異界に血の雨が降る ‐想定外の来客‐
「……今のは」
俺は視線を通路の奥へと向ける。伝わってくるのは音や振動だけではない。先程とは打って変わって強烈なプレッシャーが流れ込んでくる。
「どうやらこちらは“当たり”みたいだ。気を引き締めよう」
凪砂さんは対魔物用の銃を握りしめ、目をすっと細めた。既に優しい表情は消え、戦場に立つ者の顔つきだ。
扉を蹴破るように開け、雫が姿を現す。
「出たのか――!?」
「ああ、準備はいいか?」
雫は一度頷き、右手に炎を纏わせる。
「大きさからして遠くはない。二つか三つくらい先の部屋だと思う」
「通路へは出てこないようですが……何が起きているんでしょう」
「さあね。何にせよ穏やかな事態ではなさそうだ」
俺たちが言葉を交わす間にも、続けざまに咆哮が轟く。ここからでは他の音は聞き取れない。音の発生源まで辿り着くしかなさそうだ。
より警戒して足を進める中、空気の振動は激しさを増していく。俺や凪砂さんはともかく、雫はこういった経験がないのか若干辛そうだ。両耳を押さえたいのを我慢するように、顔を歪めている。
「無理はするなよ。いざとなれば俺が前に出る」
「……大丈夫だ、多分」
ようやく辿り着いた先は、木製の引き戸だ。ガラスからは部屋の中の光景がぼんやりと目に映るが、詳細は知ることができない。ただ、戸を開けてすぐに何かあるというわけではなさそうだ。
「開けるぞ」
雫が取っ手に指を絡め、隣にいた俺へと声をかける。俺は無言で頷いた。
彼女は引き戸を開け、中へと踏み込む。次に凪砂さんが、最後に俺が進入した。
そうしてまず最初に襲ってきた感覚が、咽かえるほどの悪臭だった。
部屋は御影邸の居間と食堂を足したほどの広さを持ち、これまで探索した部屋の中では床面積が大きい。天井も高く家具の数も少ないので、広々とした印象が強い。
その広大な部屋の中央付近に、紅く塗られた床を絨毯代わりにして巨大な魔物の死骸が横たわっている。
大きな嘴を開いたまま絶命しているその鳥型の魔物は、全身の羽という羽を全て抜かれてピンク色の肌を晒し、周囲一帯に血で汚れた羽を撒き散らしていた。
その死骸で最も目を惹くのは、喉の部分にぽっかりと空いた穴だろう。鋭い棒状の物で突かれたように綺麗な円形を描いている。血の海を作りだした血液の素が、そこから流れ出たことは明白だった。
「これは……」
言葉を失った雫が死骸を見つめる。
どう反応していいかわからないという様子だ。
俺は死骸に近づき、手を触れてみる。
まだ温かい。それに床の血は乾ききっていない。
「死んでから長い時間が経過しているってわけでもなさそうだ。専門的なことはわからないが、少なくとも昨日一昨日の話じゃない。今日だ」
「……今日?」
それはおかしいと言わんばかりに、雫は怪訝な表情を浮かべた。
そう、おかしいのだ。
「凪砂さん、俺たちが異界に踏み込む前に警官が中を探索しましたか?」
「いいや。異界が発見されてからは周囲の監視のみに留めた」
「浅賀の家に警官が来てから、他に中に入った人は?」
「勿論いない」
俺は背後にいる二人へと向き直ると問いかけた。
「それじゃあ――この魔物を倒したのは誰なんです?」
その問いに答えられる者は、少なくともこの場にはいなかった。
凪砂さんは深く考え込み、雫は当惑を隠せないでいる。
「私たちより先にこの家に踏み込んだ誰かがいるということか……」
「誰かって……」
誰だろうね、と凪砂さんはお手上げのポーズをとる。
軽い笑みを浮かべているが、目は笑っていない。
「……他の通路がこちらへ繋がっていて、別の班がやって来た可能性は?」
「恐らく違う。この殺し方からすると彼らの誰かとは思えない」
警官たちのことを良く知る凪砂さんが否定するなら、きっとそうだろう。
凪砂さんは遺骸に近寄ると、じっくり眺め出す。
「これは細長く尖った物で刺されたようだ。しかもサイズが大きいと見える。槍――あるいはそれと似た別の物か? やはり彼らがやったとは考えれない。こんな芸当ができる能力を持っている者はいないからな」
「羽が落ちているのはどうしてでしょう。最初は引き千切ったのかと思いましたが、どうも自然に抜け落ちたように見えます」
俺は床に散乱する羽に目を落とす。羽は根元から綺麗に抜けている。力任せに引き抜いたものではない。
「何かの能力の影響とは思うが……ひょっとすると毒の類か?」
「毒?」
「毒を操る血統種もいることは知っているだろう? 奴等の用いる毒の中には、副作用でこういった症状を起こす種類が存在する。これもそういった毒が原因かもしれない」
羽が抜けた原因が毒であるなら、この魔物と対峙したのは毒使いということだ。
しかし、それだと今度は喉の穴が誰に開けられたかが問題となる。
「どうやら侵入者は少なくとも二人いるか……妙な雲行きになりましたね」
「ああ、全くだ」
「しかも異界の中に踏み込んで魔物と戦えるだけの力の持主……」
ただのコソ泥というわけではなさそうだ。何故、俺たちと同じタイミングで侵入しようと考えたのか、疑問はいくらでも湧いてくるが今は気にしても仕方がない。
「他の班には連絡を入れておこう。こちらへ駆けつけるように指示する」
「……そうですね。相手が何人いるか不明ですから」
凪砂さんも含めて警官は全員特殊な通信機器を所持している。異界の内部では電波障害が起きやすい。不自由なく通信を行うにはこれら特殊な通信機が必要だ。
「それじゃあ急ごうか。部屋の奥にもう一つ扉がある。あの先が咆哮の主のいる場所だろう」
「あの鳥の死骸に気をとられていたから気づきませんでしたが、まだ聞こえてきますね」
緊張した面持ちで雫が言った。
びりびりと振動する感覚は断続的にやって来る。
「……もしかして、あの魔物は侵入者と戦闘しているのでは?」
雫が思いついたように意見を述べる。
俺と凪砂さんは顔を見合わせた。表情を見れば、彼女も同意見だとわかる。
「雫、急ごう。勝手に死なれたりしたら困る。ここへ来た理由だけは訊き出さないと」
「了解した」
奥の扉を開け、俺たちは魔物がいるであろう場所を探す。
扉の先には別の通路があり、さらにそこからいくつかの部屋へと繋がっていた。魔物がいるのはもう二つか三つほど進んだ部屋のようだ。
「連中、随分と派手にやったな」
俺はこれまでの探索で魔物と遭遇しなかった原因を理解した。
探索した場所とは違い、この辺りの部屋や通路には何体もの魔物の死骸が転がっている。中には通路を塞いでいる死骸もあり、乗り越えなければ進めない状況もあった。
死骸はいずれも身体のどこかに穴を開けられ、そこからの失血で死んだと思われる。例の侵入者にやられたに違いない。
「魔物たちはこの周辺に固まっていたみたいだな。そこへ侵入者が現われて皆殺しにされたってところか?」
「成程、それで全然見当たらなかったのか。逃げ出せた個体もいなかったのだな」
「奴等が来た時、この奥に纏まっていたんだろう。そう考えると、この先が異界の中心部――魔物の巣ってことになるかな」
異界の中心部と呼ばれる場所は、魔物の実際の棲家として用いられる所だ。多くの場合、魔物はその場所及び近辺に生息し、離れる程その数は少なくなる。俺たちが一度も魔物と遭遇しなかったのは中心部から離れていたことも理由の一つだろう。
さて、一体何が待っているのか。
俺たちは死骸の山を通り抜けながら、中心部と思わしき場所を目指した。