異界に血の雨が降る ‐開始‐
浅賀善則の自宅に到着するまでに要した時間は二十分もなかった。
「どうだい? アンコロの乗り心地は」
「……相変わらず心臓に悪いですね。交通渋滞を気にしなくていいのは幸いですが」
「……ジェットコースターに乗っているみたいでした」
竜の背中から飛び降りた俺と雫の回答に、凪砂さんは何故か満足気だ。
「そうだろう? まあ、慣れたらなんてことはない。風をダイレクトに感じられて気持ちがいいぞ」
彼女が鱗で覆われた体躯を撫でてやると、アンコロは気持ちよさそうに喉を鳴らした。
俺たちが降りた場所は、浅賀の家から徒歩五分ほど離れた“停留所”だ。
魔物を乗り物として使役する際、公共の場においては各地に設置された魔物専用の停留所を使用しなければならない。見回してみると、数体の魔物が仕切りで区切られた専用スペースの内側で日光に照らされながら眠りについているのが見える。
停留所はそれほど数が多くない。魔物の使役能力を保有している血統種の数が多くないのが理由の一つだ。今回は近場に設置されていたので助かった。
凪砂さんはアンコロを大型のスペースへと連れて行き、しばし待つように言い聞かせてから戻ってきた。
「さて、それでは行くとしよう。さっき上空から見えたと思うが、パトカーが門前に停まっている大きな家があるだろう? あそこだ」
俺と雫は凪砂さんの後をついていく形で歩き出す。周囲の人影はまばらだ。静かな道を会話もなくただただ進んでいく。
浅賀の家に到着すると、待機していた二名の警官が凪砂さんに敬礼した。
「中井くん、変化はないかな?」
「いえ、異界は監視を始めてからずっと安定しています。魔物が溢れる様子も見られません」
中井と呼ばれた若い警官がはっきりとした口調で答えた。やや緊張しているのか、姿勢が強張っているようだ。
「なら問題ない。二人とも準備はいいか? 昨日の今日で申し訳ないがまた肉体労働の時間だ。今回は私たちも一緒だがくれぐれも油断しないように」
闘志に燃える目で忠告されたその言葉に、俺と雫は頷いた。
扉を開ければそこは迷宮だった。
玄関と思わしき場所は巨大な円形の空間と化していて、まるでどこかのビルのロビーのようだ。そこから四方に幅の広い通路が伸びていて、その果ては余りに遠すぎて視認できない。上を見ればそこには照明器具が所狭しといった状態でぶら下がり、天井が覆い隠されてた。この異界の住民たちにインテリアのセンスはないらしい。
「それじゃあ早速始めるとしよう。打ち合わせ通り、私たち三人は一緒に組んで行動しよう。私は手頃な魔物を手懐けて味方に引き入れる。雫さんは前衛を担当。由貴は私たちに“同調”しながら攻撃も行う。私の部下たちも三つの班に分かれて行動するから、それなりに早く終わるはずだ。異界が解除されたら家の中を改めて捜索しよう」
その言葉を機に俺たちは四つのグループはそれぞれ違う通路へと進行していく。俺たちの担当は手前左側の通路だ。先程見たとおり一本道がどこまでも続いていて、最奥に辿りつくまでにどれだけ歩けばいいかわからない。
ただ、通路の途中の壁にはいくつか扉が設置されている。通路に魔物の姿は全く見当たらないので、おそらく部屋の中に隠れているのだろう。
「一つの部屋に固まっていれば探す手間は省けるが、一度に相手取る必要がある。ばらけていれば各個撃破できるが、探すのが面倒。どちらが楽かな」
「今回なら前者がいいですね。私の“延焼”なら狭い部屋だと一網打尽にできますから」
雫の能力は集団戦には非常に強い。相手が対抗能力を有していない限り、何も行動させずに封殺してしまうことも可能だ。特に敵が密集していればそれだけ早く炎が感染していく。それに防衛戦の様子を見たところ能力酔いになりにくい性質らしいので、探索が長引いても対処できる見込みがあるのも評価が高い。
今思えば戦闘の経験があるような言動をしていたのも納得できる。きっと礼司さんから少ない時間を有効活用して指導を受けたのだ。いつ突発的に戦闘が起きてもいいようにと。
一番最初に発見した扉を開け、慎重にクリアリングを行う。部屋の中はぱっと見たところ居間のような構造だ。いくつものソファやテーブルが乱雑に置かれていなければ、ごく普通の一般家庭の一室だと誤認するに違いない。
異界内に造られた家屋はどれだけ外観を似せていても、中身は大抵このざまだ。構造がでたらめだったり、家具を適当に配置していたりして奇妙極まりない。かつて俺が紫と一緒に飛び込んだ公園の異界も、木々が不気味な彫刻のような形をしていた。この部屋の家具も微妙に形が歪だ。まるで出来の悪い複製品か何かのように見える。
この点について、現在は『魔物は本来の形状を模して物質を生成する能力に乏しい』という見解が通説となっている。材質自体は本来のものと変わりない。形状さえ正しければ問題なく使用できただろう。
なお、異界内の植物、道具等は外の世界へと持ち出しても特に問題はない。異界が解除されると内部にあった物は一緒に消滅してしまうが、持ち出した物はそのままだ。
一体どんなプロセスを経て魔物がこれらの物体を生み出しているのか。多くの学者が挑んだが、未だその答えは出ていない。
最初の部屋を出てさらに通路を進み、手当たり次第に扉を開けていく。魔物は一向に出現しない。痕跡のようなものすら発見できないときた。
五つ目の部屋の中を探索し、またしても空振りという結果が出たとき、凪砂さんが小休憩を取ることを提案した。
「気を張り巡らしていても余計な体力と精神力を使うだけだ。後で何が起きるかわからないし、休めるときにちゃんと休もう」
その言葉を聴いた雫は気が抜けたように息を吐き、椅子の一つに腰を下ろした。慣れない探索に神経を張りつめていたのだろう。
俺も休もうかと思っていたところに、後ろから声をかけられた。
「ああ、済まない。休む前に一度だけ通路を見ておこう。由貴は慣れているから一緒に来てくれ」
「それなら私も……」
「いや、雫さんは休んでいて構わない。気にしないでほしい」
凪砂さんはそう伝えると俺を通路へと引きずり出す。
扉を閉めてから周囲を軽く見回すと、俺に訊ねてきた。
「それで――雫さんに蓮のことを話す覚悟はついたってことでいいかな? この探索に誘ったのもその意図があったんじゃないか?」
「……まあ、一応は」
今回の話を持ちかけられた後、俺は雫を呼んで浅賀の家を捜査する旨を伝え、同行しないかと誘った。
鷲陽病院の事件に関して手掛かりが発見できる見込みがあるとだけ伝えた上で、五月さんについては何も語らず。
浅賀の件はいずれ雫に明かす必要のあることだ。ここで隠そうとしても時間の問題だ。
腹を決めなければならない。
決めていないのは話すタイミング。もっと言えば、この捜査が終わるまでに話すか否かだ。浅賀と五月さんの関係が知られれば、そこからは芋づる式に全て判明する。そうなる前に自分の口から明かすのが賢明だ。
「……この期に及んでまだタイミングを気にするあたり、君も優柔不断だな。そういう決断はすっぱり決めるのが最良だと礼司さんから教わっただろう?」
「殺人の告白にも適用しないでほしいんですが」
痛いところを突かれて、俺は素っ気ない口調で返す。
それに不快になる様子もなく凪砂さんは慈愛に満ちた瞳で微笑むと、俺の両肩をおもむろに抱いた。
「だが、そんな欠点も把握した上で支えてやるのが妻の務めだ。安心したまえ。一人じゃない、私もついているんだ。それから何度も言うが、雫さんを信じてあげるんだ」
「それは――」
そうですけど、と続けようとした時だった。
通路の奥から、魔物の咆哮のような声が壁や天井を震わせながら届いた。