義妹帰宅
寧が帰宅したのは六時を十分ほど過ぎた頃だった。既に付近の封鎖は解除されており、報道関係者の波が屋敷の周囲を覆っていた。警官がそれを押し留める中、寧を乗せた車が門をくぐり抜けた。
「ただいま、騒がしいったらありゃしないわ。どこで嗅ぎつけたのか病院にまで来てたのよ」
「らしいな、お疲れ様」
居間のソファにどんと腰を下ろして、寧はだらんともたれかかる。居間には俺の他に登と小夜子さんがいる。寧はいつものように五月さんが淹れてくれた紅茶を啜っていた。
「結局身体の方は何も問題なかったのね」
「最初から大丈夫だと思っていたけど。心配のし過ぎよ」
「心配し過ぎるくらいで丁度いいの。礼司もそうだったでしょう?」
楽観的な寧の態度を窘める小夜子さんはどこか遠い目をしている。礼司さんと過ごした記憶を思い起こしているのだろう。登もそれに気づいたのか、俺の視線に対して苦笑した。
「それで? 私がいない間に何か進展はあったの?」
「雫さんの部屋を警察が捜索したらしいわ。隼雄から聞いたけど現場に忍び込んだんですって?」
どうやら雫の所業は既に知られているらしい。故に弁解が必要だろう。彼女にはまだここにいてもらうのだから。
その言い訳は既に凪砂さんと話し合って決めていた。
「それなんですが……実は彼女は礼司さんに頼まれて訓練場へ忍び込んだらしいんです」
「頼み、ですって?」
「凪砂さんが調べてくれたんですけど、礼司さんはこっそり訓練場の合鍵を作製して雫に預けていたそうです。そうして理由をつけて呼び、あの場所を調べさせたらしいです」
「お父様が? どうしてそんなこと……」
「ひょっとするとあの場所に何かあるのかもしれない。現に殺人の現場にもなったからな。礼司さんは生前それに気づいた可能性がある」
殺人事件との関連をでっち上げて、雫を礼司さんに雇われた調査員に仕立て上げる。あながち間違っているとも言えないので、これで通すことにした。事実病院の事件に関しては、礼司さんの代わりに動くこともあったらしい。それに礼司さんに頼まれたという点も嘘ではなく、“猟犬”の存在や隠し資料のことを伏せているに過ぎない。
「でも、それなら身内の誰かに頼めばよさそうじゃない? 外部から人を呼んで調べさせる必要なんて――」
寧は途中で言葉を切り、思考するように視線を上げた。昼間に話した殺人者が屋敷内の誰かという説を思い出したのだろう。もし、殺人者と現場の秘密が結びつくなら、念を入れて外部の者に任せたのだと結論付けたようだ。
「いえ、お父様なりの考えがあったのね。きっと」
「それで? 調べた結果何か出たの?」
「残念ながら何も」
俺は肩を竦めるふりをした。小夜子さんはまだ完全に納得がいったという表情ではないが、ここで話を続けても仕方がないと言い打ち切った。後で雫に礼司との関係について詳しく訊ねるつもりだと言うと、そのまま居間を去っていく。
小夜子さんが去った後、半開きになった扉の隙間をくぐって一匹の狸が駆け込んできた。俺と視線が合った途端、大喜びするように膝の上に飛び乗ってくる。
「どうしたトリス、彩乃と一緒じゃないのか?」
トリスが頭を腹にすりすり押しつけてくるので、頭を撫でてやる。寧は羨ましそうに眺め、それからそっとトリスの背中を触る。
「この子が彩乃が連れてきたっていう魔物? 結構可愛いじゃない」
「あちこち走り回るのが厄介だがな……おい、角が痛いからあまりぐりぐり動かすな」
腹や太腿に角が当たり痛みが走る。トリスは俺の訴えを無視して、膝の上で転がり続けた。
慎さんが居間へ入ってくると、俺に甘えるトリスに気づいて笑みを浮かべた。
「ああ、ここにいたんだ。つい今し方彩乃の部屋からまた逃げ出してね」
「構わないわよ。こんなときだから癒しになるもの」
トリスは仰向けのまま慎さんに可愛らしく鳴く。
「彩乃は一緒じゃないのか?」
「今は母さんといる。母さんもさっき目を覚ましてね。落ち着いているように見えるけど……あまり刺激しない方がいい」
既に母親の様子を見てきたのか、慎さんは複雑そうにそう告げた。再婚して一年も経たない内の悲劇だ。ただでさえ前夫の死がきっかけでああなっていたのが深刻化するのは、誰にでも予想がつく。
果たしてそんな事情を知ってか知らずか、トリスは俺に頭を擦りつけるのを止めて飼主の一人をじっと見つめ上げた。
「お前も信彦さんがいなくなって悲しいのかな? 一番付き合いが長かったからね」
「あら、トリスって信彦叔父様が拾ってきたの?」
「拾ってきたわけじゃないんだよ。トリスは元々研究所にいたんだ」
寧が首を傾げる。
「それって叔父様が勤めていた所?」
「そうだよ。トリスはそこの実験動物でね。それを信彦さんが引き取って来たんだ」
トリスがそうだと答えるように鳴いた。
こいつのような魔物は通常愛玩用の魔物として販売されていないので、どこかで拾ってきたのかと思ったがそうではなかった。
「そういえば信彦さんって何の研究者だったんだ?」
「聞いてなかったかい? 魔物の生態の研究だよ。主にこういった動物型の魔物についてね」
「へえ、そうだったの。あんた引き取られて良かったわね」
「研究所にいた頃から信彦さんに懐いていたそうだよ。それから彩乃のお母さんにも」
ふと、気になる言葉が出たので俺は慎さんに問いかけた。
「彩乃の母親も研究者って聞いたが、同じ所に勤めていたのか?」
「うん、その人も魔物の研究を手掛けていたんだって」
彩乃の両親は職場結婚だったわけだ。同じ職場に勤めていた夫婦がいずれも他殺という末路を辿るとは苦い話だ。それも片方の犯人は指名手配犯であり、もう片方――今回の事件もそれに関連していると考えられている。
「お母さんが亡くなったのってほんの二、三年くらい前だったかな。『同盟』関係者が殺されたこともあって、結構バタバタしてたからよく覚えてるよ。確かその事件の後に引き取ったって言ってたよ。引き取り手がいなければ殺処分されるはずだったけど、当時は信彦さんも気落ちしていたから何か同情しちゃったんだって」
「そっか、あんた新しい家族に迎えられたのね」
トリスの顎を指でなぞるように撫でる寧が、少し寂しそうに微笑む。
この家もペットが飼えるか五月さんに相談してみるのもいいだろう。
寧を部屋まで送り、夕食までの時間を持て余した俺は庭に出ていた。今日は皆肉体的にも精神的にも披露していて、多くの人が部屋でゆっくり休むことを選んだ。まだ、沙緒里さんと彩乃も本調子ではないので夕食の時間をずらしたと五月さんから通達があった。
肌寒い夜風に身を晒し、俺は庭の各地に一定の間隔で配置された警官たちを眺めていた。背後から足音が近づいてくるが振り返らない。
「夜はまだ若干冷えるな」
凪砂さんは俺の隣に立ち、ふうと息を吐いた。
「何か用ですか?」
「用というほどでもない。ただ、雫さんのことで少しな」
伏しがちに小声で言った凪砂さんに視線を向け、俺は眉をひそめた。
「何か怪しい点でもあるんですか? 俺にはそうは見えませんでしたが」
「そうじゃない。その――蓮のことだよ」
その言葉だけで彼女が何を言いたいか理解した。俺は敢えて沈黙を保った。凪砂さんはどう切り出そうか逡巡している様子だったが、やがて重々しく口を開いた。
「雫さんは蓮のことを知らないんだろう。つまり――君が殺めてしまったことを」
「……話す必要はないでしょう。少なくとも今は」
どのように話せと言うのだ。“あなたの友人が恋人の妹を殺そうとして、逆に自らが命を落とす羽目になった”と、そう残酷に告げろと? ただでさえ消えた親友を追うことで精一杯の状態なのに?
「そう、今は必要ない。だが、この先はどうだ?」
「どういう意味です?」
思わずドスのきいた声が飛び出したが、凪砂さんに気にした様子はなかった。
彼女の鋭い視線が俺を射抜く。
「由貴、君は一連の出来事の繋がりをどう見る? 鷲陽病院の事件では糸井夏美さんが消えた。去年の夏に、紫が消えた。それから“猟犬”が礼司さんに意図のわからない指示を出すようになった。その中には雫さんと接触することも含まれている。そして、今回信彦さんが殺害され、裏に鋭月一派の影がちらついている。これらに何か共通点がないか?」
「……ほとんどの事件に蓮の名前が出ているな」
蓮の友人であった糸井夏美が消えた。雫世衣もまた二人にとって共通の友人だ。紫は“蓮に逢いに行く”と不可解な言葉を書き残していた。言わずもがな桂木鋭月は蓮の実父であり、一派の中には顔見知りもいる。
「これが単なる偶然か? 私はそう思わない。私はこう考えているんだよ――蓮がこれらの中心にいると。彼が何かしらの鍵を握っていると」
「だが、蓮はもう死んだ。考えすぎです」
断言するような口調に凪砂さんは一瞬哀しそうに目を背け、それから再び俺を説得するように語りだした。
「確かに彼はもうこの世の人ではない。でも、だからといって可能性を捨て置くことはできない。何と言えばいいか……気持ちの悪い符号だ。関係がありそうで、実際には無関係かもしれない。そんな微妙な接点ばかりで、これだという決め手に欠ける。全てを一本の線で結ぶには肝心な情報が足りない。そんな印象だ」
それに関しては同感だった。先程雫の部屋で俺自身そう思ったのだ。ただ、多くの謎を解明する鍵がかつて親友だった男にあるとは信じたくなかった。まるで過去の罪が足元から這い上がってくるような感覚を覚えるのだ。
「一応考えてみてほしい。もし、本当に蓮が関与しているなら、雫さんが事件を追う過程で真実を知る恐れもある。そうなる前に明かすのか、最後まで隠すのか……」
物憂げな表情でそう言い、凪砂さんは遠くを見つめた。