頭を悩ませる問題
名取小夜子は時折考える。
あの時、何が最善の行動だったのか。
もし、何か別の選択をしていれば結末を変えることはできたのか。
そもそもあの場に自分がいたこと自体が間違いだったのではないか。
疑問を追及すればするほど思考は沼に沈んでいき、堂々巡りを繰り返す。
過去にたらればを持ち出してもどうにもならない。血統種の能力は天変地異を引き起こすものはあっても、歴史を塗り替えるものは未だかつて存在しないのだ。
それでも小夜子は考えざるをえなかった。
自分の判断は正しかったのか。
八年前の十月二十日の出来事を小夜子は今でも鮮明に思い返すことができる。
その日の夕方、小夜子は『同盟』本部のプライベートルームで一人悩ましそうに表情を歪ませていた。
「……ああ、もうどうしてこんな大事な話を一人で進めようとするのよ。今更計画を変更させるなんてできないじゃない」
頭を悩ませる原因は、小夜子の眼前に置かれた書類の束にあった。これらの書類はいずれも礼司から手渡されたものだ。
内容は過去に発生した殺人事件の捜査資料。『同盟』の資料室、あるいは警察から入手した二十以上の捜査資料が小夜子のデスクの上に積み重なっている。
事件はどこかのオフィスビルで起きた会社経営者の殺害事件に始まり、地方の不動産業者が自宅で強盗に殺害された事件や、女性会社員が殺害後に山中に遺棄された事件、さらには繁華街の隅で起きたごろつきの殺害事件まで多種多様だ。
被害者の職業、年齢、出身地もばらばらであるが、これらの事件には一つだけ共通点があった。
これらはいずれも未解決事件である。
「そして、全て桂木鋭月が背後にいる――ね」
小夜子は礼司から齎された話を思い返す。
『同盟』が長年追跡してきた対立派最大の勢力。政財界に多くの根を伸ばし、社会を陰から蝕んできた巨悪の正体が桂木鋭月である。
この当時、桂木鋭月は華々しい飛躍を遂げた血統種のビジネスマンとして知られていた。
血統種用の薬剤の研究を推し進め、医薬品業界において多大な影響力を誇る男。天狼製薬の最大出資者であり、異界原産の植物の栽培と販売で財を築いた成功者としてテレビや雑誌に取り上げられたことも少なくない。
そんな男が『同盟』最大の敵である。礼司が小夜子に進行な表情でそう伝えたのが一ヶ月前の話だった。
「この男のために闇に葬られた人は数知れない……ね。確かにこれを読む限りではありえないとは言えないわね」
捜査資料に目を落としながら小夜子は呟いた。
礼司が彼女に渡したこれらの事件は、鋭月が裏で糸を引いているという事件ばかりだ。
一見すると何の繋がりも無いように思える被害者たちは、全員が桂木鋭月という一人の男と通じて関連性を見出すことができた。
鋭月の会社と取引があり何らかの秘密に近かった者、鋭月にとって都合の悪い情報を知る者、鋭月と対立している人物の家族や友人。
その事実を踏まえた上で事件当時の鋭月を取り巻く状況と比較すると、面白いほどに辻褄が合う。
鋭月が行動を起こすたびに、その障害となるはずの人物が消えていく。それも一度や二度ではない。まるで鋭月の躍進が誰かの血肉を糧として成されているかのように。
「よく今まで誰にも気づかれずに済んだわね。それだけ奴が自分の匂いを徹底的に隠していたからでしょうけど……“密告者”がいなければ私たちも気づけなかったに違いないか」
“密告者”という言葉を口にして小夜子は文字通り頭を抱えた。
これが彼女を煩わせている原因であった。
小夜子はこれらの事件の捜査資料を受けた取った際、鋭月が関与しているのを如何にして知ったのか礼司に問い質した。
そして、返ってきた答えを聞いて思わず怒鳴ってしまった。
礼司曰く“鋭月に近い対立派の幹部と裏で取引した”とのことだった。
いくら『同盟』の最高幹部といえども独断で行っていいことと悪いことがある。特に司法取引またはそれに準ずる行為の場合、適正な手続の上で行う必要がある。いくら人間社会の法律から半ば独立した体系をとっているといえども、『同盟』には『同盟』のルールが存在する。礼司の行為はグレーどころか完全に真っ黒だ。
とはいえ、今に始まったことではない。礼司は極めて正義感が強く、罪のない人々が苦しむのを看過できない男であった。そんな彼が対立派の大物を倒す手札を得るためなら独断専行するのも当然だ。そのために過去何度も蘭蔵が迷惑を被ってきたことか。尤も、それは礼司に限った話ではないが。
ともかく、礼司は二人の密告者と手を組んだ。
最上精一とその妻である滝音。
この二人は天狼製薬の法務部に所属しており、鋭月の裏の顔を知る立場にある。夫妻は天狼製薬が保有する研究施設が対立派の重要拠点となっている事実を密かに教えてくれたという。そして、天狼製薬による非人道的研究が鋭月の指示の下で行われている証拠と証人を確保する策を提示した。
表向きに鋭月は単なる天狼製薬の取引相手に過ぎない。対立派との関係を証明するには情報が不足していた。最上夫妻は鋭月と対立しているがために警戒されており、不用意に探ろうとすれば危険だった。礼司との接触も僅かな隙を掻い潜っての勇断だ。
礼司は過去に鋭月が関与したとされる事件について夫妻から教えてもらい自らの手で調査してみたが、結果は空振りであった。
何か別の手を考えるしかない。そう思っていた矢先のことだった。
鋭月の真実を告発するための証人となりそうな人物が現れたと、精一から連絡があったという。
「浅賀善則、鷲陽病院副院長。経営難にあった病院を再起させた立役者と言われているけど、その正体は鋭月配下の研究者――」
一ヶ月前、精一と滝音は鋭月が新たな裏のプロジェクトを始動させたという情報を掴み、天狼製薬へ商談にやって来た鋭月を捕まえて問い詰めた。
夫妻は無辜の民を人体実験に供する鋭月の手法に真っ向から反対していた。その所業が白日の下に晒されれば血統種の社会的立場は崩れることになる。故に、血統種に対する偏見や恐怖が未だ根強い中、進んで火種を増やす鋭月の方針は容認できなかった。
強烈な追及を受け流すように躱す鋭月の態度に一触即発の空気になりかけたが、精一はどうにか堪えてその場を後にした。事を荒立ててもどうにもならない。まずは礼司に相談して対応を考えることにしたのだ。
その後、精一は新プロジェクトについて鋭月の監視を潜り抜けながら、その中心人物の素性を調査した。そうして浮上したのが浅賀善則だった。