったんだけど、礼司さんから招待されたから泥を塗るわけにもいかなくて……」
「慎兄さんが謝ることないわ。あなたもいろいろ大変でしょう」
章さんといい慎さんといい、この一族の若手は身内に苦労するらしい。俺は二人に心から同情した。
「……まあね。母さんは僕を由貴の代わりとして補佐に据えることを諦めていないし、多分これから迷惑かけるかもしれないけど……」
「慎さんにそのつもりはないのか?」
「僕は補佐なんて柄じゃないよ。こういう仕事は寧に歩調を合わせられる人の方がいい」
慎さんは章さんと違って今回の件に前向きではないようだ。昔から表に立つより陰で動くことの方を好んでいた人だから当然の反応だろう。
「小夜子さんには後で辞退する意志を伝えるつもりだよ。……母さんは反対すると思うけどね」
沙緒里さんが慎さんを溺愛していることは周知の事実だ。彼女の前夫は御影家に恨みを持つ血統種の一団によって命を奪われた。その一団が対立派とも関与があることを知ったときの沙緒里さんの凄まじい激昂を今でも覚えている。それから間もなく、沙緒里さん指揮する警備部のチームによって犯人の一団は殲滅させられた。幹部含め多数の構成員が死傷したため、『同盟』もマスメディアを抑えるのに相当苦労したと聞く。
沙緒里さんのエキセントリックな言動が始まったのはそれからだ。慎さんに亡き夫の面影を重ね、彼の将来を栄光あるものにしようと手段を選ばなかった。今では警備部の責任者にまでのし上がったが、それ故に『同盟』内外の評判はすこぶる悪い。
「信彦さんと結婚してからは以前より落ち着いたみたい……ほんの少しだけどね。これから改善していくのを願いしかないよ」
「……そうだな」
そう言って慎さんは沙緒里さんの下へ戻り、彼女を連れて客間へと案内されていった。後から信彦さんと彩乃の父子がついていく。彩乃の無関心な態度は最後まで変わらなかった。
慎さんたちを見送った後、俺は自室へ戻った。
ベッドに腰掛け手紙に同封されたリストを眺めながら、しばし考えに耽る。
これで各務先生を除いた十二人がこの家に揃ったことになる。この中から礼司さんの言う裏切り者の正体を突き止めなければならないのだが……。
どうも納得できないことがある。礼司さんから届いた手紙の内容だ。
あれには十三人に裏切り者が紛れ込んでいると書かれていたが、一つ妙な点があったのだ。
礼司さんが裏切り者の存在に気づいた理由が全く書かれていないのだ。
何故その存在を知ったのか。何故この中にいると考えたのか。それらが一切記されていないのだ。
対立派と繋がりがあるというのもそうだ。蓮の事件が起きたとき、俺や蓮のみならず関係者は皆身元を徹底的に洗われたはずだ。それなのにどうして今になって?
俺は隼雄さんの部屋に向かった。彼に一つ確認したいことがあったからだ。
扉をノックすると隼雄さんはすぐに出てきた。
「隼雄さん、ちょっと訊きたいことがあるんだが……礼司さんからの手紙って隼雄さんが預かっていたんだよな?」
「そうだよ、自分に万一のことがあったときのためにってね」
「この手紙っていつ頃預かったんだ?」
「えーと……あれは去年の――そうだ、紫ちゃんがいなくなってからすぐだったね」
「紫がいなくなってから……」
「紫ちゃんが突然いなくなって礼兄落ち込んでたからね。もし寧ちゃんが一人残されることがあってもいいように準備したんだと思うよ。由貴くんを呼び戻したのもそういう意図があったんじゃないかな?」
俺の脳裏に今朝寧と交わした会話が蘇る。寧は補佐に就いてほしいというより、ここへ帰ってきてほしいと願っていた。
……考えればすぐわかることだった。寧の“家族”と呼べるのはもう俺しかいないのだ。今でこそ気丈に振る舞っているが、内心はかなり揺らいでいるに違いない。
「まあ……そういうわけだからさ、やっぱり由貴くんにはずっと寧ちゃんの側にいてあげてほしいな。勝手な要望だけど」
隼雄さんに礼を言い再び部屋に戻った俺は、胸の奥のもやもやとした感情を押し込めて手紙に関する考察を再開した。
礼司さんが手紙を書いたのは紫が失踪した直後。単なる偶然で片付けるには奇妙な符合だ。
紫の行方について礼司さんは何も知らないと言っていたはずだが……。
礼司さんが一体何を掴んでいたのか、これも調べる必要がある。
紫が消えた当時のことは人伝に聞いただけだから詳しいことはわからない。
幸い、と言っていいのか迷うが、辰馬さんと沙緒里さんが一年半前の事件を持ち出して俺を貶めようとしているので、それを話のタネにすれば紫の事件のことも探りを入れられるかもしれない。
……しかし、昨日もそうだったがどこに行っても過去がついてまわる。
あの事件は未だ御影家全体を縛りつけているようだ。
もし、紫の失踪と裏切り者の存在に関連があるとするなら……この仕事が終われば紫の居所もわかるのだろうか。
そう考えると漠然とした期待感が湧いてくるような気がした。