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エンゼルプラン  作者: 夏多巽
第二章 三月二十七日 前半
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紅眼の少女は謝罪する

 雫は凪砂さんの静かな言葉に身を震わせた。紅い瞳が小さく揺れ動き、俺たちの反応を窺っていることが読み取れた。


「登は訓練場の施錠を確認したのが昨夜八時以降だと言っていた。由貴が訓練場へ行ったのが今朝のこと。その間にあなたは訓練場へ行っている。そうですね?」


 雫の整った顔立ちは今は真っ青になっていて、助けを請うように視線を走らせる。それに対して俺たちはどう反応していいかわからず、凪砂さんの説明を待つしかなかった。


「由貴、君が訓練場へ行ったのはいつのことかな?」

「……十時過ぎ。十五分か二十分ってところです」

「じゃあ、それより前の話だ。今朝起きてすぐというところか?」

「いや」


 俺は凪砂さんの推測を否定した。


「俺が九時に起きて部屋から出たとき、雫も出てくるところだった。その後、一緒に朝食を摂って、俺は庭へ行って彩乃を捜しに行くまでは登と話していた。訓練場へ続く道は庭から見える。誰かが向かえばわかるはずだ」

「つまり――彼女は遅くとも九時前には訓練場へ行っている、か」

「より正確に言えば昨夜の十一時以降から、今朝の九時にかけてですね。登が鍵を管理室へ返した後、五月が十時に管理室へ行って鍵が返されていることを確認しています。それから管理室で休憩をしていて、十一時前に管理室を出たと証言しています」


 隼雄さんの結論を、凪砂さんが補足を加えて訂正した。


 雫は十時前まで俺たちと一緒に居間にいたから、十一時まで鍵を持ち出すチャンスはない。五月さんは十一時以降しばらくの間台所にいた。さらに登の推測通り章さんの部屋に行っていたなら、その間管理室はがら空きだったことになる。


「さて、雫さん、いかがですか?」


 微笑みを浮かべているが視線は鋭い凪砂さんは、雫を見据える。

 雫は俯きながらたどたどしく、しかし意を決したように言葉を紡いだ。


「……そう、です。今朝、六時か七時か、正確には覚えていませんが行きました。早くに目が覚めたので散歩でもしようかと思って。広い家ですから見て回りたい気分になったんです」


 雫の弁解は、今朝彩乃が俺に言った内容と同じだった。それほど散歩したくなる場所なのか。そう指摘したくなる気持ちを抑え、耳を傾けた。


「訓練場まで来たとき随分大きな建物だと気になって……つい入口の扉に手をかけたんです。鍵がかかっていましたから、中には入れませんでした。それだけ――」

「嘘ですね」


 鋭く突き刺す声が雫に襲いかかる。凪砂さんの顔から微笑みは消えていた。


「指紋が検出されたのは外側だけではありません。内側からもです」

「……それは現場に駆けつけたときに付いた指紋では?」

「残念ながらそれは違います」


 凪砂さんは雫の反駁を無情に打ち砕く。

 強い否定を受けて、雫の身体が一瞬硬直した。


「断言できる理由は?」

「……実は、検出された指紋とは別に(・・)手袋痕も検出されたのです」


 隼雄さんが問うと、凪砂さんは新たな事実を提示する。


「手袋痕……?」

「そうです。手袋をしてドアノブに触れた何者かがいるのです。恐らく今挙げた四人以外の何者かが」


 唐突に別人の存在が浮かび上がってきたことに、誰もが困惑を隠せない。

 凪砂さんはそれを無視して話を続ける。


「この手袋痕ですが、雫さんと同様外側と内側双方に残っていました。そして、内側についたものは雫さんの指紋の上から付けられていました」

「ええと、誰かが手袋をしてドアノブに触った……それが世衣よりも後だから……」


 寧が一言ずつ咀嚼するように繰り返す。その途中で急に黙ると、少しの間考える素振りを見せ……期待する目を俺に向けた。


「……手袋をした誰かは訓練場の中に入った。だから両側に指紋が残っていた。ここまではいいな?」

「うん」

「内側の手袋痕は雫の指紋より後についたものだった。この手袋の誰かは現場に駆けつけた俺たちの中にはいない。誰も手袋なんてしてなかっただろ?」

「……うん」

「つまり遺体発見前に手袋の人物は訓練場内に入っている。そして、それより前に雫も訓練場に入っている――だから遺体発見時に付いた指紋じゃないと言える」

「そう! それが言いたかったのよ!」


 俺に全て説明させておきながら得意満面の義妹だが、深く追及はしなかった。


「――つまり雫さんは九時までに訓練場の中に忍び込んだ、ということだね?」

「そういうことになるね」

「あれ? でも、その時間じゃあ犯行とは関係ないでしょう? 犯行はもっと後なんだから」


 章さんと隼雄さんが事実を総合すると、寧が新たな疑問に首を傾げる。

 寧の言うとおり、その時間帯は犯行時刻とは明らかに異なる。


「十時十五分頃に信彦氏は生きていたのだから犯行はそれ以降。雫さんが侵入したときには行われていない」

「……うん?」


 寧の口から疑問の声が漏れる。


「世衣が犯人だと疑ってたんじゃないの?」

「そんなこと一言だって言っていないよ。詳しい話を訊きたい、と言っただけさ。時間的には犯行と直接の関係は見出せない。ただ、初めてこの家を訪れた客が、誰の目にもつかない時間帯に、後の殺人現場にこっそり侵入するというのは、不審な行動に違いはないだろう。だからその点をはっきりさせておきたいのさ。それで――どうです? 話してくれますか?」


 雫は目を瞑ったまま返事をしない。凪砂さんは答えをただ待っている。

 時計の秒針が規則正しく進む音だけが、居間を支配している。

 何秒か何分かわからないまま時間が過ぎ、ようやく雫が答えた。


「……お話しできません」

「ほう?」


 俺はその返答に目を丸くした。目を開いた雫は、かすかに動揺が残っているものの確固たる意志が宿っている。紅い瞳が今度は凪砂さんを射抜き返した。


「お話できないと?」

「……そうです。申し訳ありません」

「ふむ、少々困りましたね」

「疑われることは百も承知です。しかし、今は(・・)まだ話せません」


 多少声は震えているが、雫ははっきり拒絶した。

 それを受けて凪砂さんは面白いと言いたげに不敵な笑みをつくった。


「どうしても?」

「はい――本当に申し訳ないと思っています。今、私に言えるのは――信彦さんの死には一切関わっていない。それだけです」


 今度こそ雫は透き通るような声で言った。その態度に疚しい気配は微塵も感じられなかった。もう紅い瞳に揺れは見られない。

 凪砂さんは「成程」と呟くと、最後に一つ要求した。


「では、念のために所持品を検査したいのですが……これは構いませんね? 必要があればこの屋敷の住人、滞在者全員に対して行うつもりです」

「わかりました……部屋も調べますか?」

「ええ、早速お願いします」


 雫はソファから立ち上がると、凪砂さんを連れて部屋から出て行こうとする。


 俺は雫世衣という人物について改めて考える。

 かつて蓮と親しい仲であったと語る彼女。俺にはどうしても彼女が悪意を持って行動する人物とは思えなかった。

 雫の人柄については最初の頃こそ掴めなかったが、昨夜の会話と今日の襲撃である程度理解したつもりだ。彼女は他者を思いやる心も、危難を前に率先して立ち向かう勇敢さも持っている。蓮の最期を語ったときに見せた穏やかな表情や、暴走する沙緒里さんに対して一歩も引かなかったことから、その印象を抱いた。

 そして今、雫は突き刺すような視線を受けて身体を震わせながらも、はっきり潔白を断言した。

 たった三日間――彼女と出逢ってからの時間はそれだけだ。

 それでも、俺はたった今彼女が見せた言葉と態度を信じてみようと思った。


「待った」


 俺はその背中に声をかける。雫が足を止めて振り返った。


「……何か?」

「よければもう少し質問していいか? 話せなければ無理に話す必要はない」

「わかった。何が訊きたい?」


 雫は何の抵抗もなく俺の要望を受け入れた。表情には嫌がっている様子は全く見られず、むしろ誠実に対応したいという意志を感じる。


「まず、訓練場に忍び込んだ時間だ。さっきは六時か七時と言っていたが、それは本当なのか?」

「ああ……それか。すまない、その点に関しては嘘を吐いた。本当は深夜の二時頃だ。昨晩、十一時前に君の部屋を出た後、自分の部屋で皆が寝静まるのを待った。それから部屋の窓から抜け出したのだ」

「窓から抜け出した?」


 思わぬ回答に驚く俺に、雫は頷きを返す。


「廊下を歩く音や階段を上り下りする音に気づかれたくなかったのだ。二階の高さなら血統種(わたし)には問題ないからな」


 まさか俺が寝ている間に、隣の部屋の主がアグレッシブな行動に出ているとは完全に予想外だった。そんな雫は至って真面目な様子だ。凪砂さんは真顔の雫に苦笑を向けている。


「窓から下りてそのまま訓練場へと向かった。中にいたのは十分ほど……ほんの僅かな時間だ。その後、鍵を閉めてすぐに部屋へ戻った」

「……言いたくないって割に結構話してくれるよね」

「す、すみません……訓練場へ行った理由については話せませんが、他はできる限り協力したいと思って……」


 雫はばつが悪そうに目を逸らした。彼女は先程「今は話せない」と拒否した。話したくない、ではなく話せない(・・・・)だ。それは彼女が己の意思に従えない理由が存在する事実を意味していた。


 しかし、俺はそれよりも証言の中に引っかかるものを感じ取っていた。


「……なあ、ひょっとして帰りも窓から直接部屋に戻ったのか?」

「? そうだが」


 このとき、隼雄さんと章さんが同時に息を呑んだ。どうやら二人も雫の発言に隠れた不自然な点に気づいたらしい。

 凪砂さんも同様だ。俺に意味深な笑みを見せてきた。

 寧だけがきょとんとした顔だ。絶対に何も気づいていない。


「ありがとう、それだけ訊けたら充分だ」

「私も疑われる真似をしたと充分に承知している。話せる範囲でならいくらでも話そう」


 最後にそう言い残して、雫と凪砂さんは部屋から去っていった。廊下に待機していた私服警官二人が凪砂さんの後に続いた。あれが警察内部に新しく結成された親衛隊の一員なのだろう。凪砂さんのカリスマは止まることを知らない。


 どこからともなく溜息が漏れる音が聞こえた。


「――どう思う?」


 隼雄さんが静かに問う。

 それを受け、章さんが腕を組みながら答えた。


「正直何とも言えないね。怪しいと言えば怪しいけど、一見して事件と関係があるようには見えない。けど隠し事があるのは事実だ。本人も認めているし……」

「でも、本当は話したいけど話せないって風にも見えたけど……」


 真意を語れない事情が存在することは誰もが悟っているようだ。それは決して人には言えないような後ろめたい秘密ではなく、他に優先させるべき何かがあるのだと推測できる。


「その話すに話せない理由ってのは、あの子の話の中にあった“矛盾”とも関係あるのかな?」

「どうだろう……雫さんが嘘を吐いていたなら別だけど。でも、そうは思えないなあ。そもそも窓から出たって時点で突飛な話だからね。嘘を吐くならもっとそれらしい嘘を吐くはずだよ」

「同感だね」


 男二人は互いにうんうんと頷く。

 寧は二人の様子をじっと眺めていたが、しばらくしてぽつりと呟いた。


「え? さっきの話におかしなところがあったの?」


 やっぱり気づいてなかったか。

 隼雄さんと章さんの表情も「だろうね」と語っていた。


「……いいか? 雫の話はこうだ。“皆が寝静まるのを待ち、窓から外へ出て訓練場へ向かった。帰りも窓から部屋へ戻った”――そうだったな?」

「何かおかしいかしら?」

「この話が本当なら充分におかしい。雫自身は全然気づいてない様子だったが……」


 俺は一旦言葉を切ると、その続きを姿勢を正して待つ義妹の顔を見つめた。早く言えと無言で訴えかける様子に呆れながら、強調するようにゆっくりと続きを口にした。


「雫は、いつ管理室へ鍵を盗み(・・・・・・・・・・)に行ったんだ(・・・・・・)?」


 寧が一瞬ぽかんと口を開け、次の瞬間にははっとした顔になった。


「鍵は十一時前まで管理室にあった。だが、雫は十一時前に部屋に戻ってから深夜に抜け出すまでいたと言っている。それから直接外に出たなら……鍵を持たずに訓練場へ行ったことになる」

「ちょーっと変だよね。その辺に全然言及しないのってどうかな?」

「省略した、とは考えにくいかな」


 あのときの雫には、可能な限り期待に応えようとする様子が見てとれた。それに口から出まかせを述べたにしては具体的である。


「凪砂ちゃんもわかってる感じだったけど……どうするかな?」

「まずは管理室と窓の指紋を調べるでしょうね。追究はその後だと思いますよ」

「はー、成程ね。鍵のことは思いつかなかったわ」


 感心した声を上げる寧はすっきりした笑顔だ。


「考えれば簡単に気づけることだ。しっかりしろ」

「仕方ないでしょう……話の内容より気になったことがあったんだから」

「気になったこと?」

「――そう! それよ! すっかり忘れてた!」


 寧は眉間に皺を寄せると、ずいと前屈みになって俺を見据えた。

 顔を近づけられてどぎまぎしていると、寧は真っ赤な顔で言い放った。


「昨日の夜、世衣があなたの部屋に行ったって本当なの!? 何をしていたのよ! まさか破廉恥なことじゃないでしょうね!」


 そこか。

 寧にとっては男女が夜に一緒の部屋にいたことの方が重要らしい。

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