小さな門番
天狼製薬は国内シェア第二位の製薬会社だ。この会社はこの二十年ほどで徐々に経営を拡大していった会社であり、その原動力となったのが血統種向けの薬品研究である。
日本各地の異界から固有の植物を輸入してその研究を始めるようになってから、その成果を活かした製品を販売し始め、当時まだ成熟していなかった血統種向けの薬品市場を席巻した。
この陰に対立派――特に鋭月の派閥から多大な支援があったと明らかになったのは、鋭月逮捕後のことだ。鋭月は天狼製薬を足掛かりとして製薬業界に根を張り巡らしていたのだ。それも対立派の凋落により潰え、天狼製薬とその関連会社に徹底した捜査の手が及んだことは記憶に新しい。
俺の父は天狼製薬の法務部長であり、秋穂さんはその部下。母は総務部の従業員だった。秋穂さんによれば両親は社内恋愛の末にゴールインして、それからしばらくして俺が生まれたという。
母は結婚を機に退職して家庭に専念した。幼い頃、よく母に連れられて遊びに出掛けたのを憶えている。たまに秋穂さんが母の代わりを務めることもあった。記憶にある限りではそれなりに幸福な生活であったと思う。
それが崩れ去ったのが八年前。あの“事故”であった。
「クリア薬品工業は小さな会社でね、家宅捜査もそれほど時間がかからなかったんだが、当時は対立派との関連を決定づける証拠は発見されなかった。買収したのも単に支配を強めるための過程に過ぎないとされたんだ」
「それが、実際にはそうでなかった?」
「ああ、ここは鷲陽病院と同じだね。隠蔽が完璧に近く、捜査の目を免れた」
それだけ対立派にとって重要な拠点だったというわけだ。いずれも医療関係と来れば、そこに何か何でも隠し通したい秘密があったとみていいだろう。その秘密の中心人物といえるのが浅賀善則であり、奴の行方を追えば答えに辿りつける望みは大きい。
「浅賀はクリアに勤務していた元スタッフに定期的に接触していたことからして、ここがその薬の研究施設であったに違いない。礼司さんが遺した資料と合わせてクリアが黒だと納得させることは可能だ。再度家宅捜索することもできる」
「んー、でも大した成果は上げられないと思うよ?」
すっかり打ち解けた様子で西口が口を挟む。この十分ほどの間に警戒心が消えたような態度だ。自分が被疑者であることを忘れているのか、あるいは『同盟』に根回しして処罰を減免することと引きかえに知っていることを全て告白するという凪砂さんの取引(捜査が始まった頃に凪砂さんが提示した)に応じるつもりなのか。
「クリア薬品の本社は余所の街にあるんだけど、そっちは既に探りを入れてたみたい。だけど研究成果も含めて重要書類は全部破棄されてたみたいでさ、どうも浅賀が消えた後に自主的に行われたみたい。その研究について知っているのは浅賀とその元スタッフだけで、役員たちも何も知らないんだって。しょうがないよね、天狼にいた対立派が一掃されて以降は縮こまっていたような連中だし、放置しても害はほとんどないんじゃない?」
「役員たちは上の指示通りに動いていただけの小物か」
大方金で買われたか、脅されて逆らえなかったかのどちらかだろう。そういった企業経営者や役員はどこにでもいる。鋭月逮捕の折にも、相当な数が検挙されたという。
「それにしても……その薬は一体何の目的で作られたのだ?」
雫が腕を組んで不思議そうに唸る。
「何の目的って……治癒能力を抑制するためだろう?」
「ああ、それはわかるのだ。私が言っているのは、その理由だ」
「理由?」
「……普通、治癒能力はその性能が向上した方が良いだろう? そうなればより効率的に怪我や病気を治すことができる。それなのに何故、抑制する必要がある? これが促進するような薬なら納得できたのだが……」
「言われてみるとそうだな……」
一旦整理してみよう。状況から考えてあの火災の時に行われていた検査は、糸井夏美の治癒能力について何か調べることが目的だったと思われる。そこで何かしらの事件が発生し、あの火災が起き、夏美は失踪した。クリアで薬の研究が始まったのはその後、元スタッフが就職してからだ。
この二つが線で結ばれるとしたら、そこから何が導き出されるか?
「……いや、まさかな」
一瞬頭に浮かんだあまりに突拍子もない説に、我ながら苦笑する。非論理的で、こじつけもいいところだ。
「何か思い浮かんだのか?」
「いいえ、現段階では何とも言えません。もう少し情報が得られればいいんですが」
俺の顔を覗き込む凪砂さんに首を振って答える。彼女は特に気にした風もなく、さらに話を引き出すため西口に質問を始めた。
そうだ、こんな説は生じた事柄をただ強引に結びつけただけではないか。
あの火災は、夏美の治癒能力が原因で発生した。
そんな馬鹿げた話があるわけないのに。
捜査に進展が訪れたのは、それから十五分後、俺たちが異界解除時に放出されたあの書斎を捜索している時のことだった。
「この本棚の本……中身がない?」
書斎に並んだ二つの本棚の内の一つを調べていたところ、そこに詰められていた書籍が全てはりぼてであることに気づいた。凹型の薄いプラスチックにカバーをかけただけのものを本棚に並べていただけであったのだ。逆にもう一方の本棚は全て本物の本だ。
「これはもしや……」
俺の意図に察した中井巡査が本棚を抱え、横へ移動する。大柄な彼に持ち上げられた本棚はその背後に隠れていたものを露わにした。
「隠し金庫か。オーソドックスだな」
壁の中に埋め込まれた金庫を眺めながら凪砂さんが呟く。黒塗りの金庫にはディスプレイとナンバーキーが備え付けられている。
「ああ……これ見たことあります。御影が利用している店にも置いてあるやつですね。血統種対策用の特殊金庫で、番号入力以外の方法で強引に開けた場合に中身が焼却処分されるやつです」
この御時世、多種多様な血統種の能力にかかればちんけなセキュリティなど当然のように突破される。こんな物騒な物が重宝されるようになったのはそう言った背景がある。この手の金庫は大きな会社等ではよく使われている。実際にその効果が発揮されないのが一番良いのだが、ならず者相手には見せ札として丁度いい。
「どこかに番号書いた紙が貼ってないのか?」
「無いみたいだな。ということは……」
この部屋の主はありがちなミスを犯していないようだ。ならば番号は紙に書いて憶える必要のない組み合わせだったと考えていい。
浅賀にとって暗記するのが容易かったか、あるいは彼にとって意味のある数字であったか。
「この中に例の薬があるんだろうけど……」
「一定回数連続で入力ミスしても焼却されるから、総当たりはできませんね」
場所は判明したが、その門番を突破するにはまだ早かった。
結局、警察に浅賀家とその一帯の警備を任せてから、俺たちはその場を後にした。
この後、加治佐牡丹との面会が控えている。あちらも一筋縄ではいかないようであるし、今から若干気が重かった。