御影沙緒里の告白 -現実-
「紫……」
今は消えた義妹の名を思わず呟く。
「最初に話を聞いた時は“やられた”と思ったわ。タイミングからしてあの子が関与しているのは間違いないもの」
ぼやきながら沙緒里さんは当時のことを説明してくれた。
去年の八月十八日の夜のこと、仕事を終えて帰宅しようとしていた沙緒里さんに信彦さんから電話がかかってきた。この日彼は研究所に泊まることになっており、緊急の用件が無い限り連絡はしないと彼女に伝えていた。夜も遅いこともあって沙緒里さんは嫌な予感がした。
「どうしたの、こんな遅くに。何かあった?」
『沙緒里……ちょっと面倒なことになった』
「面倒なこと?」
『うん、桐島晴香から連絡があってね、しばらくの間研究を中止するかもしれないっていうんだ」
「中止ですって……?」
思わぬ言葉が飛び出したことに沙緒里さんは俄かに警戒心を強めた。
「一体どういうことなの?」
『僕も詳しくは知らないんだ。ただ、予想外のトラブルに見舞われたらしくて、一度計画の見直しを迫られたって言っていたよ。研究を注している間は連絡も断つって』
「連絡を絶つって……あなたそれでそのまま引き下がったの? 理由くらい訊いてもよかったでしょう。それに研究所にはまだ被験体があるのよ? 実験を続行するか確認しなかったの?」
その頃信彦さんの研究所には浅賀から送られた被験体が数体残っていた。彼はそのデータを定期的に浅賀の元へ報告する任務を負っており、次の報告も間近であったのだ。研究の見直しに着手するなら現在進行中の実験を継続すべきか判断を仰ぐべきだ。
『勿論訊いたよ、このまま放置されちゃかなわないからね。で、返ってきたのは“現在進行中の実験は予定通り最後まで続けるように”とのことだ。報告書の受取は連絡が復活した際に行うと』
「随分急な話ね、何があったのかしら?」
『里見修輔たちに気づかれた、というわけではなさそうだけど。それなら寧ろ伝えるだろうし』
里見たちが嗅ぎつけたのであれば信彦さんにも魔の手が及ぶ恐れがある。警告しないのは考えにくい。
ならば、起きたのは別の何かだ。研究を見直すことを余儀なくされるトラブル。
沙緒里さんが最初に思いついたのは夏美が再び暴走したという説だったが、桐島の態度からしてそれはないと信彦さんは推察したそうだ。桐島の声色に戸惑いこそ見受けられたが、切羽詰まったような感情は無かったという。夏美が暴走したならもっと危機感を感じられたはずだと。
「仕方ないわね、とりあえず経過待ちね」
こうして沙緒里さんと信彦さんは再度浅賀から連絡が来るのを待つことにした。同時に、何が起きたかを調査するため警備部に十八日前後に発生した事件を全て洗わせた。不審な事件があれば必ず知らせるように厳命して。
「結果はどうだったんだ?」
「……一つ奇妙な事件があったわ。帳町にあるビルの地下駐車場で身元不明の死体が発見されたの」
帳町は鉄道の線路沿いに栄えた商業地区で、駅も氷見山公園駅の一つ隣に位置している。そのため昼間は学生やサラリーマンで賑わいを見せる地だ。
「警察への通報は夜の九時頃、通報したのは守衛室にいた警備員。“上半身が潰れた死体がある”って気が動転した状態で通報したらしいわ。駆けつけた警官たちも惨状にちょっと引いたって」
「それは……魔物に襲われたのか、それとも殺人か?」
「殺人よ。現場からは魔物の体毛や体液等は発見されなかった。それに死体の身元を証明する物が何もないのも不自然だった。きちんとした身なりをしているのに財布や免許証、家の鍵といった私物は一切出てこなかったのよ。さらに、事件性を裏付ける証拠があった。事件当時、現場にいた警備員は眠らされていたの」
「睡眠薬を盛られたのか?」
「いえ、ガスね。守衛室の壁や床、天井、に人を深い眠りに落とす成分が付着していたわ。それから空気中にも微量だけど残留していた。誰かが催眠ガスを散布して警備員を眠らせたのよ。そしてもう一つ、地下駐車場の監視カメラが停止させられていて犯行当時の様子は何も映ってないの」
明らかに人為的な工作だ。明確に殺人の目的を持って行動したと断定できる。
「被害者が血統種であったことから血統種犯罪に巻き込まれた可能性が高いとして、警察は身元の特定を急いだわ。他の事件に関与しているかもしれないもの」
「だが、さっきの口ぶりじゃ特定はできなかったんだな?」
「ええ、失踪届とも照会したけど完全に空振り。被害者は二十代から三十代の男性ってこと以外は不明。少なくともあの頃に失踪した誰かってわけじゃないみたい。それに死体の上半身はほぼ消し飛んでいて能力による再生も不可能だったそうよ」
物体を再生させる能力の発動には、原則として元のパーツがある程度残っている必要がある。粉々に粉砕された物は復元しにくいのだ。そのため犯人たちは警察の捜査から逃れるため証拠を完全に処分しようと試みることが多い。
「過去の血統種犯罪との関連を調査するってことで『同盟』にも通達があったのよ。確か辰馬兄さんの支部にも話が行っているはずよ。章も目を通したって聞いたから」
沙緒里さんの話を聞いて思い出したことがある。紫の失踪について寧たちに訊ねた時、章さんが八月十八日という言葉に何か引っかかるような反応を示していたのだ。もしかするとあれはこの事件のことを連想していたのではないか?
「身元不明の死体か……ひょっとして浅賀の仲間の可能性が?」
「ええ、事件当時の失踪者には引っかからなかったけど、それ以前の失踪者には何人か条件に該当する人物がいたわ。その中の一人が立花明人よ」
つまりその死体が立花明人であるかもしれないのか。
仲間の一人が死んだとなれば確かに浅賀は警戒を強めるだろう。研究を中止しようとするのも頷ける話だ。
「その事件に紫は関係しているのか……?」
「そこまでは私にも掴めていないわ。ただ、浅賀が消息を絶ったのは紫が絡んでいる。今までは半信半疑だったけど、昨日あなたから紫も浅賀を追っていたと聞いて確信を得たわ。間違いなくあの子が何かしたわね」
そう考えるのは自然なことだ。これが偶然の一致とは思えない。
だが、それは浅賀が消えた理由にはなっても紫が消えた理由にはならない。家から離れることはあっても、何か一言くらい連絡を寄越すはずだ。あいつは好き好んで家族に心配をかけるような奴ではない。
もし、連絡することのできない状況下にあるとするなら――。
「紫が消えたのもあいつの身に何かあったから……」
「それは無いと思うわ。あの子はそう易々と死ぬようなタマでもないでしょう」
「それはそうだが……」
「絶対とは言い切れないけど多分大丈夫よ。姿を消したのは恐らく自分の意思」
「……誰にも何も告げずに? そんな事情があるとは――」
言いかけて俺ははっとした。
いや、事情を告げない理由はある。紫が考えそうなことで一つだけ思い当たる節がある。
紫が俺たちと同じ目的を持っている場合。
もし、紫が糸井夏美の救済を考えているとしたら? 事情を説明した場合、『同盟』は浅賀の研究について徹底的に調査するだろう。そして、夏美の殺処分を決定するかもしれない。それを阻止するためには『同盟』に協力を要請することなく解決するほかない。これは各務先生に口止めさせた事実とも符合する。
「気づいたみたいね。紫が夏美を救う方法を模索していると考えれば一応辻褄は合うわ」
「成程な……ただ、疑問は残るな。いくらなんでも一人でやるのは無理がある。誰か協力者がいるはずだ」
「そこは同意するわ。最低でも二人はいるはずよ」
「何故、二人と?」
「『同盟』が介入してくるのを警戒しているなら、そっちの情報を集める要員が欲しいでしょう。『同盟』関係者の中に情報収集を担当している誰かがいる可能性があるわ。さらに、紫がそんなことを頼める相手は限られてくる」
紫が大事な仕事を任せるような相手はそう多くない。ただでさえ癖のある性格で親しい者が少ないのだ。俺の知っている誰か、ということもあり得る。
「情報収集に一人、じゃあもう一人は?」
「……状況からして、間違いなく一連の事件に関与していると断定できる人物がいるわ。それも紫の協力者になり得そうな人物で」
「それは?」
「わからない?」
沙緒里さんは問いかけるような言葉で訊き返してくる。
「……わからないから訊いているんだろう?」
「本当に? 何も思いつかないの?」
「……何を思いつくっていうんだ」
沙緒里さんは露骨に溜息を吐いた。
「呆れた、ここまで来ればもう目を背けることはできないでしょう? いい加減現実を見つめたらどうなの?」
「……何の話だ」
「紫が残した手紙の内容を忘れたとは言わせないわよ。あれが何を意味するのか、あなたはとうに知っているはず」
俺は何も答えなかった。否、言いたくなかった。
「ええ、あなたはそれを認めるのが嫌だったのよね。だから目を逸らした。でも――逃げるのはもう御終い」
射貫くような視線に耐えながら俺は彼女の言葉を黙って聞く。
沙緒里さんはゆっくりと語りだした。
「一つ、浅賀は五月を利用して蓮の遺体をすり替えた。何故か? 答えは遺体が必要だったから。理由は言わなくてもわかるわよね、奴が遺体を欲しがる理由なんて一つしかないんだから」
ああ、その通りだ。
各務先生から“再誕”の真実を教えてもらった時、俺の頭にはすぐにこの可能性が浮かんだ。
だが、沙緒里さんの言う通り俺はそれを無視したのだ。
「二つ、横山修吾の殺害に用いられた凶器は警察に保管されている銃器だったそうね。そんな物を外部に持ち出すなんて普通はできないし、する理由もない。でも、こう考えれば簡単に説明がつく。犯人は武器を生成できる能力の保有者だった。その能力で過去の犯罪に用いられた銃を再現したのよ。確か自分の手で触れた武器であれば何でも生成可能だったんじゃないかしら? その凶器の元の持主も対立派所属の血統種だったというし、それなら彼にも触れる機会はあったんじゃないかしら」
その力は俺もよく知っている。それを発動する瞬間を何度も目にしていたのだ。かつての友人が持っていた能力を忘れるわけがない。
「最後、紫が残したメッセージの意味。あれは深く考えるまでもない、書いてある通りそのままの解釈をすればいいだけ。あの子らしい簡潔な書き方ね」
一切の修飾も説明も省いたメッセージ。いかにも紫が書きそうな内容だ。
「……浅賀は夏美の精神を安定させるにはどうすればいいか悩んだ。薬で抑えられるのは今だけかもしれない。いずれまた暴走する恐れは常に付き纏っていた。そんな時、奴は例の事件を知った。そして、最高のアイディアが浮かんだ。“夏美が過去の悲劇を連想させるものに反応して暴走するなら、過去の温かな思い出を連想させるものに対しては真逆の反応を見せるのではないか?”と」
夏美の精神を安定化させる手段――それは彼女の欠けた心を埋める存在を用意すること。
「だからこそ――都竹蓮は蘇った、蘇らせられた。糸井夏美の精神を繋ぎ止める枷として」