御影沙緒里との対決 ‐唯一の望み‐
地下に降りるとこの時間帯には珍しく人の姿が全く無かった。いつも訓練場と廊下を行き来する人で絶えないというのに、今日に限ってしんと静まり返っている。事件の影響で皆ばたばたしているのか、訓練場を使用する者はいないようだ。沙緒里さんが予約していたのは第一訓練場だ。
第一訓練場へと続く扉の前で一旦立ち止まり、息を整える。
扉を引くと重く擦れた音が響き、訓練場の内部を晒した。
フィールドの広さは大体学校の体育館程度だ。一般人が使うには充分だが、多芸な血統種にとっては若干物足りないというような微妙な広さである。血統種は平気で飛んだり跳ねたりするのでもっと広い方が良いという要望も上がっているが、残念ながら予算の都合で却下された。
フィールドの周囲に観客席が設置してあり、出入口の正面奥にモニタールームへの扉がある。モニタールームの二階部分にはガラス張りの窓があり、フィールドを見下ろせる構造になっている。訓練場は『同盟』主催の競技大会にも使用されるので、このような観戦に適した造りになっているのだ。
お目当ての相手はフィールドの中央に一人立ち、こちらに背を向けていた。ライトに照らされた長い白髪は背後から眺めるとなかなか映える。
「そろそろ来るんじゃないかと思っていたわ」
沙緒里さんは俺が観客席からフィールドへ降り立つと同時に振り向いた。
こちらの行動を見透かしたような態度が普段なら不快に思うのだが、今だけは何とも思わなかった。
「あんたが本格的に行動を始めたからな。もう外面を取り繕うつもりはないのか?」
「いやね、人聞きの悪い……まあ、正直に言えば今回の事件が起きてしまったから動かざるを得なくなったと言うのが正しいかしら」
いつも通りの余裕の表情でころころ笑う沙緒里さんだが、すぐに無表情になると疲れたように答えた。
やけに強引な動きだと思ったが、彼女も想定外の事態に苦慮していたらしい。
「最初にその点を確認しておきたいんだが、事件が起きることは知らなかったのか?」
「事前に把握できていれば良かったのだけど。あの人とは互いの事情には深入りしないという契約を交わしていたから、不興を買う真似はしたくなかったの。それでも――」
沙緒里さんは苦々しげに顔を歪めた。
「こんな事態になるなら未然に防いだわ。偶然が重なったとはいえ浅賀の存在を知られたのはまずかった。おかげで計画を前倒しにする羽目になったわ。さて、昨日の返事を聞きましょうか。私に協力する気はある?」
悪魔の微笑みを送ってくる彼女と正面から向き合う。
答えは最初から決まっていた。
「悪いがお断りだ」
「あら、残念ね」
がっかりしたように言うが、沙緒里さんの表情はこの結果を想定していたと語っていた。
「だが、話は聞かせてもらう。あんたの知っていることを全て、あんたがずっと隠してきた願望も含めて、全てな」
「こちらの申し出は拒否するくせに、自分の話は聞けと言うの? 随分図々しいわね。そういうところ、ちょっと礼司兄さんに似てきたわ」
「そいつはどうも。礼司さんにそっくりなら褒め言葉だよ」
この人には憎まれ口を叩くくらいが丁度いい。常識的な対応をしたところで翻弄されるのが落ちだ。彼女を上回るには彼女をねじ伏せるくらい強きの態度で臨むのが最良だ。
「それに“願望”だなんて、私が何を望んでいるかわかったと言うのかしら?」
こちらを試すような物言いで問いかける沙緒里さん。
冷たく突き刺すような視線を受け流し、俺は無言で頷いた。
次の瞬間、沙緒里さんは初めて怒りの感情を露わにした。
「知った風な口をきくのは止めて。他人に理解されようなんて思わない。他人に私の感情を理解されたくない。私の感情を正しく評価できるのは私だけ。誰一人として私を知ることは叶わない。感情の力を操る能力の持主って本当に無遠慮ね。頼まれてもいないのに人の心に土足で上がってくる」
「慎さんでさえも? 息子には理解してほしいとは思わないのか?」
「あの子には、私が無償の愛を注いでいることだけ知ってもらえたらいいの。後は何も必要ない。あの子から嫌悪を向けられることだって大したことじゃない」
爛々と狂気を輝かせる瞳を大きく開き、沙緒里さんは陶酔したように語る。
それはまるで蓋で抑えつけてきた感情が氾濫を起こしたようにも見えて。善意も、悪意も、親愛も、憎悪も、歓喜も、悲嘆も、希望も、絶望も、全てが綯い交ぜとなって溢れ出ているのが理解できた。
「ええそう、私はあの日からずっとそれだけを原動力にして生きてきた。愛する人に愛情を捧げることが好き。そうすると心が楽になる。私にもまだ残っているものがあったと」
「それで満足だったのか? 見返りのない愛情を注ぐのが」
「愛する人が育ち、生きるのをこの目で見るのが私の楽しみであり、私の愛する世界。けれど――どれだけ愛に溺れても、その世界に欠けている要素を補うことはできなかった」
そうだ、どんなに目を逸らしても、どれだけ感情を誤魔化しても、現実はその足掻きを労ってくれない。ただ非情に、ありのままの姿を突きつけてくる。
「……それがあんたの目的だった。考えてみればそれしかない。あんたが心の底から望むものは」
「私は知ってしまった。あの男が――浅賀が何を企んでいるかを。知ってしまえばもう引き返せない。だから、私は糸井夏美を手に入れることにしたの」
沙緒里さんの目的、彼女が何より望むもの。
それは一つしかない。
「沙緒里さん、あんたは夏美の“再誕”で景之さんを蘇らせるつもりだな?」
沙緒里さんは黙したまま俺を見つめている。感情は再び抑えつけられ、表情は元に戻っていた。
「聞いたよ、景之さんの遺骨を墓から取り出したこと。おかげで確信できた。浅賀は最終的に人の“再誕”を目指して研究を続けていた。“再誕”には蘇らせる対象の亡骸が必要だが……もし、骨でも亡骸とみなされるなら“再誕”の対象になる。浅賀は研究の末にそれを突き止めた、あるいはその可能性を知った」
「そして、それは正しかった。奴は骨からの“再誕”に成功したの。これは魔物の死骸を用いての実験だけど……この時既に人の“再誕”もできるようになる見込みはあった」
沙緒里さんは補足する。研究を始めた頃は遺骨からの“再誕”はできなかったが、徐々に能力が成長する中で可能になったようだ。ただし、亡骸が完全に残っている場合と比べると消費するエネルギーが増大する欠点があり、成功率が下がるという。その上夏美の肉体にも負荷がかかるので、多用できないとのことだ。
「それを教えたのは信彦さん。浅賀の調査を進める中で接触して、彼から訊きだしたんだ。そして、浅賀から夏美の身柄を奪うことを思いついた」
「その代わりに自分と彩乃の保護を交換条件に出されたけど。仕方ないから了承したわ」
「ところで信彦さんは鷲陽病院火災の真相も含めて大体の事情は知っていたのか? アジトの場所も教えてもらえなかったみたいだし、どこまで深く関与しているか判断できないが……」
「凡そのことは知っていたわ。というのも、元は彼の前の奥さんが研究に携わっていたの」
「やっぱりそうか……」
里見たちの推測は正しかった。信彦さんの奥さんも研究に加担していたのだ。
「里見修輔と面会したそうね? 奴等が彼女を浅賀の協力者だと考えたこと自体は間違ってないわ。ただ、彼女もまた浅賀の研究施設がどこにあるかは知らなかったの」
アジトの場所を教えてもらえなかったのは『同盟』関係者だからだろう。アジトの出入りを許されていたのはほんの一握りの研究者だけだったのだ。
「信彦さんが浅賀にスカウトされたのはその後か?」
「奥さんの葬儀の時に接触してきたらしいわ、桐島晴香経由で。浅賀から秘密を教えられたあの人はすぐに自分も研究に参加すると意思表明したそうよ。勿論、その理由は私と同じ」
「奥さんを蘇らせるためか?」
「やりきれない想いで一杯だったんでしょう。自分の知らないところで奥さんがそんな研究に参加していたなんて想像できなかったし、それに気づけなかった自分も許せなかった」
沙緒里さんと信彦さんは共通の目的を持っており、それが裏で手を組む流れに繋がった。互いに同情したわけでも共感したわけでもない、利害の一致だけを理由として。
「さて、私が話せるのはここまでよ。満足したかしら?」
俺は首を振った。
話はこれで終わりではない。そんなはずがない。
「そんなことはないだろう。あんたはまだ何か隠しているはずだ。そうでなければその余裕はおかしい。俺たちが真相にほとんど辿り着いているのに、一切警戒する様子が見られない。あんたの邪魔をするのは明らかだというのにだ。それはあんたにまだ切札があるからだ」
「良いわね、本当に礼司兄さんに似てきたわ。そうやって人の心を見透かそうとするの、虫唾が走る」
自分も似たような態度だろうと内心呆れる。腹の内を探るのはお互い様だ。沙緒里さんにはここまで踏み込まれた経験がないので慣れていないだけだろう。俺は昔から慣れているので不快に思いこそすれ怒りを覚えることはない。
「……そうね。だったらこうしましょう」
沙緒里さんは何か思いついたように顔を輝かせた。
その笑みを見て嫌な予感がする。
「そんな嫌そうな顔をしなくてもいいわよ。とっても単純かつ手っ取り早い解決手段だから。私から話を引き出したいなら、力づくで口を割らせてみなさい」