ただひとつの感情
俺は現実感のないまま眼前の光景を眺めていることしかできなかった。
吹き飛ばされた秋穂さんの身体が放物線を描くように宙を舞う。その様子はスローモーションのように俺の目に映り、写真のように脳裏に焼きつく。
そして、秋穂さんが地面に激突したところで俺は元の感覚を取り戻した。
「秋穂さん!」
秋穂さんは俺の声に答えなかった。
倒れた秋穂さんの顔はこちらを向いていた。額が血に濡れ、目は細く開いているがどこか弱々しく今にも閉じてしまいそうに見える。爆発によって服もあちこちが破れ、破れた隙間から見える肌は擦り傷と血で汚れていた。また、落下の衝撃が原因か左腕が折れてあらぬ方向を向いている。
田上は秋穂さんをじろじろと観察する。
「ふむ、即死は免れたようですね。なかなかタフな女です。意外に強靭な肉体を持っているようですが……祖先の魔物の特性でしょうか?」
秋穂さんは首を僅かに傾け、田上を見上げた。虚ろな瞳であったが確かな闘志が燃えているのが読み取れる。
田上はそれを見てせせら笑った。
「良い表情ですねえ。三文芝居を打った甲斐がありましたよ。お前なら絶対自分の守りを捨てて助けに入ると信じてましたから。まあ、このガキが世衣ちゃんを庇わなければチャンスが生まれなかったんですが。そういう意味では世衣ちゃんには感謝しないといけないですね」
雫は柵の方を向いたまま俯いていて何も反応を示さない。まだら模様の魚に攻撃した迂闊さを恥じているのだろうか。俺も何かあるのは充分予測していたのに警告が遅れてしまった。
だが、今は後悔している時ではない。
「さて――」
田上は秋穂さんを蹴り上げた。うつ伏せになっていた彼女の身体が空を見上げる。
「もう少し痛めつけてやるとしましょうか」
田上がそう呟いた途端、一匹の魚が倒れた秋穂さんに向かって急降下を始めた。魚の身体が効果の途中から銃弾へと変化する。
銃弾の軌道の先にあるのは秋穂さんの腹だ。
「がぁ……!」
腹に鉛玉を撃ち込まれた秋穂さんは苦悶の声を上げた。
「秋穂さん……!」
俺が身体中の痛みを堪えて立ち上がろうとした瞬間、右肩に強烈な熱が走る。痛みの根源を見下ろすと赤黒い斑点のような穴が目についた。一発の銃弾が肩に埋め込まれているとすぐに理解した。
「動かない方がいいですよ、まだ生きていたいなら。お魚たちに囲まれているのを忘れたわけじゃないですよね? お前が動くよりも彼らがお前の頭をぶち抜く方が速いですよ」
俺の上下左右に待機している魚たちが威嚇するように泳いだ。
肩から滲み出る血が二の腕まで垂れて服を赤く染める。
「……由貴さん、動かないでください。下手な動きを見せればあなたが危険です」
「こいつの言う通りにした方がいいですよ。少なくともこいつをどうにかするまでは放っておくつもりですので」
動くな、と言われても聞けるような状況ではない。
秋穂さんはすぐにでも手当てしなければ命にかかわる状態だ。まだ寧たちの方も決着がついていないのかこちらへ来る様子はない。ここで田上を止められなければ秋穂さんは死ぬ。
死ぬ。その言葉が俺の心の奥底を強く揺さぶった。
“死”という言葉を意識したのは過去に三回ある。
最初は両親が死んだ時、次が蓮を殺した時、そして三度目は礼司さんの死を伝えられた時。
八年前、俺は両親が死ぬことになるとは思ってもいなかった。どこにでもありふれた家族の情景。それを当然のものとして享受していた。
それが脆くも崩れ去ったのがあの事件だ。親戚たちが囁くように悪態をつく中、両親が納められた棺を前に俺は死を初めて意識した。
最初に感じた死の印象は、身体の一部が欠けたような喪失感だった。あるべきはずのものが無いという困惑。そこから生じる不安が徐々に増大していき、最後には恐怖となって溢れ出した。
自分には止めることのできない感情。それを押し留めてくれたのが秋穂さんだった。
誰一人親戚を頼れない中で彼女だけは俺を支えてくれた。傍に寄り添い、夜は俺が眠りにつくまで一緒にいてくれた。口数が少なく、表情の変化にも乏しく、周囲からあまりよく思われていないことは子供心ながらに理解していた。それでも彼女は俺にとっての安心の象徴だったのだ。
蓮が死んだ後、部屋に籠りがちになり礼司さんたちとの接触も最小限になった時、秋穂さんは何度も俺の部屋を訪ねてきた。
彼女は無理に俺を部屋の外に連れ出そうとしなかった。ただ一緒にいていくつか言葉を交わしただけだ。時間があるときには客間に泊まり、何かあればいつでも声をかけるように言ってくれた。俺は何故か彼女だけは拒絶しようと思わなかった。
礼司さんが死んだことを伝えに来た寧を迎えに来た時、秋穂さんは簡単に挨拶を交わしてから俺の顔をじっと見つめた。
あの時彼女は寧を連れてすぐに帰ってしまったが、何か言いたげな表情出逢ったのはよく憶えている。
思い返してみれば俺が身近な誰かの死に触れた時、いつも秋穂さんがいた。
不思議な話ではない。彼女は何年もの間ずっと俺の味方でいてくれた。どんな時でも決して立場を違えることなく。
何故、と疑問を抱いたことなどない。それが俺にとって当たり前の事実だったからだ。
秋穂さんは俺の家族なのだ。
両親の部下でもなく、鋭月の部下でもなく、隼雄さんの部下でもない。
血筋ではなくもっと深い何かで繋がっている存在。
俺が寧と紫を実の妹のように捉えているように、彼女もまた幼い頃から俺の一部であった。
その家族が、今死に瀕している。
それを自覚した途端、ただひとつの感情が地を割って噴き上がってきた。
ふざけるな。
これ以上俺から家族を奪うのか――?
「どうしたんですか? 妙な顔して。絶望的な状況のあまり放心したんですか?」
田上が眉をひそめて訊ねてくる。
俺は答えなかった。
秋穂さんが小さく笑った。
「……由貴さんはこんなことで我を失う人ではありませんよ」
「はあ?」
「お前にはわからないでしょうね。彼がどれだけ絶望に耐え抜いてきたのか。そのためにどれだけ自分の心を研ぎ澄ましてきたのか。私はそれを知っていました、ずっと前から」
田上は何か得体のしれないものを見るような眼で秋穂さんを見下ろす。
その眼には小さな不安が宿っていた。
「……何を言っているんですか?」
「ええ、そうです。私は知っていたからこそ彼の味方でいようと思ったんです。ただ盲目的に鋭月を崇拝するお前と違って」
またもや鋭月を侮辱されたことに田上の顔に血の気が上った。
「いい加減に――」
「本当にお前は全く周りが見えていない。自分に酔いしれてばかり。だから――」
突然身の毛がよだつような感覚がどこからともなく襲いかかってきた。
その出所を無意識に探る。一体何だこれは?
「だからこうして失敗するんですよ。私に気を取られたのがお前の敗因です」
妙な感覚が一段と増す。
それは俺の背後から迫ってきていた。
先程魚の群れが崖下から現れた時と似ている。
「まさか!」
田上が何か気づいたように叫んだ瞬間だった。
俺の周囲を泳いでいた魚たちが一斉に燃え上がったのは。
「なっ……!」
「これは……!」
俺と田上は同時に困惑の声を漏らした。
何が起きたのかはわかる――“延焼”だ。
わからないのは、何故今それが起きたのかだ。
「雫……?」
俺は“延焼”の使い手たる少女へと視線を向けた。
その時になった俺は雫がずっと黙っていたことに気づいた。秋穂さんが倒れた後から彼女は一言も喋っていない。
「……これで私も少しは役に立てたようだ」
顔を上げた雫は左手を掲げてみせた。そこには短い一本の線香が指に挟まれていた。
「……いつの間に? 火をつける様子なんてなかったのに」
「あれだ」
雫は崖下を指差してみせた。
指先が示す方向へと顔を向けると、崖の側面から見覚えのある樹が生えているのが見えた。
“観察者の樹”だ。
秋穂さんが再び笑った。
「私もお前と同じことを考えていたんですよ。その点だけは褒めてさしあげます」
そうだったのか、と俺はようやく理解した。
秋穂さんは田上がやったように崖下に樹を植えていたのだ。恐らく俺たちが駆けつけるより前、一人で田上と戦っている時に仕込んだのだろう。
高台を動き回る間に秋穂さんはあちこちに樹を植えた。その多くは田上に破壊されたのだろうが、見えない所に植えた分までは奴も手が回らなかった。
俺と雫が吹き飛ばされた後、秋穂さんは雫が落とした線香を樹で回収した。そして、樹の特性である物体の移送を用いて崖下の樹へと線香を移した。
雫は崖下の樹に気づいたが声には出さず、樹から延ばされた枝から線香を受け取ったのだ。田上が秋穂さんへ気が逸れている時を狙って。
「世衣ちゃん、よくもやってくれましたね!」
田上が激高して懐から拳銃を抜き出す。銃口を雫へと合わせ、引き金を引こうとしたが――突如顔色を変えて飛び退いた。奴が飛び退くと同時に握られていた拳銃が燃え上がった。奴自身は咄嗟に拳銃を手放したため、服の袖が若干焦げるだけで済んだようだ。
「残念ですがそこは私の間合いです。近寄らせませんよ」
田上は悔し気に歯を剥き出しにしてさらに下がる。そうして秋穂さんから十メートル以上は離れた所まで下がったところで、俺はようやく秋穂さんの下へ駆け寄ることができた。
「秋穂さん、しっかりしろ!」
「そんな顔しないでください。良い顔が台無しですよ」
「冗談を口にできるような場合じゃないだろう」
弱々しく微笑む秋穂さんは俺の頬を優しく撫でる。
「雫様、私の意図を理解してくださって本当に感謝します」
「それは私の台詞です。あなたのお陰で窮地を脱せた」
雫は俺と違い怪我も比較的軽くどうにか歩けそうだ。秋穂さんのように骨も折れていないのは幸いだ。
「由貴さん」
「何だ?」
「大変申し訳ありませんが後はよろしくお願いいたします」
「わかった」
俺たちの間にはそれだけで充分だった。
「雫、秋穂さんを頼む。すぐに終わるから」
「……承知した。絶対に無茶はしないと約束してくれ」
「善処する」
はっきり断言しない俺に雫は苦笑した。蓮が俺に見せるそれとよく似ていた。
俺はゆっくり息を整える。身体の芯から熱を生み出すように筋肉に力を込める。足の指先まで熱が染み渡るような感覚が痛みを和らげてくれる。
頭の中はクリアで目覚めの良い朝のようだ。思考ははっきりと、五感が鋭敏になる。
そして、全身を包み込む“怒りの鎧”が戦意を昂らせてくれた。
俺は一歩田上へと近づく。
どうにも手加減できる調子ではなさそうだ。