再び『ハミングバード』へ
若干微妙な空気の中で朝食を終えた俺たちは出かける準備を整える。
階段の踊り場から窓の外を見下ろすと、辰馬さんと章さんが車に乗り込んでいるのが見えた。
章さんはある程度吹っ切れたらしく、昨夜にはいつもの調子が戻っていた。沙汰が下るのはまだ先だがあの様子なら問題ないだろう。
窓から視線を逸らすと、階段を下りようとする慧と目が合う。
「由貴、出かけるのか?」
どこか探りを入れるような眼で慧は訊ねてきた。
その態度が気になったが、普通に答えることにする。
「ああ、今日は街でゆっくり過ごそうと思ってな」
「……寧は一緒じゃないのか?」
「寧は家で過ごすらしいから、俺たちだけで行くつもりだ」
「そうか……」
慧は二階へと顔を向け、小さく呟いた。
「寧に用があるのか?」
「いや、そういうわけじゃねえけど。昨日は一緒だったから」
「昨日は大変だったからな、少し疲れたそうだ」
「まあ、そうだな」
ぎこちない反応を返す慧は誰が見ても妙だと思うだろう。
一体何を気にしているのだろうか。寧の動向に関心を寄せたのは今回が初めてだ。
慧は俺の隣に移動し、窓から外を見下ろす。
「今日は俺以外の皆が出かけるんだな」
「捜査が進んだとはいえやることは山積みだ。辰馬さんと章さんと沙緒里さんは草元さんから本部に来るように言われたらしい。慎さんは信彦さんの研究所、隼雄さんと秋穂さんは事務所に寄ってから本部で辰馬さんたちと合流予定、小夜子さんは一度実家の方に顔を出すそうだ」
「ふーん」
慧はそう言いながら窓の外を眺める。
表に停めてある車に隼雄さんと秋穂さんが乗り込むところだった。
それを見ていた慧はふうと小さく息を吐いた。
俺は一つ気になったことを思い出す。
「そういえばお前昨日家に帰ったらしいな」
「……何だよ?」
「いや、お前の護衛についていた警官が言っていたそうだが、礼司さんの墓参りに行ったんだって?」
慧の護衛についていた警官が凪砂さんに報告した内容によれば、慧は昨日自宅として使っている辰馬さんの別邸に寄った後、意外にも礼司さんが眠る墓苑に足を向けたという。
墓石や納骨室の掃除をして、その後線香をあげる姿は、普段の慧からは考えられなかったという。
「珍しいな、お前が墓参りだなんて」
「んー……まあ、少しな」
慧は頬を掻いて、恥ずかしそうに顔を背ける。
「ちょうどよかった。礼司さんの話で思い出したが、この前の話……」
「あれか……」
何故、慧が礼司さんの死を気にしていたのか、そして俺に何を伝えたいのか。
そろそろ打ち明けてもらってもいい頃だ。
慧は徐にポケットからスマホを取り出すとディスプレイを操作し、じっと見つめながら考え事をするように小さく唸る。
それから再び階上へ視線を流した後、意を決したように表情が引き締まる。
「そうだな、今日の夕方ぐらいでいいか? 少しやることがあるんだ。夕方ぐらいなら時間もあるし大丈夫だ」
「わかった、それでいい」
こちらの件は片がつきそうだ。後は夕方を待とう。
俺は慧と別れると、凪砂さんたちと合流するため玄関へと向かった。
『ハミングバード』に到着すると白鳥数馬が快く出迎えてくれる。彩乃が一緒にいるからなのか、昨日より表所が柔らかい。
白鳥はカウンター席に座った彩乃にフルーツジュースを一杯差し出す。
「ほら、今日はサービスだ。遠慮なく飲め」
「ありがとうございます」
彩乃の左隣に畔上奈々が座り、何か話しかけている。松田郁斗は他の客の対応をしながら二人の様子を覗っていた。
俺と凪砂さんと雫は窓際の席から彩乃の背中を見守っていた。
「彩乃さん、ようやく気が楽になったようだな」
「まだまだ油断はできないがな、辛い感情ってのは忘れた頃にぶり返すこともある」
見たところ彩乃は感情の発露に乏しい傾向にある。俺のように感応系の能力を保有しているからではなく、母親の死を契機として心の中に壁が出来ているからだろう。
父親の死をいずれ降りかかる不幸と割り切っていたことで強引に自分を納得させているようなものだ。
今は何ともなくとも強い精神的ショックを与えれば感情が溢れ出しかねない。
「感情を忘れたままなのと思い出すのと、どちらが辛いのだろう」
「……どうだろう、俺は自覚した方が良いと思うが。やはり自分の心と向き合うってのは大切だから」
「そうッスね、忘れたままより思い出した方が良いッスよね」
俺の背後、観葉植物越しに置かれた席に座る女が話しかけてくる。
「どうした加治佐さん、眉間に皺が寄っているぞ」
「いやね、私は悲しいんスよ。昨日面白そうなイベントがあったのに招待されず、挙句帰る段になっても一人放置食らった身としては」
「取材に熱中していたんだろう? 蘭蔵さんにしつこく食い下がっていたらしいな」
「だからって一言あってもいいじゃないッスか! 私の扱い酷くないッスか、昨日のMVPッスよ?」
大活躍だったのは事実だが、それで扱いを変えるかといえば違う。
そもそも本部の案内だけで借りは返したといえる。充分なくらい取材を堪能できたと聞いているのだから。
「まあ、転んでもただでは起きない性格みたいだから、多少雑に扱ってもいいっていう信頼かな?」
「そういう信頼はいらないッス」
冗談めかした凪砂さんに加治佐は真顔で返答する。
結構本気で傷ついたらしい。
「まあ、約束通り情報は提供するんだから。細かいことは言わない言わない」
加治佐に沙緒里さんから聞いた話を伝えると、彼女は頷きつつメモを取る。
「それで? 最上さんたちはこれからどうするッス?」
「どうすると言ってもな、浅賀の研究施設の場所を突き止めるまでは――」
「いえ、そっちじゃなくて都筑蓮の方ッスよ」
俺は口元に運ぼうとしていた紅茶のカップを持つ手を止めた。
やはり、そこは触れないわけにはいかないか。
「都筑蓮が横山を殺害した犯人ならまだこの街のどこかに潜んでいるってことッス。彼に逢えたら研究施設の場所も教えてもらえるんじゃないッスか?」
「まあな」
蓮が“再誕”させられたのは新たな研究施設が稼働して以降に違いない。ならばあいつが研究施設の場所を知っているとみていいだろう。
「だが、あいつが姿を現さないってことはそれだけの理由があるんだろう。俺たちが真相に肉薄してるのは向こうも承知のはずだ。その上で身を隠すのはそれができないからに他ならない」
「まあ、ただでさえ死人が公然と歩いているんですから、それだけで大問題ッスけど」
「それもあるが一番の理由は殺人の方だろう」
「浅賀の協力者であった信彦氏が殺害された。それも屋敷の内部にいた誰かにだ。その人物が何の目的で犯行に及んだのか、そしてその正体は誰なのか、それがわからないから迂闊に姿を見せることができないんだ」
俺の言いたいことを凪砂さんが引き継いでくれた。
そう、この殺人者が信彦さんを殺害した以上、何らかの形で浅賀と関係を持っている可能性が高い。
その人物の正体がわからぬまま姿を現す危険は冒せない。
「結局そこに行き着くわけか。誰が信彦さんを殺したのか?」
殺人者の正体――一体誰なのか?
屋敷の内部にいた誰かであることは確かだ。
当初は辰馬さん、沙緒里さん、章さんといった高い地位にある人たちが該当すると考えていたが、現在彼らへの疑惑は相対的に薄れている。
彼らの証言と事件中の立ち位置を併せて推理すれば、信彦さんを殺害する動機はほぼない。沙緒里さんと章さんは重大な秘密を吐露しているし、何らかの理由で信彦さんを殺したとしても隠す必要性に欠ける。
血統種犯罪に関与した者を殺めたとしても、状況によっては処罰はかなり大目に見られる。あの二人が犯人であれば既に告白しているだろう。
逆に言えば、殺人者はこの状況で本心を隠し、行動する理由のある者だ。
そんな人物がいるのか?
「さっきから暗い顔してるな」
俺たちの様子が気になったのか、白鳥が話しかけてきた。
「……いろいろあったからな」
「面倒な事態になっているのは何となくわかるが、あまり彩乃を不安にさせてくれるなよ」
白鳥の視線の先では、彩乃が畔上と談笑している姿があった。
普段の彼女と比べると別人と思うくらい笑顔が映えている。
「彩乃さんっていつも険しい顔をしているイメージがあったが、あんな風に笑えるのだな」
「人見知りが激しいんだ、あれが本来のあいつだよ。ここに来る時はいつもあんな感じだ。それに同じ境遇の人間がいるってのも理由の一つだろうな。他人事じゃないからこそ奈々も郁斗も親身になってやれるんだから」
「……確かあの二人も家族を亡くしてるって言っていたな、血統種犯罪に巻き込まれて」
白鳥は重々しく頷いた。
「今は改善したけど昔は血統種への敵対意識が強かったんだぜ。あれは本当に苦労した」
他でもない白鳥自身が血統種なのだ。当然当たりは強かっただろう。
よくあそこまで改善させられたと感心する。
「あの二人だけじゃない、血統種に人生狂わせられたって奴は大勢いるんだ。数年前までは結構世間もぴりぴりしていただろう? ちょうど桂木鋭月の大捕り物があった頃だ。あの頃は導火線に火がついたような奴も珍しくなかった」
「鋭月が逮捕されてからは落ち着いたのかい?」
「まあな、奴と関わりのある事件で家族を亡くしたってのもいたからな。溜飲を下げるには都合が良かったとも言えるが」
礼司さんの働きはこんなところにも良い影響を与えていたのだと実感して、少しばかり誇らしい気持ちが湧いてくる。
鋭月を倒したことで幾人かの血統種を憎む心を静まらせたと知れば、礼司さんもあの世で喜ぶだろう。
「防衛自治派とは呼ばれているけど、彼らなりに血統種に歩み寄ろうとしているのかな?」
「興味を持ってくれたなら血統種犯罪被害者のケアにより力を入れるよう『同盟』を説得してほしいね」
「善処してみよう」
この手の議題は草元さんに相談するに限る。
あまり問題を丸投げするのも良くないが、実際適任ではある。
「ひょっとしてあのボードに貼ってある写真もその被害者の?」
雫はカウンターに隣接する壁にかけてあるコルクボードを見つめながら訊ねた。
「ああ、定期的に行っている交流活動の時に撮ったやつだ。他にもあるぞ、見てみるか? 確か桐島さんが写っているのもあったはずだ」
「それなら是非」
念のために事件と接点のある事実は全て確認しておきたい。
白鳥は一度店の奥に姿を消し、数分後二冊のアルバムを抱えて戻ってきた。
過去の活動写真を収めたもののようだ。
早速一冊を手に取り中身を見る。
写真に写っている人物の多くは若い世代が中心だ。白鳥によれば二十代くらいが一番多く、次に十代が多いようだ。彩乃の写真は勿論のこと、山口銀也と泉隆弘が写っている写真も何枚かあった。
そして、目当てである桐島晴香の写真もまた。
「桐島はこういう活動に潜入して情報収集していたのか?」
「恐らくな、章さんの秘密もそうやって知ったんだろう」
恐らく章さんの同僚が接触していた組織だけではない、他にも複数の組織から情報を得ていたはずだ。
五月さんから教えてもらった桐島の能力“蠢く粘土”は肉体を生成する。この能力の応用で人相を変えることも可能であれば、潜入には持ってこいだ。
なかなか厄介な能力だと思いつつページをめくっていると、突然後ろから覗き込んでいた雫が声を上げた。
「ちょっと待ってくれ!」
「どうした?」
「さっきのページをもう一度見せてほしい」
言われた通り一つ前のページを雫に見せると、彼女はそのページに収められている写真の内の一枚を食い入るように見つめる。
「これ、夏美のお父さんとお母さん……」
「え?」
雫の視線が釘付けになっている写真には二人の男女が白鳥と一緒に写っていた。
その顔には見覚えがあった。鷲陽病院の火災に関する資料に載っていた写真の人物だ。
「……確かにこの二人、糸井夫妻だ」
「糸井先生たちを知ってるのか?」
意外そうな顔で白鳥が訊いてくる。
「ああ、私の友達の御両親だ」
「そうだったのか、先生のお子さんの……」
昔を懐かしむようにぽつりと呟く声は、どこか感慨深そうに思えた。
「糸井夫妻とは親しかったのかい?」
「あの人たちが身寄りのない境遇にある血統種の子供が犯罪に走らないようにケアする活動に参加していたのは知ってるだろ? 俺も血統種側からの支援を考えていろいろ団体を当たる中で先生たちと知り合ったんだ」
「じゃあ、お二人が亡くなった頃も?」
「勿論付き合いがあったさ、葬儀にも参列したぞ」
俺は沙緒里さんが話してくれた糸井夫妻の過去を思い出す。
もしかしたら白鳥は知っているかもしれない。
「なあ、あの夫婦が再婚した者同士って話は知っているか?」
「……そういえば、いつだったか旦那さんが酒の席でぽろっと漏らしたことがあったな。お子さんが奥さんの連れ子だって話」
「実は夏美さんの実の父親のことが知りたくてね、何か聞いていないか?」
白鳥は申し訳なさそうに頭を掻いた。
「そんなに詳しくは聞いてないぜ、なんでもお子さんが生まれる前に最初の旦那に捨てられて、それから奥さん一人で育ててきたって。それで何年か後に再婚したって話だ」
「ちょっと待て、捨てられた?」
「そう言ってたぜ?」
「最初の夫は事故で亡くなったんじゃないのかい?」
「そんなこと言ってなかったぞ」
「……どういうことだ?」
何だこの食い違いは。
沙緒里さんは“宣誓”により虚偽の証言はできないし、嘘を吐く理由もない。
どちらが正しいんだ?
「……ちょっといいッスか?」
「ん?」
もう一冊のアルバムに目を通していた加治佐が声をかけてくる。
「あの、昔の写真を適当に見ていたら気になる一枚が……」
そう言って取り出した一枚の写真。何かの集まりに参加している人々を撮影したものに見える。
加治佐が指で示している場所にいるのは一人の男性。その人物を俺はよく知っていた。
「これって御影隼雄ッスよね?」
「……どうして隼雄さんが写っているんだ?」
そこに写っているのは紛れもなく隼雄さんだった。髭を剃ってさっぱりした印象であるが、顔を見間違えるわけがない。
「その人知ってるのか? 奥さんに逢いに来てたのを何度か見たことあるぞ、弁護士って言ってたな」
夏美の母親と逢っていた? 隼雄さんが?
「何度も逢っていたって本当かい?」
「ああ、学生時代の恋人で児童保護活動する上で相談に乗ってくれた人だと。この人も二人の葬儀に参列していたからよく憶えてるぜ」