父親二人、隠れ家にて
小夜子が頭を悩ましていたのと丁度同じ時刻、御影礼司は帳町の駅前にいた。
駅のホームに流れるアナウンスが薄暗い空へ溶けていく中、礼司は駅前広場の喧騒の中で佇んでいる。
秋の涼しさが心地よい日だった。この日の礼司は休暇を申請しており、昼間はずっと家で二人の娘を相手していた。
相手といっても世間一般で考えるような親と子供の触れ合いではない。礼司は娘たちに能力の制御方法を訓練させていたのだ。
礼司は仕事柄能力の使い方を誤ったことが原因で人を傷つけてしまった未成年をよく見る。我が子にはそんな失敗をしてほしくないと、彼は子供でも簡単に覚えられるような能力の制御方法を暇さえあれば指南していた。使用人の天野夫妻からは「もっと子供らしい遊びを覚えさせた方がいい」と叱られていたが、こればかりは性分だった。
そんな礼司もここのところ“仕事”のために忙しい日々が続き、ろくに子供の相手ができず寂しい思いをさせていることを彼は恥じていた。そのためこの日の昼間は久々に家の敷地内で子供たちの相手をしていたのだ。
ここ最近紫の上達は目覚ましく、礼司は彼女が持つ才能の片鱗に目を見張るばかりであった。間違いなく紫は将来自分をも凌ぐ人物となるだろう。
一方、寧も幼くありながら既に能力を一通り操れるようにまで成長していた。驚くべきことに寧はまだ教わっていない能力の扱い方を自ら見出しており、それを父親の前で華麗に披露してみせた。まるで能力の扱い方を本能的に知っているように。果たして御影家の血がそうさせるのか礼司は彼女の潜在能力を測りかねていた。
あの二人の力は自分の想像を遙かに超えているかもしれない――礼司は不安にも似た高揚感を抱きつつ、家を出た。
礼司が目指すのは繁華街の一角、居酒屋やラーメン店が立ち並ぶ区域だった。この時間帯になると会社帰りのサラリーマンの姿が多くなり、喧騒も増してくる。
この辺りは評判の良い飲食店が多く、雑誌やネットの記事でも取り上げられることがある。御三家のお膝元というだけあって血統種が経営する飲食店が溢れているのが理由だ。それぞれが能力を駆使した味付けは全国から客を呼び寄せる。
また、無名の店でも猛者どもを唸らせる味を見せつける所も少なくない。礼司が知る店でいえば『韋駄天』もその一つだ。
そして、今回礼司が目指す先もそんな隠れた名店の一つである。
ただし、その店の場合は物理的に隠れた店であった。
礼司は香ばしい香りの漂う通りを立ち並ぶ店には目もくれず通過する。そうして通りを抜けた先の交差点を右に曲がった。
彼は先程とは変わって人の気配の少ない道を真っ直ぐ進んでいき、ある建物の前で止まった。
見上げると『神沼ビル』と書かれた縦長の看板が下がっている。
事前に調べたところ五階建ての貸しビルで、築十年以上は経過しているらしい。二階と三階部分にはそれぞれ手芸教室と通信教材の販売会社が入っており、四階と五階は空いている。礼司が求める場所は一階部分にあった。
彼はビルへ入ると灯りの乏しい通路を奥へと進んでいく。一階テナント部分へ続く扉を通り過ぎた先には一見すると地下へ続く扉しかない。
だが、彼は地下への扉すらも通り過ぎ、行き止まりまで辿り着いた。
「あとはこれを使えばいいって言っていたな」
礼司はそう呟くと懐が一つのカードを取り出した。
カードには赤と白の二色で塗られていて、隅に“会員証”と小さく印字されている。
彼が壁に向けてそのカードを翳すと、突如壁が淡く光り輝き出す。長方形の光は数秒の間光を散らし、ゆっくりと消えていく。
光が消えた後、壁には一枚の扉が残っていた。
扉を開けた先には地下へと続く階段が伸びている。礼司は壁に埋め込まれた照明を頼りに一段一段ゆっくり降りていく。
階段の下からクラシカルな曲が礼司の耳に届く。一段降りる度に音源は近くなっていき、やがて礼司の視界に開けた空間が映るようになった。
まず最初に彼の眼に入ったのは細長い黒檀の板とその奥に立つぴったりとしたスーツを着た一人の男。それらがバーカウンターとバーテンダーの組み合わせであるとすぐに理解する。
そして、カウンターの一番奥に座るもう一人の男。その男は礼司に向かって手を挙げた。
「こちらです礼司さん」
最上精一は礼司とそう変わらない年頃の男であった。礼司より二つか三つほど若い程度だ。
背丈は礼司と百七十を超えるくらい。身体つきは長年の戦いで鍛え上げられた礼司の肉体と違い、すらりと細い。
瞳は子供のように純粋な印象を見る者に与え、思わず警戒を解いてしまうような柔らかさがあった。礼司も心の奥底を見透かされるような錯覚に陥り、反射的に意を引き締める。
「申し訳ない。少しばかり立て込んで遅れてしまった」
「構いませんよ。無理を言ったのはこちらですから」
約束の時間は三十分前であったが想定外の出来事が起き、それに対処するためにやむなく時間を遅らせることになったことを礼司は謝罪した。
今日は二人にとって大事な日だ。ほんの少しの予定の狂いがあってもいけないと承知していたのにこのざまだと礼司は内心己に悪態を吐く。
精一は全く気にしていない様子だ。彼にとっても礼司が約束の時間に遅れたことは余計なストレスを与える要因になったであろうに。確かに最初に無茶な話を持ちかけたのは精一の方だが、乗る決断をしたのは礼司だ。文句の一つを口にする資格はあると礼司は思ったが、当の本人は変わらず穏やかに微笑んだままだ。
礼司は居心地の悪さを払拭するように話題を変えることにした。
「それで――ここは大丈夫なのか?」
「ええ、私の息がかかった店です。ここのマスターは空間生成の能力を保有していましてね。この建物は彼の持ち物なんですが、地下にこのような秘密の店を構えて密かに商売しているんです。儲けはほとんどない完全に趣味の店です。まあ、だから税金の方はこっそりお目こぼししてもらっているんですよ。内緒にしておいてくださいね」
「秘密の店か。この会員証がないと出入りすらできないんだな」
「この店に入店できるのはマスターが生成した会員証を所持している者だけであり、たとえ如何なる能力を持っていようとも他の方法で侵入することは叶いません」
「確かに。店の前でも思ったがこれだけ強力な隠蔽なら、我々がここで落ち合ったことも悟られまい」
空間生成能力は魔物が持つ異界構築能力が変化したものである。通常異界の存在を感知できないように、異界構築能力から生まれた空間生成能力は感応系能力でも看破することは不可能に近い。
加えて、副次的な効果なのか建物の周囲にも建物に対する意識を逸らすような効果があることも礼司は確認している。人材に恵まれた鋭月の派閥といえどもそう簡単に尻尾を掴めないだろうと彼は感嘆した。
「ところで一人だけのようだが奥方は?」
「後で合流予定です。念のために準備をしておく必要がありますから」
「そうだな。冒す危険の大きさを考えれば過剰なくらいが丁度いいかもしれない」
これから彼らがやることに失敗は許されない。成功すれば躍進ともいえる大きな一歩となるが、失敗すれば自分あるいは他者の生命を代償となることになる。二人ともそれを理解していた。
「……それにしてもなかなか良い雰囲気の店だ」
「でしょう? ここの主は、まあ、所謂“訳あり”なのですが……私が世話をしたのを恩義に感じてこうして密談の場として提供してくれるのです。今では気に入った客にだけ来店を許す文字通りの隠れ家的名店になりましたよ」
「慕われているんだな」
「大したことはしていません。ほんの少し地位を使っただけです」
茶目っ気を見せるように精一は片目を瞑る。
それを見て礼司は若干呆れたように笑った。
「最初に逢った時にも思ったが、あなたは……そう、とても善良な性格をしている。あなたのような人物がトップに立っていれば良かったのだが」
「現状は無理でしょう。私はあくまで天狼製薬に雇われているだけに過ぎない。そして、天狼製薬は陰で鋭月が支配している。私自身多少の影響力を持つにまで至りましたが、奴をどうにかするには足りない」
「だからこそ今回のような手段を採ることにした、と?」
「ええ、そうです。これ以上は待てない。奴に時間を与えれば手に負えなくなる」
精一の覚悟に満ちた言葉に礼司は頷いた。
彼の言う通り時間は常に鋭月の味方である。精一の言葉を信じるなら既に医薬品業界のあちこちに鋭月は手を伸ばしている。特にここ数年の勢いは止まるところを知らない。このまま指を咥えて見ていればこの国のバイオケミカルは鋭月の押さえられる。
また、人間の政治家や実業家の中にも鋭月に屈服している者がいる。家族を人質にとられて脅迫されているのか金で買われているのか事情はそれぞれ異なるが、『同盟』の活動を政治的または経済的に妨害していることに変わりはない。恐らく警察関係者にも少なからずいるだろうと香住草元が懸念していたのを礼司は思い出した。
「段取りを確認しよう。午後九時に氷見山公園の植物園で浅賀善則と落ち合い、奴から鋭月が指示した違法な研究に関する証拠を受け取る。何もなければそれでよし。もし、鋭月の手勢が控えていた場合は俺が動く」
「改めて訊きますが本当に一人で大丈夫なんですか?」
「問題ない。鋭月自身は来ないのだろう?」
「はい、今夜は自宅に真っ直ぐ帰るはずです。奴の動きだけはずっとマークしていますので、何かあればすぐに伝わります」
「ならいい。後は俺に任せてくれ」
本来であれば浅賀善則をそのまま保護するべきだろうが、今回の一件は礼司の独断専行であるため見送ることになった。これに関しては小夜子に雷を落とされ、流石の礼司も縮こまった。昔から彼は小夜子に弱いところがあり、結婚してからもそれは変わらない。
その一方で、今回の件を相談した相手も小夜子であり信頼を置くという点では彼女をおいて他にはいない。
ともかく、浅賀が消えれば鋭月は警戒し、最悪行方を晦ましてしまう。それを未然に防ぐためにも浅賀を『同盟』で保護するのは避けることにした。
その判断が功を奏すかは今の段階では不明だ。
礼司の思考は隣から聞こえてきたスマホの着信音によって破られた。
精一はスマホの画面に表示された『布施秋穂』の名を見て、眉を上げる。
今夜、精一は秋穂に自宅の留守を任せていた。まだ幼い息子の由貴を一人置いていくわけにはいかず、彼女に世話を頼んだのだ。
秋穂は元々精一と滝音の監視役として鋭月に派遣された人物だ。任務は情報収集と暗殺。精一と滝音が不穏な行動を見せた時に制裁を与えるのが彼女の役目であった。
それも過去の話である。現在秋穂は精一が最も信頼を寄せる部下だ。
「失礼――秋穂さんか、何かあったのか?」
精一が秋穂に用件を訊ねると、心配そうな声色が返ってくる。
『すみません。こんな時にお伝えするのもなんですが……由貴さんが熱を出しました』
「本当か? 体調は?」
『今のところ気怠さを感じているだけです。咳等の症状は見られません。ただ、万が一に備えて天狼製薬の開発部から譲り受けた血統種用の解熱剤と免疫強化剤を投与しようかと考えています。ついでに開発部で現在研究中の服用タイプの寄生樹も確保しております。服用すると胃に根を張り、体内の栄養分を吸収する代わりに化学物質を血液中に注入し、一時的に身体機能を強化します。最悪の場合でもこれがあれば危機は――』
「なんでそんな物持ってるんだ。そこまでしなくていいからとりあえず寝かしてやってくれ」
精一には秋穂が自信満々な様子で説明している姿が容易に想像できた。
彼が最も信頼を寄せる部下は、彼の息子に対して異様に過保護である。
『私は精一様と滝音様から由貴さんを託されている身です。なればあらゆる手段を講じて治療に当たるのが私の責務。どうぞご安心ください』
そう言って秋穂は一方的に電話を切ってしまう。
精一は溜息を吐いてスマホを懐にしまう。
「どうした?」
「……息子の御守りを任せた部下が過保護すぎる」
「息子か。今年でいくつになる?」
「八歳です」
「ほう、俺の娘……上の方と同い年だな」
「礼司さんには子供が二人いるんでしたっけ?」
「ああ、下の子はまだ四歳だ。まだまだ手のかかる年頃だよ二人とも。片親だから甘えられるのが俺しかいないというのもあるが」
礼司の顔に僅かに陰りが差した。
「……奥さんは亡くされたんですか?」
「二人目が生まれてすぐな。病気だったんだ。性質の悪いやつでな、発見が遅れたせいで治療もままならなかった」
礼司は自嘲するような笑みを浮かべた。
妻の身体の異変に気づけなかった己を蔑んでいるのだろうと精一は当たりをつける。
「本当は男の子も欲しかったが叶わなかったよ。そっちはどんな子だ?」
「あまり手はかかりませんが感情を表に出さない子でしてね。同年代の子とうまくやっているのか心配です。どちらかといえば素直な性格ですね」
「素直か……うちの娘たちとは無縁の言葉だな」
礼司の脳裏に二人の娘の姿が浮かぶ。
紫は普段こそ大人しいが時折大胆な行動に出ることがあり大人を驚かせる。親類の中では隼雄に最も懐いているが、礼司は弟が外見通りの男でないことをよく知っていた。妙な影響を受けなければいいのだがと心の中で願う。
寧はとにかく好奇心旺盛で何かあると首を突っ込みたがるじゃじゃ馬だ。目を離すと何をするかわからず家族と使用人を困らせている。
「ふふ、もしかしたら息子と仲良くなれるかもしれませんね。誰か引っ張ってくれるような人がいれば孤立することもありませんから」
「そうだな……この件が滞りなく片付いたら顔見せするのもいいかもしれない」
精一の言葉に礼司は一瞬和やかな未来を想像する。
この何気ない会話を、礼司は後に振り返ることになった。