女たちの冷戦
日付が変わろうとしている時刻、布施秋穂はまだ起きていた。
自室で一人物思いに耽っていた彼女は、ふと立ち上がり窓際へと歩いていく。庭を見下ろせば明かりに照らされた警官たちが未だ直立不動の姿勢で立っているのが見えた。
あれから特に屋敷周囲に異常はないと凪砂は語っていたが、それでも殺人事件が発生した状況下であり油断はできないと警官たちは熱心に職務に励んでいる。熱心なのは彼らが凪砂に忠実な犬であることも理由の一つであろうが、そのおかげで一時の休息が得られたのは幸いだった。
御影辰馬が起こした騒ぎはとうに収束し、皆安心して自分の部屋へと帰っていった。しかし、秋穂は部屋に戻った後も不安を隠せなかった。彼女にとって辰馬は沙緒里と並んで警戒すべき対象であり、この緊迫した状況も相まって動向を注視する必要があった。
秋穂の行動理念は第一に“最上由貴の安全を図ること”だ。そのため彼に危害を加える可能性は可能な限り排除しておきたかった。
今回の騒動の原因は、長男の章と五月が密かに交際していた事実が明るみになり辰馬が激怒したことにあるらしい。暴走した辰馬は寧によって昏倒させられ強引に幕引きされた。それから由貴が辰馬と二人きりで話し合うことになったと聞かされ秋穂は気が気でなかったが、何事もなく平穏無事に終了したらしい。
由貴の行動には時折冷や冷やさせられる。彼は自分ほど辰馬と沙緒里を警戒していない。不用心というわけではないが、彼らが直接的な力を行使することはないと心の奥底で信用している節がある。
正直なところ彼にはこのまま大人しくしてほしいと思っている。人助けが趣味というわけでもないのに、人が何か面倒事に巻き込まれていると自分もその中に加わろうとするのが彼の欠点だ。一体何が彼をそこまで動かすのやら。
ともかく今後はもう余計なトラブルに首を突っ込まないように言い聞かせなければと秋穂は固く誓った。
由貴を守ること、それが死んだ彼の両親へのせめてもの恩返しだ。
秋穂は両親の顔を知らない。物心ついたときには既に彼女は独りだった。
最初に彼女が認識した大人は“施設”の管理者であった。その頃既に六十を超える男性で温和な性格をしていた。
彼は秋穂が自ら訊ねない限り、両親について語ろうとしなかった。故に、彼女がその質問をするまで両親が生きているのか、死んでいるのかさえわからなかった。聞いたところで「わからない」という答えが返ってきただけであったが。
秋穂の周囲には同じ境遇にある子供たちが何人もいたが、彼女はその子供たちの輪には馴染めなかった。元来の冷淡な性格は子供らしくなく可愛げがないと大人から不評で、頼れる者のいない数年間を無為に過ごした。
そんな不遇な時期はある日突然終わりを告げた。
ある男が秋穂の下へやって来たときだった。
それから彼女の人生は大きく廻り始めた。
喉が渇いた秋穂は、冷蔵庫から何か飲み物を頂戴しようと部屋を出た。
廊下の各地に配備された警官は秋穂の顔を見て軽く会釈する。彼女もそれに倣い頭を下げた。
階段を下り台所へと向かおうとすると、居間から灯りが漏れていることに気づく。
まだ誰か起きていたのかと興味を抱き、その中を覗いた秋穂はすぐに後悔した。
「あら、まだ眠りについていなかったの?」
ソファに全体重を預けるように枝垂れかかる御影沙緒里の姿がそこにあった。
本人には聞こえないように秋穂は軽く舌打ちする。
「……起きていらしたのですね。てっきりもうお休みになったとばかり」
事実そう思っていた。沙緒里は夕食時にも食堂に現われていない。訓練場で小夜子に叩きのめされてからずっと部屋に籠ったままだった。辰馬が騒いだときにも一切顔を見せていないので、とうに寝てしまったと考えていた。
「部屋にいても仕方がないもの。すっかり目は冴えてしまったし、少し気を晴らそうかと思って」
「それで――お酒ですか?」
ぐったりしたポーズのまま片手に持ったグラスを軽く揺らす動作を、秋穂はじっと見つめた。
「信彦さんがあんなことになって気分が優れないでしょうが、飲み過ぎは身体を壊しますよ」
「あら、心配してくれるの?」
ふふふと沙緒里は妖艶な笑みをつくる。並の男ならこの魔力の虜にされてしまいそうだが、生憎御影家の関係者にこの手が通用する者はほとんどいない。
「こんな状況ですから……皆さん沙緒里様のことを気にかけておられます」
「へえ、あなたも?」
夫が死んだばかりとは思えないほどあどけない笑顔を向ける沙緒里に、秋穂は薄く笑い返す。
「当然です」
嘘だ、と秋穂は内心呟いた。
それを聞いて沙緒里はくすくすと小さな笑い声を上げた。
「嘘ばかり。あなたが私のこと嫌いなのは皆知っていることよ?」
秋穂は何も答えない。
この女のペースに乗せられたら負けだと自分に言い聞かせ、ただ無言でいた。
「つれないわねえ。私はあなたと仲良くなりたいと思っているのに。ああ――勿論由貴とも仲良くなりたいわよ?」
秋穂は心中に嫌悪感が蔓延するのを必死で抑え、表情に変化が表われないように努力した。
一体どの口が言うのか。散々貶めておきながら何を今更。
沙緒里は一切反応しない秋穂を眺めてますます上機嫌になったようだ。
グラスの酒を一気に呷ると、口元を醜く歪ませた。
「本当よ? ほら、あなたって御影に来る前のことをほとんど話さないでしょう? だからどう接していいかわからなくて……今までの態度だって決して嫌っているわけじゃなくてよ?」
「……何が言いたいのですか、あなたは。すぐにお休みになられた方がいいですよ。必要なら慎さんを呼んできますから」
秋穂は沙緒里が酔っているのだろうと判断した。これ以上付き合っても無駄だろう。早いところ慎を呼んで後を任せた方が得策だ。
そう考え踵を返したときだった。
沙緒里が低いトーンで言葉を発したのは。
「だから、昔のこと調べさせてもらったわ」
「は――?」
意図せず秋穂の口から声が漏れ出た。
沙緒里は愉しそうに続ける。
「驚きね。あなた昔は桂木鋭月の私兵だったのね?」
このとき秋穂の顔が扉の方を向いていたのは彼女にとって幸いだった。驚愕に崩れた表情を沙緒里に見られずに済んだのから。
「流石に考えもしなかったわ。あなたが元とはいえ対立派だったなんて」
秋穂は一度呼吸を整えるとゆっくりと振り返る。
「……警備部の情報収集能力を少し甘く見ていました。まさか今になって突き止めるとは」
警備部は沙緒里がトップに就任してから、独自の諜報網を発達させている。とはいえ鋭月周辺の情報を探るにはまだ不足していると高を括っていたのが仇となったようだ。
沙緒里は既に秋穂の過去を掘り起こしていたのだ。
「何を言っているのかしら? 今? もっと前よ。蓮が死んだとき」
「何ですって――?」
狙い通りの反応を得られたと言わんばかりに沙緒里は喜んだ。
「あのとき関係者の身辺調査が厳しく行われたのは知っているでしょう? 特に一番疑われていた由貴、それにあの子と親しいあなたについては厳格に調査したわ。遠い過去にも遡ってね」
沙緒里の言っている意味は理解できる。当主候補が暗殺されかけたのだ。それこそ幼少期からの人間関係を調べるのはおかしくない。
だが、何故今になってその話が出てくるのか。
既に判明していた事実なら何故追及されないのか。
「どうして、と言いたげね? 私にも分別はあるわよ? 礼司兄さんが隠していたことだもの。おいそれと話せないでしょう?」
「単刀直入に訊きましょう。どこまでご存知です?」
秋穂が敵意の籠った視線を向けても、沙緒里に動じた様子はない。
質問を受けて沙緒里は指を顎に当て、うーんと呟き思い出す素振りを見せる。
「そうね……まず、由貴の死んだ両親も対立派の一員だったことでしょう。でも、比較的穏健というかあくまで血統種に対する弾圧への抵抗勢力みたいなもので、思想自体は共存寄りだった。だから鋭月とは関係が悪くて水面下で争いを繰り広げていた……けれど最終的に鋭月が勝ったのよね。ああ、勿論彼らの死が表向きは事故ということになっているけど、本当は殺人だってことも知っているわよ?」
「それで?」
「……ここからは私も完全に調べられなかったから憶測混じりだけど。礼司兄さんは何らかのきっかけで最上夫妻と繋がりを持った。彼らから対立派の情報を得ることと引きかえに彼らのバックアップをする、あるいは安全の保障を約束するかして。けれど夫妻は殺されて……遺された由貴を引き取ることにした」
「ちなみに、情報源は?」
「内緒。ただ一つ言えるのは、私の耳は“いろいろな所”にいるということだけよ」
その“いろいろな所”にはきっと対立派内部も含まれているのだろうと秋穂は推測した。
この女は『同盟』が把握しているよりずっと詳細な全体像を捉えているらしい。その上でその情報を報告することなく胸の内に留めているのだ。
「それを暴露しないのは何故ですか? 『同盟』としても見過ごせる話ではないでしょう」
「あら、やだ。兄を売るような真似ができるものですか」
そう言って子供のように笑っていた沙緒里であったが、突然無表情になってぽつりと呟いた。
「私はね――ただ、私と慎が幸福に過ごせるようにしたいだけ」
沙緒里の全身から冷気が発せられ、室温が一気に低下したような感覚が秋穂を襲う。
冷気を発している当人の手にあるグラスは中の水滴が凍りついていた。
「私の興味は、あの子が何不自由ない人生を歩めるか否かにのみ注がれる。それ以外は些末なことでしかないわ。礼司兄さんやあなたや、あるいは他の誰かが何を隠していようとも知ったことではないわ」
「では、何故私にそんな話をするのです?」
鋭い声で問いかけられた沙緒里は、少しの間目を瞑った。
「……言ったでしょう? 私はあなたと仲良くなりたいと。私は慎に幸福になってもらいたい。そしてあなたは由貴に幸福になってもらいたい。そうでしょう?」
沙緒里はゆっくりと立ち上がる。そうして秋穂の眼前まで歩み寄り、その瞳を覗き込んだ。
「協力し合わない? あなたは私のために、私はあなたのために。お互いの目的を達成するために手を取り合いましょう?」
ああ、成程と秋穂は納得した。この女の目的はそれだったのか。
沙緒里が秘密を隠し続けているのは、己に最も都合の良いタイミングで切れるカードにするためなのだ。
全ては自分と慎にとって有利にはたらくように。そのためであれば『同盟』の任務に違背する程度は何とも思っていない。
何と浅ましいことか。
「いえ、遠慮しておきます」
きっぱりと秋穂は断った。
最初に決めていたことだ。彼女のペースに乗せられてはいけないと。思惑に乗ってしまえば負けは確定する。
「残念」
沙緒里はその一言だけを口にして、くるりと身を翻す。
言葉とは裏腹に落胆している響きは全くなかった。
これ以上付き合うこともないと結論づけ、秋穂は今度こそ部屋から出て行こうとした。
その背中に最後の質問が投げかけられる。
「これは純粋に好奇心で訊くけれど……あなたが鋭月から離反して最上夫妻の方についたのはどうして?」
「さて、それも調べてみたらどうです?」
秋穂は廊下を進み階段を上がっていくと、自分の部屋へと直行した。
階段を上がる音を聞いていた沙緒里は口元を小さく歪ませると、自分もまた部屋へと帰っていった。
二人は最後まで会話を聴いていた人物の存在には気づかなかった。
「うわー……なんで大人の女って怖いんだろう」
御影隼雄は若干蒼ざめた様子で呟いた。
廊下の角に身を潜めていた彼は、秋穂が来て開かれていた扉から漏れ出る会話を耳にすることができた。
相性の悪い二人であったので何かあれば介入するつもりであったが、ぎりぎりのところで争いは回避された。
「さーて、どうしたもんかなあ。沙緒姉はどこまで把握してるんだろ。場合によっては俺も手を出す必要があるわけで……」
隼雄は頭を掻いて、面倒臭そうに唸った。
想像していた以上に爆弾は炸裂する寸前らしい。これの処理を由貴だけに任せるのは酷というものだろう。相手は御影家関係者の中で特に気難しい女二人だ。流石にこれは骨の折れる仕事だろう。
これを何とかするには隼雄が動くしかない。
「ま、とりあえずやれるだけやってみようか。そういう約束だからね。それでいいだろ、礼兄?」