異界に血の雨が降る ‐炎の真価‐
互いの最初の一撃は、いずれも相手に傷を負わせることはなかった。
俺は光球を放った直後に右へと跳ね、里見は左腕から巨大な棘を生やすと、それを胸の前に翳して盾のように構えた。
光球は棘に直撃して、大きく破裂する。
回避するとばかり思っていた俺は、少しだけ驚きを顔に滲ませた。
光球が直撃した棘は大きく抉れていたが里見は平気な顔をしている。損傷した棘は逆再生するかのように腕の中へと消えていく。
棘は身体の一部であるが、失っても痛みはないようだ。痛みを堪える素振りさえ見せないということは、神経は通っていないのだろう。棘をいくら攻撃しても里見自身にダメージはないということだ。
しかも大きさ、太さ、長さは自由自在。今のように巨大な棘を盾代わりに使われるとどうにもならない。恐らく棘は能力酔いにならない限りは、いくらでも生成できるはずだ。
俺はアプローチを変えてみることにする。
細く矢のように尖らせた感情を数本生成し、里見へ向けて放った。
貫通力に優れる矢であれば、あの棘を貫くことができるかもしれない。
「おっと危ない危ない」
今度は防ごうとせずに回避する。
続いて糸を生成すると、切れ味の鋭いそれを遠慮なく放つ。
腕ごと切断しても構わない。後で『同盟』の医療機関で接合できるのだ。
「……その手の攻撃は困りますね」
再び里見は攻撃を回避する。
やはり貫通力の高い攻撃では防御できないようだ。
「噂には聞いていましたが汎用性の高そうな能力ですね」
冷静に評価しながらも警戒を緩めない里見は、俺から数メートル程離れた位置に立つ。
向こうから仕掛けてくる気配はない。
「痛くしないから大人しくしてほしいんだがな」
「御冗談を。結構殺気立ってますよ? 正直怖くて仕方がありません」
まあ、見つけたら多少無理をしてでも捕縛しなければならないと言われているような相手だ。それくらいの気概で臨む方がいい。
それに彩乃から母親を殺された話を聴かされた後なので、ここはひとつ代わりに一発殴ってやろうと思いもする。
「まあな。だが、お前も大概やる気充分じゃないか。さっきは戦いたくないと言っていた割にな」
「嘘ではありませんよ。必要のない戦いには無駄な力を割きたくありません。ただ――あなたには思うところがあるんですよ」
「思うところ?」
「……いえ、少し喋り過ぎましたね」
言った後で口を滑らしたように顔を顰めた里見は、自分自身の言葉を否定するように首を振った。
「やはりここは戦うより時間切れに持ち込む方が得策ですね」
里見はそう言うと右手の棘を鋭く伸ばし、それを床に思い切り突き立てた。
何をするつもりかと身構えていると、下方から妙な音が聞こえてくる。ふと視線を床へと向けた途端、突如床を突き破って無数の棘が生えてきた。
「――!」
すぐにその場を飛び退いたが、棘が俺に襲いかかってくることはなかった。
俺の眼前を埋め尽くすように、周囲の床も巻き込んで棘の山がそびえ立つ。これだけサイズが大きければ棘というより壁だ。
やがて棘は天井近くまで伸び続けたところで、ようやく動きを止めた。
棘は密集して隙間一つ見当たらず、里見の姿は完全に消えてしまった。
奴の言葉からして、この棘の壁で異界解除まで時間稼ぎをするつもりだろう。
「どうするかな……」
これを突破しようにも相手はいくらでもこの棘の壁を生成できる。力任せにいくのは少々分が悪い。最初の光球を防いだように耐久力もそれなりに高いので、全て破壊するまでに異界が解除されるか、俺が疲れはてるかのどちらかだ。
時間は無い。どうするべきか。
悩んでいるところへ、背後から声がかけられた。
「由貴くん!」
振り向けば雫がこちらへ駆け寄ってきていた。その奥で、雫さんが力なく座り込んだ西口に手錠をかけている。どうやら想定したより早く片付いたらしい。
「早かったな」
「相手が毒を使うことはわかっていたから対処は簡単だった。それに向こうも逃げに徹していたから助かった」
あの毒使いは直接戦うのは不向きだったようだ。あまり自信の無さそうな口ぶりだったのであまり警戒していなかったが、実際問題なく拘束できたようだ。
「それでこれは一体?」
「ああ、里見も逃げに徹することに決めたみたいだ。この通り棘で壁を作り姿を隠した」
廻り込もうとしてみたが、この棘の壁は部屋の端まで伸びていて生えていて内側への進入経路は存在しなかった。この壁を挟んで、里見と俺たち四人の側が分断された形だ。
記憶によれば部屋の端まで数十メートルはある。それだけの距離があれば、俺たちと異なる場所へ放出されるだろう
異界の完全解除まで、あと一分あるかどうか。
異界の揺れは戦いを始める前より激しくなっていた。
「俺の能力じゃ破壊力には欠けるんだよな……このままじゃどうにもならん」
俺が考えあぐねていると、雫が壁に手を触れながら訊ねてきた。
「……由貴くん、この壁はあの棘を肥大化させたものだな? それなりに硬いが鉱物ではないだろう?」
「ん? ああ、恐らくはな。形状からして植物の棘に見えるな」
棘の色は薄い白で、根元の部分が緑色だ。植物の棘で間違いないだろう。
それに里見が植物を操る魔物の血を引いているという話を、以前どこかで聞いたことがある。しかし、残念ながら奴が実際に能力を使う場面は鋭月捕縛の際に見られなかったし、他の対立派関係者への尋問から得た情報からも詳細を知ることはできなかった。
「植物か、それなら問題ないな」
雫は珍しく不敵な笑みを浮かべる。
俺がその態度に不思議そうな目を向けると、彼女は棘に触れた掌に炎を纏わせた。
「まさかこれを全部燃やす気か? 植物ならできないこともないが、短時間で済ませるとなると――」
難しい、と続けようとした俺の口は、突然周囲の空気が高温になった瞬間に閉じられた。
熱風が全身を撫でる。
異常に気づいた凪砂さんがこちらの様子を目にして、目を見開いている。
「焼き尽くせ――」
雫の掌を押し当てた箇所から円を広げるように、炎が棘を侵食していく。その勢いは御影邸を襲撃した魔物の群れを殲滅した時より圧倒的に激しい。ものの数秒で壁全体が燃え盛る赤に包まれた。
熱気に思わず目を閉じてしまいそうになったが、薄く目を開いて状況を眺める。
ぱちぱちと焦げる音と共に、棘の壁は消し炭へと姿を変えていく。
視界が陽炎でぼやけ、その奥に立つ雫の姿が幻の如く揺らめいた。
俺はその光景を、ただ見ていた。
彼女の能力は、対象物を燃焼させること及び“延焼”による無限大の範囲攻撃だ。それは昨日の防衛戦で判明したい事実だ。
その時に目にしたのは、魔物一体を火達磨にする程度の火力。加えて沙緒里さんと相対した時も“ただ燃やすだけの能力”と申告していたので、単純な火力はそれほどでもないと早合点していた。
だが、実際はどうだ。
これならより大きな物――それこそ小さな建物一軒程度なら一瞬で焼き尽くせるのではないか。
「元々はこれが本来の力なのだ。中学校に上がった頃から制御が難しくなってまともに使えなくなっていたのだが、礼司さんのお蔭で掌サイズまで抑えられるようになった」
「こっちが素なのか……」
礼司さんは能力の制御に長けていた。彼の指導を受ければ、持て余していた能力を使いこなせるようになるのも可能だろう。
だが、雫の能力がここまでの性能だとは流石に予想外だった。威力だけなら『同盟』内でもトップクラスになれるレベルだ。
「普段は掌に纏う程度に発動して使うようにしている。“延焼”があれば大体は何とかなるから、本気を出す必要がないのだ」
「成程」
そんな会話をしている間に、壁は完全に炭化していた。
根元から天辺まで黒一色だ。
「それじゃあ時間もないし……」
俺は巨大な光球を両手を使って生成する。
大きさは直径五十センチ程。
それを無造作に壁に向かって投げる。
光球が直撃した壁の一部は爆発音とともに砕け散った。
その部分だけ壁が途切れたように崩れ、奥の景色が目に映る。
部屋の端にまで下がっていた里見が、地面に右腕を立てたままこちらを凝視している。
何が起きたのか理解が追いついていないという様子だ。
壁が破られたことをようやく認識し、一旦能力を解除してから再び棘を生やそうと試みる。
だが、それよりも先に動いた者がいた。
雫は手近にあった椅子の一つを持ち上げると、それを里見の立つ場所へ放り投げる。
掴まれた時に炎が燃え移った椅子は、空中でくるくると舞い踊る。
そして、椅子は里見からほんの少し離れた位置へと落下した。
里見が彼女の意図を察し、逃げようとしたが間に合わなかった。まだ、床に腕を突き立てた状態であったために、すぐに動けなかったのだ。
椅子の炎は里見へと“延焼”し、右腕の棘を灼熱で覆う。
「しまっ……!」
腕の熱さに気をとられたその一瞬だけで充分だった。
俺の接近に対して反応が遅れた里見に一撃を加えるのは。
掌に溜めた感情をいつものように加工せず、掌全体に浸透させる。
それを里見へ向けて思い切り突き出す。
掌底が里見の顔面を打ち抜き、奴の頭ががくんと後方へ大きく揺れた。その際に壁に後頭部をぶつけて鈍い音が響く。
里見の口から空気が漏れる音がした。
奴は膝から崩れ落ちると、そのまま俯せに倒れぴくりとも動かなくなる。
脈をとってみたが、死んでいないようでほっとした。
「一時はどうなるかと焦ったが、君のお蔭でなんとかなったよ」
「手伝えてなによりだ。結構私もできるだろう?」
茶目っ気たっぷりに笑う雫に、俺も笑顔を返した。
異界が完全解除されたのは、それから三十秒ほど後のことだった。