願望
「俺を助ける……何を言っている?」
呆けた顔で言う辰馬さんを俺は思い切り睨みつける。
「礼司さんがあんたを邪魔に思うわけがない。あんたの動向を気にしていたのは、あんたがやり過ぎないように見張るためだ」
「意味がわからん。やり過ぎる? 何の話だ?」
俺の言葉の意味を捉えきれないのか、辰馬さんはますます困惑を深めていく。
「礼司さんから聞いた話だが、奥さんとの離婚の原因は章さんの教育方針だったんだよな?」
「……そうだ」
「少しばかり俺の推測も交えて話すからそこは勘弁してくれ。当初章さんが自分と同じように“出来損ない”になるのをあんたは恐れていた。幸いにも章さんの能力は高く、侮られる心配はなかった。心底安心しただろう。そこでその長所を無駄にしないためにも、章さんを御影の名に恥じない人物に育て上げることを決心した」
辰馬さんは特に口を挟むことなく、俺の話に聞き入っている。
ここまでの話に誤りはないと見ていい。
「章さんは能力こそ後に生まれた紫に及ばなかったが、頭の方は極めて優秀だった。慎さんと比べても遜色ないと言える。だから自分と同じ幹部候補の道を歩ませようと考えたのも当然かもしれない。それ自体は誰も反対しなかったから、あんたも特に疑問を抱かなかった。そうして次第に章さんには期待が圧し掛かるようになった。弟の慧が勉強嫌いになってしまって、『同盟』内の出世が絶望的だったのもそれに拍車をかけたのかもしれない」
「……それがどうしたと言うんだ」
何か問題でもあるかと訊ねる風に辰馬さんが言う。
「問題ならあるだろう。奥さんとの不仲はその頃からって話だ」
「ふん、そもそも章を『同盟』に入れたくないと千紘が言い出したのがおかしいんだ。俺が責められる謂れはない」
「奥さんは章さんを『同盟』に入れずとも別の道を歩ませることもできると提案したらしいな。奥さんは『同盟』と繋がりの深い企業の役員を父親に持つ人だ。『同盟』の息がかかった企業で自立させるのも一つの進路だった」
例えば隼雄さんのように法律を専門とする人もいれば、彩乃の両親のように研究者として活躍する人もいる。『同盟』は優秀な人材を捨て置かない。章さんほどの人ならどの分野でも活躍できるポテンシャルを秘めていた。
「だが、あんたはあくまで幹部コースを狙った。それは何故だ?」
「それはあいつに俺と同じ職務に就いてもらって――」
「はっきり言ってやろうか? あんたは章さんを自分より上――本部勤めのエリートに仕立て上げたかった。あんたの復讐のために」
冷たい声でそう断言すると、辰馬さんの両目が見開かれた。
その他の反応を一切返さない様子から、俺はその憶測が真実であると確信した。
「地方支部のトップクラスに登り詰めてあんたは自分の優秀さを証明することができた。だが、それは頭の良さの話であって結局のところ血統種として劣っているという評価が覆らない。そいつは誰も指摘こそしなかったが、あんたは心の奥でずっと気に病んでいた」
唇を噛み締める辰馬さんを見てきつい口調で言ったことに罪悪感を覚えたが、今は畳みかける方を優先すべきと考えて続ける。
「だから、章さんをどうにか本部勤めさせたかった。自分の子が輝かしい業績を残したという事実で荒んだ心を慰めたかったんだ。御影章は優れている、そして彼をそこまで育て上げたのは“不遇な時代に耐え抜いた努力家の父親”だと。多分、沙緒里さんが本部の警備部長であることもコンプレックスを刺激したんだろう。自分を見下していた連中を完全に見返すためには、章さんを連中の誰よりも上に押し上げないといけない。そう思いつめてな」
「それは――」
「違うと? それなら奥さんと離婚したとき、何故あんなことを口にしたんだ?」
“あんなこと”という言葉を発した途端、辰馬さんはぎょっとして俺の顔を見つめてきた。
「礼司さんから聞いたよ。離婚前に礼司さんと隼雄さんを交えて最後の話し合いをしたときにこう言ったそうだな――別の道に外れれば奴らはきっと揶揄する。出来損ないの子供は親と同じ穴に入るのを嫌った、とな」
辰馬さんは何も言わずに俯いたまま黙っている。
俺は微かに湧き上がる憐れみを押し込めた。同情は全て終わってからでいい。
「章さんが『同盟』に入らなければ、才能に自信がない故に逃げたのだと嘲笑われる。それが我慢ならなかった。あんた自身がかつてのように蔑まれてるようだから。だからどうしてもそれだけは避けたかった。章さんの人生を縛りつけてでもあんたの自尊心を保つために」
「……もういい」
「ついでにもう一つ教えてやる。今朝慧から聞いたんだが、奥さんはあんたのこと今でも嫌ってはいないそうだ。むしろあんたの気持ちを汲んで考え直せとまで言ったらしい。あんたの傍にいた方がいいとまで付け加えてな。あんたの本心を、苦痛を知っていたからこそ嫌うことができず――」
「もうやめろ!」
悲痛な叫び声を降参の合図として、辰馬さんはがっくり項垂れた。
それを機に俺も全身から力を抜いて、ほっと一息ついた。やはりこういうのは得意ではない。汗に濡れた額を手の甲で拭う。
「……そうだ、言い訳はしない。全部お前の言うとおりだ。俺はただ……章を通して俺自身が虚仮にされるのが嫌だっただけだ」
俺は小さく溜息を吐く。
「自覚があるなら何故もっと早く止まれなかったんだ……気遣う人は何人もいたのに」
「お前にはわからんよ。お前も持っている側だ」
辰馬さんは引き攣ったような笑みを浮かべる。
「努力すればするほど元々持っていないものが余計欲しくなるんだ。絶対に手に入らないことがわかっているからな。何もないろくでなしなら諦めがついたかもしれんが……地位も名誉も手にすれば、最後には自分が持ちえなかった才能に目がいく」
俺自身は彼が言うようにその才能に恵まれた側だ。それでもその心情は理解できないことはない。
力を持たなかったから別の分野で己の実力を最大限に発揮した。しかし、それは本来望んでいた分野で活躍できないから選択したのであり、それが劣等感を際立てた。
「だから章には『同盟』の中で生きてほしかった。どんなに優れていても他の場所では駄目なんだ。親と同じ出来損ないだから逃げたと――そう言われるのは目に見えている。余所に行っては軽んじられる。俺が歩めなかった道を進んで――俺とは違うと証明してようやく認められるんだ」
「だがそれは章さんに対する評価だ。あんたのものじゃない」
突き刺すように言えば、辰馬さんは肩をすくめる。
「……わかっているんだ、そんなことは。俺は章が認められれば……ひょっとしたら俺も報われるような気がしてならなかった」
「礼司さんはあんたの心がおかしな考えに巣食われていることを心配していた。あんたを見張っていたのはこれ以上の暴走を未然に防ぐためだ」
生前の礼司さんから聞いた話と合わせて推測すれば、おおよその見当はつく。
彼は兄との和解が叶わずどう接していいのか苦慮していた。手をこまねいている間にも辰馬さんの言動はエスカレートしていく。せめてそれだけでも防ごうとした結果、辰馬さんの行動を監視することにしたのだ。
恐らくこの考えで間違っていないはずだ。
「俺はそんなに危なく映っていたのか……」
「いつ、どこで暴発するか皆冷や冷やしていたんじゃないか? 俺は小言を言われるだけだったから、我慢すれば問題なかったが」
俺を貶めたり章さんを持ち上げたりするだけなら、まだ容認できたかもしれない。しかし、先程のように五月さんへ暴言を吐いたような出来事が頻発するようであれば彼の最低限の信用すら失われ、章さんへの悪影響も懸念される。
ましてや今回は襲撃事件と殺人事件の真っ只中での醜聞だ。外に知られれば非難は避けられない。
「俺にはあんたの気持ちを完全に測ることはできない。だから悪い感情は捨てろなんて無責任なことを言うつもりもない。ただ、あんたを嫌っている人ばかりじゃないってことをちゃんと知ってほしいんだ」
辰馬さんの鬱屈とした心を解消する手段は恐らくない。これは彼がこの先折り合いをつけていく必要のあるものだ。
彼にとって支えとなるのは息子に名誉を得させることではなく、彼自身を受け入れてくれる存在とその存在を認めることなのだ。
頭の良い辰馬さんなら既に気づいていたことだ。それを認めたくなかったのは過去の苦痛と向き合うことに耐えられないと恐れたからだ。誰かに救いを求めれば結果として己の弱さを再認識せざるを得ない。それ故に辰馬さんは逃げた。
「わかっている。わかっていたんだ……ただ、礼司に言われると余計に惨めだっただけで……」
辰馬さんの身体は最初と比べて随分小さくなったように見えた。
普段の彼の姿とは似ても似つかない。これが本音を吐露したことで表に出た辰馬さんの素顔なのだろう。
「すぐに考えを変える必要はないんだ。少しずつでいい。長い時間をかけて変えていけばいい。章さんだって見捨てやしないさ。まあ、章さんの将来に関してはできる限り口出しせずに見守る方向でいてほしいが」
「それはそうだが……だが、五月のことは――」
そう言って辰馬さんは渋い表情をつくる。
「じゃあ改めて訊こう。あんたが言っていた五月さんの“正体”って何だ?」
「それは……」
「どうしてわざわざ蓮の事件を持ち出したんだ? 五月さんの“正体”ってのはあの事件と関わりある話なのか?」
俺が矢継ぎ早に追及すれば、辰馬さんは言葉に詰まり顔を背けた。
「……あんたは五月さんが蓮を唆した犯人だと考えているのか?」
「……可能性はある」
思い切って踏み込んで質問すると、辰馬さんは重苦しい調子で頷いた。
俺は緊張を隠しつつ、穏やかに次の質問を投げかけた。
「いつから疑っていたんだ? 少なくとも俺が追い出される前には出なかっただろう」
「それは……」
辰馬さんは言いよどむ。言いにくい事情でもあるのだろうか。
無言の圧力をかけながら待っていると、ようやく重く口を開いた。
「実を言えばあの時点でその疑いはあった。ただ、充分な証拠がなかった。それに――」
「それに?」
辰馬さんは言い辛そうな顔で視線を泳がせ、それから一度大きく息を吐いてゆっくり語りだした。