ささやかながら運命を分かつ判断
小夜子が一階の自販機コーナーで一息ついていると、見知った顔が近づいてきた。
「おや小夜子殿、随分と浮かない顔をしていますな」
「あなたはいつも通り元気そうね恭四郎」
「俺は威勢の良さだけが取り柄ですので。他が足りない分を溢れんばかりの精力で補うしかないのですよ」
朝比奈恭四郎は若々しさに満ち溢れた笑顔を振りまく。
今年で十八歳になる恭四郎は、既に熟練の戦闘員として各地で八面六臂の活躍を見せつけている。
まだ学生の身でありながら学業と任務を両立させているのは、この年頃にしては珍しい例であった。『同盟』に名を連ねる未成年者は大抵高校を卒業するまでは学業に専念することが多い。その者の力を借りる必要がある事態でも生じなければ出動することはまずない。
恭四郎がこのように立ち回れるのは、ひとえに礼司の存在あってのことだ。
彼が礼司に弟子入りしたのは十二歳の時である。
当時、彼は“正義の味方”になることを夢見ていた。
弱気を助け、悪を打倒す。そんなありふれた物語の主人公に自らを投影して、胸を躍らせてるような時期を過ごしてた。
そんな少年が『同盟』の戦闘部隊に所属する父親を尊敬するのは当然であり、また父親が信頼を寄せる日本最強と称される礼司に強烈な憧憬を抱くのもまた自明の理であった。
いつかの夏の日であったか、恭四郎は礼司と香住草元の練習試合を『同盟』本部の地下で観戦した。
圧巻の一言であった。
風が吹き、雷が落ち、吹雪が視界を遮る。
生物が本能的に恐れる大自然への畏怖がフィールドという限定された空間に敷き詰めるように具現化されるのを目の当たりにして、恭四郎は背に汗を流すほどの恐れと共に肉体が張り裂けんばかりの感動に襲われた。
草元は健闘したがおよそ十分ほどで戦いは幕を下ろした。礼司が勝利の余韻に浸るように軽く息を吐くと同時に、フィールドを覆っていた荒れ狂う大気の猛威は一瞬で消え去った。
少年が日本最強の男に頭を下げたのは、その日の夜であった。
それから六年の歳月があっという間に流れた。
今や弟子は精悍な顔立ちの少年となり、将来有望な芽として注目を浴びている。
まだ最高評議会のメンバーしか知らない話であるが、もうすぐ引退する老齢の幹部の後釜に据えることがほぼ決まっている。
「今日任務から帰還したと草元が言っていたけど、確か名古屋だったかしら?」
「ええ、丸岡銀行の一件で腕っぷしの立つ奴を何人か派遣してほしいと要請があって俺が選ばれたんです」
「無事に解決したとは聞いたけど……どうだったの?」
「草元殿が予想していたとおりでした。実行犯は中部地方を根城とする犯罪組織の構成員でしたが、やはりどこかの大規模組織の子飼いであると」
恭四郎が名古屋に赴いていたのは名古屋支部から持ち込まれた難題を解決するためであった。
名古屋に本店を置く丸岡銀行の頭取が殺害されたのは三ヶ月前のことだ。
現場は本店の駐車場で、頭取は車から降りたところを何者かに狙撃された。
すぐに警備員が駆けつけ警察に通報したが、頭取は頭に銃弾を受けて間もなく死亡が確認された。
現場の見分を行ったところ、狙撃の際に何らかの血統種の能力が用いられた形跡が認められ、具体的な能力を絞り込みが行われた。
頭取の周辺を洗っても彼とトラブルがあった人物の中に該当する能力の保有者はいない。
代わりに得られたのは、彼が対立派のメンバーとひと悶着起こしたという話だった。
頭取は対立派と関係のある団体が架空口座を開設しようとした際に脅迫を受けていた過去があった。
その団体は彼に度々圧力をかけあらゆる手段を駆使して屈服させようとしたが、彼が応じることはなかった。
結果としてその団体は『同盟』と警察によって壊滅させられるに至った。
警察はこの一件が遺恨となり、頭取の命を奪ったと考えた。そうしてこれが対立派絡みの事件であるなら万が一に備えて腕の立つ人員を用意すべきだと結論づけ、本部に相談したのだ。
やがて、件の団体と関連のあった犯罪組織が捜査線上に浮上し、そのアジトに突入する決定が下された。
その後、突入作戦は無事成功に終わり、こうして恭四郎は無傷で帰還したのである。
「小夜子殿、なんだか妙に元気がありませんな。浮かない顔がさらに暗くなっていますよ」
「ああ……ごめんなさい、つい考え事をしてしまって。最近なんでもすぐに考えこむ癖がついちゃって」
小夜子は知っていた。
この犯罪組織の背後にいる大規模組織こそ、今礼司が密告者と共に尻尾を掴もうとしている相手であることを。
しかし、それを明かすことはできず、胸の内にもやもやとした感情を溜めるばかりだった。
「仕事の疲れが溜まっているのではありませんか? 最近は休暇を申請していないでしょう。あなたは我らが『同盟』の最大戦力なのですから、万全の状態を整えるとあらば誰も文句は言いませんよ。そういえば礼司殿も今日は休暇をとっているそうですね。蘭蔵殿が愚痴を零していましたよ」
「え、ええ、そうみたいね」
「少し気になったのですが礼司殿は今日どこへ行かれているのですか? てっきり家族サービスにでも勤しんでいると思ったのですが、今夜ここに紫殿と寧殿を預けていると耳にしました」
「なんでも“古い友人”と逢う約束があると聞いたけど、私も詳しくは知らないわね」
「ほう……礼司殿の旧友ですか。気になりますが今度訊いてみるとしましょう」
恭四郎はそう言うと去っていった。
彼の背中を見送った小夜子は疲れたように椅子に座ると、自販機で買ったばかりのコーヒーに口をつけた。
小夜子は外の暗闇を見つめながら考える。
礼司はもう動き出している頃だろうか。今日は昼に一度逢った後に別れてから連絡はない。無事に終われば電話をする約束をしているが、じっと待つだけでは焦燥を抑えきれない。
小夜子は椅子の背もたれに回している指を苛立たしそうにとんとんと鳴らす。
結局、考えるばかりではどうしようもないことを改めて認識し、彼女はテーブルに突っ伏した。
小夜子は悶々としながら心の中で礼司へ愚痴を零す。そもそもなんで自分がこれほど悩まなければならないのか。厄介事に首を突っ込んだのは礼司であって自分ではない。だというのに何故彼より自分が頭を痛めているのだろうか?
答えはすぐに出た。彼の行為を見逃したからだ。草元に報告することもできたのに、彼女はそうしなかった。だから、こうして彼がやろうとしていることを黙認しつつ、後始末を手伝おうとしている。
小夜子は苦々しい顔をつくった。
これは未練だ。未だに自分は礼司を想っている。彼に協力を仰がれたら応じずにはいられないのだ。きっぱり諦めたというのにふとした拍子に蓋をした感情が首をもたげる。
つくづく面倒な性格をしていると小夜子は己を呪った。
「小夜子おばさん」
背後からかけられた小さな声に小夜子がテーブルの上に這わせていた上半身を上げた。
振り返るとそこには上等に仕立てられた服に身を包んだ少女が立っていた。
今夜、礼司が屋敷を離れているため彼の娘二人は小夜子が面倒を見ることになった。
しかし、彼女は礼司のフォローをするため本部で雑用仕事をする必要があったため、子供たちを連れて来たのだ。
一階には託児所があり、子供が退屈しない程度には設備や玩具が揃っている。警備体制も充分なので下手な所に預けるより余程安全だと職員からの評価も高い。『同盟』職員というだけで家族がならず者の標的になる恐れはある。身近な場所に可愛い我が子を置くのは職員にとっても都合が良いのだ。
尤も、紫はもう小学二生ということもあり、幼児向けの玩具には興味がない。彼女の興味は専ら地下の訓練施設にあった。
紫は本部に到着してすぐさま地下へと向かい、多少の休憩を挟みつつずっと職員との模擬戦を繰り広げている。妹は姉にべったりで一緒に訓練施設へ着いていった後は、観客席にちょこんと座って姉の勇姿に歓声を上げていた。
小夜子は子供らしからぬ趣味を持つ紫に呆れながらも、あやす手間が省けたと自分の仕事を済ませることにしたのだ。
小夜子は二人がまだ訓練施設にいるとばかり思っていた。
ところが、何故か妹の方は一人で小夜子の元までこうしてやって来た。
「あら、どうしたの寧。紫は一緒じゃないのかしら?」
「おねえさまは訓練してる。さっき恭四郎お兄ちゃんが来て模擬戦するって言ってた」」
「……恭四郎は報告書を仕上げる作業が残っていたはずだけど」
任務から帰還したばかりでそれなりに疲れていると思っていたが、見たままの通りに元気があり余っているようだと小夜子は思った。
「寧はもう飽きちゃったのかしら? もうかれこれ四時間ぐらいは続けているわね。流石に長過ぎね」
「……」
時計を見ながら言う小夜子に対し、寧は無反応だ。
その様子が普段と何か違うことに小夜子は気づいた。
「どうかしたの?」
「……さっきからへんな感じがする」
怪訝な顔をした小夜子が訊ねると、寧はぽつりと答えた。
「変な感じ? どこか具合が悪いの?」
「ちがう。なんだかちくちくする感じがする」
寧は首を振ると、腕を摩りながら嫌そうな表情を浮かべた。
ちくちくという表現に小夜子は意味を理解できず首を傾げた。
「ちくちく?」
「向こうの方から流れてくる。すごくいやな感じ」
寧が指差したのは外の暗闇だ。子供の貧弱な語彙では他に表現しようがないのだろう。ただ、小夜子は何か嫌な空気が漂ってきていると言いたいことだけは悟った。
小夜子は夜の闇と点々と浮かぶ街頭やビルの灯りに目を凝らすが、不審な物は何も見当たらないし少女の言う嫌な空気も感じない。
「……」
通常なら子供の戯言だと聞き流すようなことかもしれない。
しかし、小夜子はそう受け取らなかった。
それは発言者がどこにでもいる子供ではなく御影家の血を引く子であったからだ。
小夜子は知っていた。御影の血族が彼らが有する能力とはまた異なる未知の力を発揮することが時折あることを。
まだ彼女が若かりし頃、礼司もまた同様の感覚に襲われたことがあった。彼はそれを身体に鋭く細い刃が突き刺さるような不快感と表現した。他の誰もが感じ得なかった感覚に従って行動した彼は、巨大な異界とそこから湧き出る魔物の群れを発見したのだ。
それ以降礼司は同様の感覚を体験することはなかった。
あれは何だったのかと小夜子が問えば、礼司は御影の血を引く者が稀に経験する天啓に近いものだと答えた。礼司の父親も祖父も過去に一度だけ同じ経験をしたらしい。その時も大規模な魔物の侵攻を食い止めたという話が残っている。
礼司も小夜子もその感覚の正体を追求することはなかった。
故に彼らは知らない。
それが御影家に代々伝わる“天候操作”とは別の能力であることを。
世界でも例を見ない異界の門の存在を感知する感応系能力であることを。
そして、既に紫がその能力に完全な形で覚醒し、使いこなしていることも。
「ねえ、その変な感覚が流れてくる場所ってここから近いの?」
「……たぶん?」
小夜子はしばしどうすべきか悩む。
既に日が落ちている今、本部に詰めている職員は少ない。
もし、緊急の事態が引き起こされようとしているなら手勢を集める時間はない。
自分だけで対処できるだろうか?
小夜子は仮に過去の例のように大量の魔物が異界から湧き出る事態であれば、己の身体一つでも対処できるかもしれないと考えた。
彼女は自己の戦力を客観的に評価していた。強大な魔物が何匹も出現しない限りは“暗黒の大海”だけで充分足りるはずであった。
また、距離がここから離れていないなら万が一のときでもすぐに増援を期待できる。まずは周辺の被害を抑えるだけでもいい。
小夜子はこれまでに養ってきた直感を信じた。
「わかった。ちょっと確認したいから寧も一緒に来てくれるかしら?」
これは小夜子にとって、そして寧にとってささやかながら運命を分かつ判断であった。