委任
「いや、ちょっと……待ってくれ。話についていけない」
俺は額を手で抑えながら慎さんの話を遮った。
「トリスが浅賀の元から送られた実験動物? 確かなの?」
「それは実際に調べてみないことには何とも言えない。母さんはトリスを調べる許可を出すとは言っていたけど彩乃が何て言うか……」
「反対したとしても強行するんじゃないか。事は重大だからな」
「母さんからその事実を明かされた時の僕の気持ちがわかるかい? 敵に繋がる手掛かりが自宅にあったと知った時の胸の内」
「今は本家で昼寝でもしているんじゃないかしら」
今朝出掛ける前、トリスは居間のソファの上で春の陽気を浴びながら丸まっていた。奴は自分が大勢から話題の的にされているなど考えてもいないだろう。そういう俺もあの狸に思いもよらぬ秘密が隠されているとは想像していなかったが。
ここに来てトリスはキーパーソン――それともキーアニマルだろうか。呼称はこの際どうだっていい。とにかく重要性が急激に上昇した。
というのも、トリスが元は浅賀の研究施設にいたことが明らかになったからだ。しかも、研究対象としてだ。沙緒里さんはすり替えられた魔物は肉体を再構築された個体だと証言していた。
即ち、トリスは糸井夏美によって再誕させられた魔物なのだ。
まさかその実例がこんなにも身近に存在していたとは。
「トリスを調べて何か新事実でも出てくるのかしら?」
「どうかな。既に実験データはあるわけだから今更調べても進展は無いと思うが」
「だが、初音さんならあるいは――」
凪砂さんが声に淡い期待を湛える。
初音さんなら何か掴めるだろうか。あの人は研究者に相応しい能力を保有している。彼女の能力で改めて調べればもしかすれば新たな手がかりを得られるかもしれない。
ただ、トリスを一旦研究所で引き取るとなると彩乃が不満を爆発させる懸念がある。精神的に落ち着いた矢先なので機嫌を損ねたくないのが本音だ。事件の日にはトリスを探すために無茶をしたくらいだから簡単に引いてくれないだろう。
「動揺する気持ちは充分理解できますが気になった点を挙げよう。トリスを引き取ったのは信彦さんの前の奥さんが亡くなった後だ。つまりその頃から既に信彦さんと浅賀の間に協力関係があったことになる」
「そうなるな」
これは病院に行った時に里見から得られた証言の内容とも合致する。里見が信彦さんの奥さんを殺したのは、彼女が浅賀の関係者だと目星をつけて接触した際に争いへと発展したのが理由だ。奴等の考えが正しいなら彼女もまた夫と同様浅賀の協力者だった。
ただ、それだと奴等が信彦さんをマークしなかったのが疑問だ。家族関係は真っ先に調べるだろうし、信彦さんに目をつけないのは妙ではないか? 彼の関与を見落とした何らかの原因があるのだろうか? これについては後で皆に相談した方がいいだろう。
「母さんの話ではトリスが送られてきたのは、奥さんが殺されるより前だって言っていたから……
五年くらい前になるのかな?」
「五年前……」
鋭月一派が壊滅して浅賀が動き出した時期だ。浅賀は早い段階で二人を勧誘していたのだ。『同盟』が鋭月の関連組織を根こそぎ摘発していた頃だというのに大胆極まりない。
「しかし、トリスを調べたところで浅賀の尻尾を掴む証拠が得られるとは思えんな。非常に興味深いのは確かだが」
「結局、信彦叔父様は浅賀の居所に見当がついていなかったの?」
「全く。相手からの連絡は暗号仕込みの郵便で受け取っていたらしくて、直接顔を合わせるのは少なかったそうだよ。それに顔を合わせるのも浅賀本人ではなくて桐島という女性だったらしい」
五月さんが取引をした時も最初に現われたのは桐島一人だけだった。防衛自治派の集まりに潜入していたことからして、外部での活動は彼女が引き受けていたと見える。去年には完全に行方を晦ませていたし、浅賀にはもう表に出る余裕はないのだろう。
「じゃあ、これからは捜査本部が浅賀の根城を探り当てて、その後で極秘チームが仕掛けるってわけね」
「そうなるな。迅速に発見できればいいが」
「……」
寧が何気ない口調で口にした言葉に、俺は頷いて答えた。
だがその時、慎さんは突然表情を強張らせると顔を背けた。
「どうしたんだ、急に目を逸らして」
慎さんは何も答えない。ただ、その額に薄く汗が滲んでいた。
「……まさか、まだ何かあるのか?」
トリスの正体を語ったところで話に一区切りついたと思っていたがそうではないのか?
いや、語られた内容の衝撃ですっかり頭から抜け落ちていたが、これは沙緒里さんの処遇を決める会議の話だ。まだ、彼女に対する沙汰が下されていない。
しかし、それが当然の措置ならば慎さんが目を逸らすわけがない。
つまり、沙緒里さんはまた何かしたのだ。
「はあ? 悪いがもう一度言え。貴様が一般的な日本語の意味を失念した恐れがある」
「だからね、極秘チームの統括を私に委ねてほしいの」
沙緒里さんは満面の笑顔で会議室にいる全員を見回した。
誰もがその意図を把握できなかったという。こいつは何を言っているんだ、という困惑の所為で。
「あの、私は沙緒里さんの頭が少しばかりアレだというのは承知していますが、それは通らないと思いますよ」
「言い方酷いですね。いや、俺も同意しますけど」
オブラートに包むのを忘れた初音さんの表現に恭四郎が同意する。
「え? そんなに変なこと言ったかしら?」
「ここまでの流れを踏まえた上でそれを言い出す神経は賞賛に値する。一応訊くが本気で言っているんだな?」
蘭蔵さんは鋭い視線を突きつけながら指摘する。だが、それを向けられた当人は首を傾けるだけだった。
「逆に訊くけど私を除け者にする理由がある? 以前から浅賀を追跡していて『同盟』の中でもこの件に一番詳しい。警備部独自の情報網は厚く、どんな小さな手がかりでも拾い上げられる。いざという時には最前線に立って陣頭指揮を執れるだけの訓練を受けている。それから……人付き合いには自信があるので、集団の中では潤滑油になれると思うわ。これだけアピールポイントがあっても足りないの?」
「どこの就活生ですかあなた。沙緒里さん、今日あなたが呼び出された理由は憶えていますよね? あなたは捜査情報を正当な理由なく隠蔽した行為について問い質されているんです」
「それなら既に弁明しているでしょう? 章の件は辰馬兄さんと由貴に報告したし、浅賀の件は調査中に過ぎなかっただけ。さっきも言ったけど要請があるなら報告書は出すわよ?」
「それを“はい、そうですか”で受け入れるほど俺たちは貴様を信用していない。今度の極秘チームに貴様を加える予定は一切ない。これは貴様が来る前に四人で話し合ったことだ」
「今あなたが説明してくれた内容に嘘はないでしょう。だが、本心を語っているわけでもない。あなたの真意が不明である以上、チームに関わらせることは許可できません」
草元さんがそう締めくくると、恭四郎さんと初音さんも頷いた。
「今回は私の縄張りにも踏み込まれていますから、情報を警備部経由にさせたくありません。浅賀善則の研究はこちらで探ります」
「俺も一応実行部隊の指揮官って立場ですから、部下を警備部の指揮下には入れたくないですね」
研究者が敵と内通していた以上、研究部門の統括責任者たる初音さんは何がなんでも解決を図るだろう。そこに思考の理解が困難な人物を介在させる余地はない。既に情報を隠蔽した前科がある人物を関わらせれば、また同じことが起こりかねないからだ。
恭四郎さんは戦闘部隊を束ねる役職にあり、礼司さんと小夜子さんの薫陶を受けた人物でもある。以前は礼司さんがその地位に就いていたが、恭四郎さんの幹部入りと併せて地位を譲られたそうだ。
戦闘部隊は別の部署からの干渉を嫌う傾向にある。それが悪評の多い警備部とあれば尚更だ。彼らは絶対に納得しないし、いらぬ軋轢を生むのはわかりきっている。
至極当然とも言うべき四人の反応。
それでも沙緒里さんは余裕に満ちた振る舞いを崩さなかった。
「……ところで、一ついいかしら?」
「何でしょう?」
「蘭蔵が“四人で話し合った”と言っていたけど、残りの皆はどうしたのかしら?」
そこで慎さんは思い出したかのように声を上げた。
「そういえば……最初から気になっていたんですけど、この大変な状況の割に全員揃っていませんね? 総長の姿もありませんし」
『同盟』の最高幹部は十三人いる。現在は礼司さんが欠けているので十二人だ。しかし、その場に集まっているのは四人しかいない。
「総長はお偉方との会合だ。あっちはあっちで面倒な立場だからな。突っつかれてんだろう」
「政府からも対応を問われていますからね」
今回の事件は全国から注目されている。関係各所への説明にも骨が折れるのだろうと慎さんはその場にいない総長に心の底から同情した。
「他の皆は?」
「小夜子さんにも来るように連絡したんですが、体調が優れないとのことで今はプライベートルームで休んでいるそうです」
「残りの六人は自分の仕事で手一杯だから来れないそうです。厄介な仕事はできる奴に任せればいいとも仰っていました」
慎さんは眉を顰めた。
「それはまた……勝手じゃないですか?」
「ふん、『同盟』の上層部連中なんてどいつもこいつも自分勝手な奴ばかりだろう。まともなのは俺と草元ぐらいだ」
誰一人として蘭蔵さんの言葉に反応しなかった。全『同盟』職員の中で最も性格が悪い人物のランキングは、沙緒里さんと蘭蔵さんがツートップであることは公然の事実だ。
それはさておき、沙緒里さんはいつものように妖しい笑みを浮かべる。
「ねえ、『同盟』の規則は憶えているかしら? 『最高評議会の構成員の過半数の同意がある場合、特定の事件の捜査指揮権を任意の職員に対して与えられる』――」
最高評議会とは、最高幹部の十三人で構成される集まりを指す。今開かれているこの会議も最高評議会主催となる。
「……それが何か?」
「蘭蔵、抜かったわね。この手の暗躍はあなたの専門分野でしょう? それとも私に限ってそれは無いとでも思ったの?」
そう言って沙緒里さんは懐から一枚の紙を取り出し、眼前に掲げた。
「その紙は……」
「委任状よ。内容は『浅賀善則の捜索、捕縛及びそれらに付随する捜査の指揮権を御影沙緒里に付与する』。小夜子と、総長を除く今回欠席している六人、計七人の署名付きよ」
高らかに宣告する沙緒里さんの姿は、まるで罪人に死を宣告する裁判官のようであった。
この時、慎さんは彼らの立場が逆転したように見えたという。
「何――」
「何ですって!」
「見せろ!」
辰馬さんが委任状を妹の手から引ったくり、そこに書かれた文字に目を通した。
「……間違いない。確かに彼らの字だ」
「偽造するわけないでしょう。本人に確認とればすぐにわかるんだから」
「こんな物いつの間に……」
「私がずっと屋敷に閉じこもっているだけと思ったの? まさか! 私には代わりに動いてくれる頼もしい妖精が沢山いるのよ?」
そうだ、この状況で沙緒里さんが動いていないはずがない。既に彼女は他の最高幹部たちに手を回していたのだ。
他の幹部が口にしていた“厄介な仕事はできる奴に任せればいい”とは、これを意味していたのだ。経緯はともかく彼らは沙緒里さんに委ねた。姿を見せなかったのもそれ故だろう。
「妙に自信満々だったのは、こういうことだったのか……」
「さて、何か異論はある?」
ここにきて彼らは正当性を失ってしまった。沙緒里さんの独断行動は最高評議会の判断によって容認されたのだ。
今となっては彼女がこの場の支配者だ。
「……仕方ありませんね」
草元さんが渋々といった様子で溜息を吐いた。それは敗北の宣言であった。
蘭蔵さんは無言で沙緒里さんを睨みつけ、恭四郎さんと初音さんは互いに顔を合わせて肩をすくめた。
「ですが、もう人騒がせな行為はこれっきりにしてください。次があるなら我々も容赦はしません」
「ええ、心得ているわ」
最後に草元さんがそう釘を刺すと、沙緒里さんは弁えていると言うように微笑んだ。
こうして会議は何とも後味の悪い空気を残して閉幕した。