当たり前の人生
礼司が評したように、最上精一という男は対立派と呼ばれる血統種優先思想を掲げる集団の中においては異質の存在である。
対立派と一口に言っても具体的な信条は様々だ。
血統種を人間より優遇させる社会を推し進める者、人間社会を経済的に支配しようと考える者、自信を排斥した人間社会への報復を企む者。
背景や思考に差はあれど、いずれも人間社会との敵対を前提としている場合がほとんどだ。悪意の強弱はさしたる問題ではない。ただ、結果として既存の人間社会に仇なす存在であるかどうか。それが“対立”というシンプルな言葉で括られているだけに過ぎない。
最上精一はそれらの例に当てはまらない。
彼は人間社会との敵対は全く考えていない。血統種を優遇させるような社会も望んでいない。日本を経済的に掌握しようとも考えていない。
彼が望むのは単に“当たり前のことが当然に認められる”という結果だけだ。
最上精一は神奈川県の生まれである。
彼は化学工場を経営する父親の下で育ち、裕福な少年時代を過ごした。
精一は人間と血統種の間に生まれた子供であり、父親が人間、母親が血統種という組み合わせであった。
両親の出逢いは、母親が化学工場の事務職の求人に応募してきたことにある。精一が後に両親から聞いた話では互いに一目惚れだったという。
精一少年は両親から無償の愛を注がれて健康に育った。当時工場に勤めていた従業員からも可愛がられ、何不自由のない生活を送った。
彼が母親から継承した感情のエネルギーを操る能力もその生活に彩りを与えた。
“人それぞれの器”――感応系能力の中でも他者の感情を操ることに特化した能力。
この能力は、他者がその時有している感情を増幅または減衰させる効果を持ち、ある程度相手の思考を誘導することができる。
幸福に満ち溢れている者をさらなる幸福に浸らせる。絶望している者をさらなる絶望に突き落とす。
感情の度合いを操作することは日常生活において有利に働く面が多い。交渉の場では相手の警戒心を薄めることで主導権を握ることができる。互いにいがみ合う者たちの悪感情を軽減すれば、人間関係のトラブルを無全に防ぐことができる。望むタイミングで都合良く感情を制御できるのは円滑なコミュニケーションを実施する上で最大級の特権とも言えた。
精一はこの能力を自らの平穏を維持するため最大限に活用した。それも一切悪用することなく、ただ純粋に誰かの助けになるような使い方で。
目標に向けて努力する誰かを応援したり、喧嘩を仲裁をしたり、気落ちしている友人を慰めたりと、強い感情に突き動かされる者や揺れる者はどこにでもいた。そんな誰かを目にするたびに精一は介入を繰り返す。
そこに打算や狡猾さは欠片もない。かといって自分の能力を世のため人のために活かそうという使命感や親切心も存在しない。
精一の脳裏を占めていたのは“そのように行動するのが当然である”という思考であった。
“人それぞれの器”の仕様上精一には他者がどんな感情を抱いているか感知することができる。
具体的な思考を読み取ることは不可能であるが、普段の言動や人間関係と併せて考えればその感情が如何なる経緯で生まれたのかを知ることは難しくない。余程捻じ曲がった事情でもない限り、ほぼ相手の内面を見透かせると言っても過言ではないだろう。
そんな能力を幼い頃から使いこなす精一には、常々疑問を有していた。
何故、人は当たり前の事実を当たり前に主張することを恐れるのか?
多くの感情を見る中で、精一は決して少なくない人々が自分の感情に反する行動を選択することに気づいた。
例えば、本心では強く主張したいことがあるのに、他者に遠慮して主張を胸の内に押し留める。
または、己の主張が周囲に認められないことや軋轢を生むことを恐れて口を閉ざす。
そんな選択を採る者が至る所に存在することが精一の心に引っ掛かった。
精一は彼らがその選択をした理由を理解できた。
誰しも余計なトラブルを好まない。労力と時間の問題はいつでも付き纏う。自分の感情に従い最大の利益を望むとき、労力と時間を消費することは避けられないのだ。
それが自分の持つ権力の財布と相談して消費するに見合う価値があればいいのだろう。しかし、現実にその余裕がある者は少なく、押し通す価値も見出せない。労力と時間で済めばいいもので、社会的地位や信用を天秤にかけるほどにまで状況が拗れることもあり得る。となれば、己の心に蓋をして少しばかりの忍耐を代わりに支払うことで穏便に事を済ませることができるなら、その道を選ぶのは大勢にとって合理的である。
しかし、精一は考えた。それは真に合理的な選択とはいえない。
精一には目的を目指して動く人々をまるで迷路の真上から俯瞰しているように観察できる。
故にどうしても考えてしまう。彼らが感情を正しく制御した上で行動すれば、より良い結果に到達できたはずだと。
彼は眼前にあるゴールへ続く通路の存在に気づかず無意味な妥協や闘争に明け暮れている。それが精一には理解できなかった。
無論ゴールを知ることのできる精一と彼らの立場が異なる以上、思考に差が生じるのは仕方のない話であったし、彼もまたそれを承知していた。
それでも誰よりも事実を把握できる彼は突き当たってしまう。もっとましな選択があったに違いないと。最大限の利益は目指せなくとも最大多数の幸福は目指せるはずだと。
答えを探し彷徨う人々の感情という情報、彼らが目指すべき解答、そこに至る手段。
最上精一はその全てを有していた。
ならば、持てる全てを活かして最良の結果へ辿り着くのが当然ではないのか。
精一はある時からそう考えるようになった。
「どうした最上さん、考え事か?」
「……ん、ああ、すみません」
礼司に声をかけられ、精一は我に返った。
「やはり緊張しているのか?」
「それもありますが……今は関係ない話です。目の前の問題に専念しましょう」
二人は現在氷見山公園に向けて徒歩で向かっている最中であった。
周辺はオフィスビルや商業施設が建ち並ぶ区域で、今の時刻はまだ喧騒に溢れている。赤ら顔の男たちの脇を縫うように進んでいく二人の顔は、明るい繁華街の雰囲気とは対照的に硬い。
「なあ、今更訊くのもなんだが浅賀善則という男は信用できるのか?」
「人格的に、という意味であればノーです。あれは間違っても気を許していい相手ではありません」
礼司が密会予定の交渉相手について訊ねると、精一はあっさりと言った。
鋭月の急所となる情報を握る重要人物の存在を突き止めた精一と滝音は、その人物の経歴と評価を徹底的に洗った。その結果判明したのは、浅賀善則はとても善良と呼べる性格ではないという事実であった。
上昇志向が強いのは問題ではない。出世や実績を求めて鋭月の下につくのは容認できないが、原動力とその力が向かう先がはっきりしていれば代わりの餌を与えることで制御できる。精一が調査したところ、浅賀善則はとても忠誠心の強い性格には思えないという評価が大半だった。鋭月から寝返らせるのは難しくないはずだ。
しかし、『同盟』にとって有用な存在であるかといえば断言できないのが実情だった。
浅賀を知るある人物が次のような証言をした。浅賀の向上心は関わる者を全て喰らいつくし養分とする悪性のそれだと。
浅賀善則と言う男は一度目的を見定めると、そこに向けて前進を始める。そして、その途中にある障害は一切の躊躇なく排除し、利用できるものがあれば倫理に反しようとも平然と用いるという。
彼にとって鋭月もまた都合良く利用するだけの存在に過ぎない。精一は浅賀をそのように捉えていた。
「事件が無事解決しても監視は必要か。有能らしいが手綱をとるのは難しそうだ」
「やめておいた方が賢明でしょうね」
精一は先のことを思い、憂鬱そうに溜息を吐いた。
「理解できませんね。平気な顔で他人を利用して、邪魔になったら切り捨てて。そんな生き方って無用なトラブルに巻き込まれそうじゃありません? もっと賢いやり方があると思いますが」
「この手の輩はどこにでもいるものさ。そうでなければ俺たちが苦労するはずがない」
「うーん……私はある程度人の心が読めるので、最適解を選ぼうとしない人を見るとどうしても口出ししてしまいたくなるんですよね」
「ああ、感情を読める能力だったか? なかなか便利じゃないか。それがあれば誰が自分に敵意を抱いているかすぐに察知できるからな」
礼司が羨ましそうに言うと、精一は少し困った顔で頬を掻いた。
「そうでもありません。便利といえば便利ですが真意がどうなのかまでは読み取れませんからね。他の情報と併せて推測するしかありません」
精一の言う通り“人それぞれの器”は完璧ではない。
相手の感情が読めるといってもその背景までは読み取ることはできないのは、意外に大きな欠点となる。
そもそもこの能力は、あくまで感情の種類とその大きさを感知するのが限界だ。何故、その感情を抱くのかその理由を知らねば思わぬ落とし穴に嵌まることを精一は経験上知っていた。
「それにこの能力があると息苦しさを感じますから。嫌いではありませんけど」
「人の感情がわかるのはやはり辛いか?」
「辛いというよりもどかしいんですよ」
精一の返答に、礼司は不思議そうな顔をつくる。
「もどかしい、というと?」
「今も言いましたが他の人がどんな感情を秘めているのか理解できると、彼らがうまくいくように口出ししたくなるんです。本当は互いに歩み寄りたいと思っているのに頑なな態度を維持している人たちとか、誤解から仲違いしている人たちとか見ると、どうにか関係を改善させられないかって思うことが多々あります」
「それは……そうだろうな。俺が同じ立場でも何か行動する。それが当然だと思う」
「当然――そう思えるならあなたは信用できますね」
強い意志を込めた口調に礼司ははっとした。
これまで穏やかな調子だけを見せていた精一が、はっきりとわかるほど感情を乗せた言葉を口にしたのだ。
礼司が無意識に精一の表情を観察すると、そこには哀しみと憤りが入り混じったような色が見て取れた。
「争わずにうまくやれる方法は案外世の中に溢れているんです。誰もその方法を知らないだけで。余程酷い事態でもなければ解決できるんですよ。だから、私はその方法を教えてやりたいと思ったんです。自己満足だとしても、それで物事が丸く収まるなら上々だと」
「……そうだな」
「人間と血統種の諍いだってそうです。確かに血統種の存在は多くの意味で人間にとって脅威です。肉体的にも能力的にも真っ当なやり方で勝つのは難しいですからね。それでも共存できないわけじゃない。魔物という脅威は未だ世界のあちこちに存在しています。奴等に対抗するには人間の力だって必要なんです。それに何だかんだ言って人間も強かですから、黙っていいようにやられるほど弱くない。仲良しこよしってわけでなくとも良きパートナーにはなれますよ」
「それは言えてるかもしれん。この国では良くも悪くも血統種は一種の財産として見なされている。政治家や実業家なんかはなかなか侮れない」
血統種向けの製品や対魔物用の武器等の製品の開発には、人間の技術者も多く携わっている。
知識と技術は人間と血統種の区別なく平等である。
この社会に人間が活躍できる場所はまだまだ沢山あることを礼司は知っていた。
「もし、人間と血統種の問題が無くなる日が来るとすれば――それは双方の血が完全に混じり合って、彼らが新たな“人”として名乗る時でしょうね」
「来ると思うのか?」
「それは今後の人々の意識がどう変化するか次第ですが……血統種に劣る人間を根絶やしにするなんていう過激な考えよりはましでしょうね」
いつか人間と血統種を分ける境界線が消滅する日が来る。
礼司は想像したことはなかったが、精一はあり得なくもない未来の一つだと捉えていた。
「とにかく、やり方はいくらでもあるという事実を皆に知ってほしいんです。特に人間に偏見や不信を抱いている血統種にはね。彼らには一線を越えてしまう前に留まってほしいんです」
「だから、敢えて対立派に所属していると?」
「意識を変えるなら立場が近い方が良いですから。敵陣ど真ん中で和平交渉するようなものですけど、これが意外と同調してくれる人が多くて助かりました。閉塞感や焦燥感から逸りそうになっているだけで、内心は落としどころを探っているって勢力があるんですよ。妻もその中の一人でした。妻にはどれだけ助けられたか……家庭でも随分依存しちゃってます」
惚気るように微笑む精一は幼子のように笑った。
礼司はこれがこの男の素顔なのだろうと思う。
「楽に生きることができるならそうした方が良いに決まってます。わざわざ過酷な道程を歩む必要なんて無いんです。それなりに平穏で、たまに嫌なことがあって、誰かと結ばれて、ささやかな幸福を得る。そんな当たり前の人生を当たり前に享受してほしいんです」
「だからこそ――桂木鋭月には消えてもらわなければならない」
「ええ、そうです」
精一の表情ががらりと変化する。そこには穏やかさは無く、代わりに敵と見なした男に対する冷酷さがあった。礼司はそこに一角の地位を自らの力で築いた男の内面を垣間見た。
それから二人は会話を交わすことなく無言のまま歩き続けた。
やがて、二人は氷見山公園の入口に辿り着く。
公園前は大分静かで人影もまばらだった。交通量も先程と比べると少ない方だ。
二人は公園の前に立つ一人の女性へと近づいていく。
「滝音、どうだい?」
「先程公園内に入っていきました。浅賀一人だけです、一応は」
最上滝音は夫の言葉にそう返す。
彼女は先んじて公園に来てから人の出入りを監視していた。
そして、ほんの十分ほど前に浅賀善則が公園の中へと入っていくのを確認し、夫と礼司が到着するのを待っていた。
「一人ね。少なくとも誰かを伴って堂々と入っていくはずがないか」
「ところで、他の入口の方は見張っているのか? 俺たちの他には誰も呼んでないはずだが」
「大丈夫です。他の入口も全て監視しています。監視用の道具を生成できる血統種に大枚叩いて準備しましたから」
精一と滝音はこの日のために道具を生成できる血統種数名に接触して、いくつかの道具を用意していた。
いずれも隠れ家のマスターのように精一が過去に恩を売った者ばかりで、鋭月に存在を悟られていない貴重な協力者だ。
「秋穂さんの能力が使えたら良かったんだけどな」
「“観察者の樹”は向こうに割れているから仕方ありませんよ。対策も練ってきているでしょうし、下手な真似はできません」
かつて鋭月の配下であった秋穂の能力は、鋭月も既に把握している。
仮に今回の密会が鋭月に漏れているとした場合、秋穂の眼を潜り抜けて公園内に侵入する手立ての一つや二つは用意すると精一は考えていた。
「結局のところぶっつけ本番しかないということか」
「ある意味一番わかりやすくていいかもしれませんね」
「元々そのつもりで来たんだ。気にすることはない」
礼司は挑戦的な笑みを浮かべ、指を鳴らす。
「何かあった時は俺が正面で戦う。あんたの言葉を借りるならそれが最適解じゃないのか?」
「いざというときは我々もサポートしますが戦力的には期待しないでください。全く戦えないわけではありませんが、戦闘に関してはあちらが経験も技術も上です」
「無理はしなくていいぞ」
時刻は午後九時を回ろうとしていた。
三人は互いに顔を見合わせると、ゆっくりと公園の敷地内へと踏み入る。