異界に血の雨が降る ‐困惑の遭遇‐
中心部へ辿り着くと、そこに両開きの扉が一枚佇んでいた。
「ここだな」
「やっと着いたな……ずっと耳の奥がじんじんしていい加減泣きそうになっていたところだ」
先頭に立つ雫がうんざりした様子で言った。
「もう少しの辛抱だ。この奥にいる魔物を倒したら、いくらでも静寂を堪能すればいい」
「そうさせてもらいます……由貴くん、準備はいいか?」
「いつでも」
俺の言葉を合図にして、雫は扉をゆっくりと開いた。
扉の向こうに待っていたのは、多数の照明に明々と照らされた部屋だった。幅、奥行きともに広く、ホテルのパーティ会場といってもよさそうな場所だ。もっとも調度品の配置やセンスが最悪なのは変わらない。
その部屋の正面数十メートルは先で、赤と黄の毛に覆われた巨大な獅子が天を見上げ咆哮していた。
獅子の姿をした魔物は、身体の大きい個体が多い。一部は竜さえも上回るほどだ。野生の動物型魔物の中でもトップクラスの体躯を持つと断言できる。
この獅子は、赤と黄で彩られた毛並みが特徴的だ。黄色で全身を塗った後に、上から赤で曲線を描いたような模様だ。それは象形文字のようにも見え、古の王者でも名乗っているかのようだ。
「獅子か。ここの親玉かな? いかにも強そうでそれっぽく見えるな」
「呑気なこと言わないでくれ、由貴くん。私もあれほど大きな魔物とは戦った経験がない」
わざとらしくとぼけた台詞を吐くと、雫から溜息が返ってきた。
俺は微笑を浮かべて軽く謝罪する。
「まあ、今のところ俺たちが眼中になさそうだ」
「そうだな。別の相手で忙しいようだし――」
その獅子のすぐ手前に、探し求めていた侵入者たちの姿があった。
二人だ。背の高い細身の男に、小柄な男だった。
背の高い男は、三十代後半といった年齢と思われ、オールバックの髪と顎鬚が目立つ。
小柄な男は、二十代前半といったところだろうか、童顔でストールを巻いている。
一先ず近くのひっくり返ったソファとテーブルの裏側に身を潜め、様子を窺うことにする。
耳をそばだててみれば、彼らの会話が聞こえてきた。
「いい加減倒れてくれませんかね。こいつを倒せば、この異界も解除されると思うのですが」
「大ボスだけにタフなんでしょ。いいじゃない、大して強くもない図体がでかいだけの置物なんだから。あと少しで終わるって」
苛立たしそうにぼやいたのは長身の男、気楽な調子で答えたのが小柄な男だ。
長身の男は、右手から無数の棘のようなものを生やしている。そのいくつかに血のような赤い液体が付着しているのが僅かながら見えた。
小柄な男は、武器のような物は何も持っていない。両手をポケットに突っこんで、平然として立っている。
「どうやらあの二人だけらしいな。他にはいない」
「良かったよ。何人もいたら、万が一逃亡を図られた場合に苦労するかもしれないからね」
俺が凪砂さんと小声で話している間、獅子は二人組に襲いかかっていた。鋭い爪を掲げて飛びかかるも、ターゲットとなった長身はあっさりと回避する。避けると同時に右手を突き出し、獅子の身体に棘を刺し込む。
獅子が大きく吠えて飛び退くと棘は抜け、血が床にぽたぽたと垂れた。獅子の身体をよく見れば、既に何箇所も刺された後のようで、床には紅い斑点で描かれた図がある。
あの男は何者だろう。あの様子から察するに、戦いには慣れているのは確かだ。
「……ん?」
そこまで考えたところで、雫が妙な声を上げた。
「どうした?」
「あの手に棘は生えた男、どこかで見た覚えが……」
「あれ、雫さんもかい? 実は私もそうなんだ。あの顔つき、前に――」
女性二人が首を傾げる中、俺は長身の男の顔をじっくりと観察してみる。言われてみれば既視感がある。
だが、一体どこだろう。
獅子が再び咆哮し、部屋全体に振動が走る。
その時、小柄な男が叫んだ。
「あーもうこれ五月蠅くて本当嫌なんだけど! 里見さん、聴こえるー? 次にもう一回“飴”打ち込むから! 今度は全力でやるから、動きが大分鈍るはず! その隙にトドメ刺してよ!」
「わかりました西口さん! お願いします!」
長身の男は叫ぶように返答した。
「え……」
男たちの会話を聴いた瞬間、雫の顔から血の気が引いた。
無理もない。今の会話に出てきた名前は彼女の知る人物の名と同じなのだ。
そして、それは先程から記憶に引っかかっていた長身の男の正体を知るに充分であった。
「里見修輔」
凪砂さんが険しい顔で呟いた。
そうだ。俺が以前見たのはニュースや手配書で見た顔だ。あれは今のようにオールバックではなかったし、髭も生やしていなかった。五年近く経過したことで印象に若干変化が生じているが、それでも見間違えようがなかった。
かつて桂木鋭月の腹心であった男であり、今回の事件に先駆けて街に潜り込んだ対立派の急先鋒が一人――里見修輔だ。
「おいおい、嘘だろ。こんな遭遇ありかよ。どこに潜んでいるかまだ『同盟』も掴んでいなかったっていうのに――」
俺は興奮を抑えながら、そう口にするのがやっとだった。
よもやこんな場所で出逢うことになろうとは、誰が予想しただろうか。
いや、そんなことより、何故奴がここにいる?
俺たちが困惑する中、西口と呼ばれた男がポケットから手を出す。その手を獅子に向かって突き出すと、続いて指を弾くような動作を見せた。
その瞬間、西口の指先から何か小さな物が飛んでいくのが視認できた。その正体を確かめる前に、それは獅子の身体に直撃する。
一見すると獅子の身体に変化はない。銃弾のような物を撃ち込んだのかと思ったがそうではないようだ。
そう思った時、突如獅子が呻くような唸り声を上げると、身体をふらつかせた。
「そら効いた効いた。やっぱ抵抗力あるっていっても、全力ならこうなるよね。じゃあ里見さーん、後よろしく」
「はい、任されました」
里見は右腕を大きく振りかぶるようにしてから、獅子に向かって腕を伸ばす。それと同時に右手の先に生えている棘が正面にまっすぐ触手のように伸びていき、獅子の胴体を貫いた。
苦悶の叫びを上げる魔物であったが、目立った抵抗はない。西口に何かを撃ち込まれてから、覇気を無くしたように見える。詳細はわからないが、あれが例の毒なのだろう。
床に目を移してみれば、毛が房になっていくつか落ちている。西口の台詞からすると既に何発か毒を与えていたと考えられるので、それが原因なのだろう。
「散々動き回って手こずらせてくれましたね。これはほんのお礼です」
里見が冷たく言い放つと、獅子の身体の内側から無数の棘が生える。獅子の体内に刺し込んだ棘が肥大化したものだろう。棘全体が紅く血で塗られている。
内側から穴だらけにされた獅子はとうに絶命していた。顔面は眼球を貫いて棘が飛び出し、血に混じってこぼれ出た眼球の一部が垂れている。
口はだらしなく開けられたままになっているが、形が崩れているように見える。棘が顎の骨を砕いたのかもしれない。
里見が腕を引っ込めると、コードを巻き返すように棘が手元へ戻っていく。あの棘は一定の長さなら伸縮自在なのだろう。使い勝手は悪くなさそうだ。
「やっと死にましたね。本当に手間をかけさせてくれます」
「これでやっと本題に入れるなー。家探ししに来ただけなのに何で魔物退治なんかしてんだろ。嫌になっちゃうよ」
疲れきった様子で不満を述べる西口であったが、里見は残念そうに首を振った。
「異界はこれで解除されると思いますが……遺憾なことにまたトラブルです」
そう言うと里見は俺たちの隠れてる方へと向き直った。
「隠れてないで出てきてくれませんか? 手荒な真似はしたくありません」
里見は右手に生えた棘をうねらせたかと思うと、それは鋭く長く伸ばし、俺たちが潜んでいる家具へと向かって突き出した。