静かな怒り
五月さんの言葉に一瞬背中に氷を当てられたような感覚が走る。
寧がいない?
「……どういうことだ? てっきりあの子も戦っているのだと思っていたが」
「いえ、私が寧様にお知らせしようと部屋に行ったときには既にいませんでした。携帯にかけても出ません」
「既に交戦している可能性はないの?」
「それも考えたけど西にいた人形の視界を拾わせてみても何も見つからなかった」
雫と沙緒里さんが疑問を口にすると、五月さんと章さんがそれに答えた。
「西の人形数体には小夜子さんが取り逃がした分の処理をさせている。それの視界には寧らしき人物は映っていないそうだよ」
「……つまりお嬢は戦ってるわけじゃないって?」
「そうだ、どこに行ったのか全くわからない。隼雄叔父さんや秋穂さんにも訊いてみたけど見てないって」
皆の会話が耳に入っても俺はそれをぼんやりと認識することしかできなかった。
このとき、俺の脳裏には過去の記憶が呼び起されていた。
緊急事態の発生、どこにも姿のない寧。
それは一年半前、寧が殺されかけたあの事件と全く同じ状況だった。
思考の迷路が答えに達したその瞬間、耳をつんざくような轟音が俺たちを襲う。皆が一斉にその方角を向くと、森のある一角から黒煙が上がっていた。
「爆発音……?」
「森の方だ、何か燃えてる」
「……あちらからは魔物は来ていないはずじゃなかったの?」
「そ、そのはずですが……はい、近くの人形は魔物を見ていません。ただ、人形が巡回している場所よりずっと奥から火の手が上がっているらしくて」
「そっちで何かが起きたと、こりゃやべえな、すぐにでも――」
俺の脚は登が最後まで言い終えるより先に動き出していた。それは完全に無意識下の行為だ。頭の中の思考すら置き去りにして身体が動いた。
「ちょ、待て由貴――」
登の制止を無視して思い切り跳躍した俺は屋敷を囲む柵を跳び越える。
火の手が上がっているのは屋敷の北側、正確には西にややずれた辺りだ。もうもうと上がる煙を目印に俺は一直線に進んだ。その途中で五月さんが寄越したと思われる武装したメイド人形二体が合流する。人形二体が先行し周囲の安全を確保していった。やがて周りの景色は緑一色で囲まれるようになった。
森の中は薄暗く、頭上から僅かに差す木漏れ日が葉や幹を照らしている。湿り気のある土の上を軽快に跳んでいく人形の後を追いながら、俺は掌に感情を収束させていく。心に若干の乱れはあるが威力や操作に影響するほどではない。それよりも寧の身に何かが起きたとき、爆発する感情を制御できるかが問題だ。
迂闊だった。あの事件の最大の当事者である俺がこの可能性に行き当たらないのは完全にヘマというほかない。
屋敷を大量の魔物が襲撃しているというのなら、その一番の目的は寧であることは明白だ。
一年半前の事件がそうであったように、他の者の目を別の所に誘導させておいて本命を狙うことを警戒するべきだった。
こうなった以上は祈るしかない。あの時と同じように手遅れになる前に対処できることを。
目的地が近づくにつれて焦げ臭い匂いが鼻をつくようになる。生木がじんわりと焼けていく匂いだ。
先行する二体が突然止まり、武器を構えた。俺はいつでも攻撃できる準備をして、人形のすぐ背後に立つ。
俺は二体の人形の隙間から覗いた光景に目を見開いた。
視線の先にいるのは二つの身体。
一つは鰐のように伸びた顎から牙を出す頭と長い胴体を持つ茶色の鱗に覆われた身体。それが一般的に竜と呼ばれる系統の魔物であることに疑いの余地はない。
そしてもう一つはその竜の手前で膝をついている少女。息も絶え絶えで、髪の毛は火に炙られて縮れているその少女は俺の義妹だった。
「寧!」
俺はすぐに寧の身体を抱きかかえて、後方へと跳ぶ。竜が俺の行動に反応して視線を向けたが、行動を起こす前に人形たちがすぐに竜に向けて発砲を開始する。行動を邪魔された竜は銃弾をその身に受けながら咆哮する。その様子からダメージは通っているように思えるが、見たところ出血はない。鱗が頑強らしく、人形の装備程度では威力が足りないらしい。
腕の中の寧は苦しそうに呻きながら、上目遣いで俺を見た。
「由貴……どうして……」
「どうしてもあるか! お前こそなんで一人でこんなところにいる!」
「だって……なんだか……」
寧は寒さに耐えるように身体を震わせた。息切れと悪寒に見舞われたような様子は、血統種特有のある症状が思い浮かぶ。
“能力酔い”――能力を長時間酷使したことで引き起こされる症状だ。どれほどの時間行使すれば能力酔いが起きるかは個人差があるが、強大な力であればあるほど起こりやすいと言われている。
“天候操作”は莫大というほどでもないが、肉体や精神の消耗が比較的大きい能力だ。この竜が先程戦った動物型と比べて圧倒的に強いのは考えるまでもない。これほどの相手を倒すためにかなり無理して能力を使ったのか。
いや、と俺はそのとき周囲の状況に初めて気づき憶測を撤回した。
離れた場所には相対している竜よりサイズが一回り小さい竜が何匹も転がっていた。それと一緒に巨大な雹やその欠片が散乱している。それは何匹かの竜が頭部を潰されていることと無関係ではない。
俺たちが到着する前に寧は複数の竜と戦闘していて、それにより消耗が激しかったのだ。
「とりあえず詳しい話は後で訊く。まずはあれを何とかしないと」
「……あいつ結構タフで、威力を強くしないと全然攻撃通らないから……ちょっと無理すれば勝てると思ったら、いきなり能力使ってきて……」
「それがさっきの爆発か」
恐らくあの竜が固有の能力を用いた結果があの爆発音なのだろう。幸いにも大木が一本根元からへし折れているのと、何本かの木に火が移っている以外に被害はない。竜の魔物は火を操るものが多いという。爆発音の正体もきっとその類だ。寧も髪の毛が縮れているほかに、顔や手足に擦り傷ができていて血が滲んでいる。
竜は現在メイド人形が相手をしていてこちらに気が向いていない。何か仕掛けるなら今がチャンスではある。尤ももうすぐ登たちも駆けつけてくると思うので、退避してもいいのだが――。
「……気に入らん」
「え……?」
気に入らない。
無理に戦うことなく退避する。それはこの場に関しては合理的な判断だ。幼いとはいえあの寧が苦戦するほどの敵だ。皆との合流を優先、あるいは小夜子さんの方が片付くまで時間稼ぎするのもいい。
ただ、ここで「それをしたくない」という感情が俺の中で小さく、しかし強く湧き上がっていた。それは過去と同じ失敗を犯した挙句に、たった一人の家族を傷つけた相手を前に逃げ出したくないという極めて身勝手な感情だ。それを優先する理由はどこにもない。
しかし――俺の“感情”がその判断を許さない。
一年半前のあの事件で俺は大きな後悔した。寧を危険に晒したこと、親友が凶行に及ぶ兆候に気づかなかったこと、奴を止められずに命を奪うに至ったこと全てを。それは生まれて初めて覚える感情だった。
あれ以来、俺の中で一つの掟ができた。
自分の過ちが原因で後悔したときは、例えどんな状況であろうと、どんな結果になろうと、自分で始末をつける。
俺は寧の身体を下し、近くの木に寄りかからせた。
そして人形と竜が交戦している場所へと歩を進める。
「待って……! 危険よ、皆が来るまで待ちましょう!」
「寧、そこでじっとしてろよ。すぐ終わる。」
「へ?」
俺の頭の芯もいい感じに冷えてきた。ちょうどいい塩梅だ。
あの事件のことで礼司さんも含めて誰にも話していない秘密がある。あの事件の後の混乱の中で半ば無気力になっていた俺は事情聴取でもその秘密を話すことがなかった。その後も俺の追放が決まり、今更話す必要もないと黙っていたことだ。“それ”を使う機会も出て行くまで一度も訪れなかったのだから。
その秘密とは公園で蓮と対峙したあのとき、蓮を殺したあのとき俺の身に起きたことだ。妹の命を狙われ、親友と戦うことになり、その末に親友を手にかけることになった俺は――。
「よお、トカゲ野郎。人の妹に手を出してくれたな」
女を騙した悪い男に対する言い草のようだと我ながら思う。人形たちは俺の視線を受けて引き下がる。今まで戦闘に参加しなかった男が突然割り込んできたことに、竜は怪しむように唸る。
俺は胸の内の静かな怒りに手を触れるようなイメージを浮かべた。想像の中で俺は深く透き通った水の中を探り、その底にある怒りの根源を探し求める。それを底から引き揚げ、露わになった怒りが全身に染み込んでいく感覚に神経を研ぎ澄ませる。
それと同時に俺の身体は光によって包まれていった。それは静の感情を表す淡く青白い光だ。
竜はその光に警戒を抱いたのか、大きく口を開ける。口の中で赤々と燃える火球が生成されていき、熱が空気を伝わっていく。
これがあの爆発音の正体か。この竜が持つ能力だろう。
「由貴、下がって――」
寧の言葉を遮って火球は放たれた。寧が息を呑むのが聞こえる。
俺はそれに反応せず、真っ直ぐ飛んでくる火球を――殴った。
俺の拳を受けた火球は風船が割れるかの如く弾け飛び、消滅した。ばんと破裂する音が響いただけで何の衝撃も発生しない。残ったのは無だけだ。
それを眼前で目撃した竜はあり得ない光景を見たと言わんばかりに固まった。自分の攻撃が敵に触れた途端消え去ったのだから当然だ。それなりの知能を持つ魔物でも簡単に理解できることではない。
俺自身はというと火球を殴った時の反動が少しだけ伝わっただけだ。ダメージは全くない。全身を包む光が毛布のように心地よい。
「ゆ、由貴? 何だよそれ?」
「これは……」
いつの間にか駆けつけていた登と沙緒里さんが驚きの声を漏らす。
二人も初めて目にする光景に理解が追いついていない。
「何なのそれ!? 初めて見たわよ!」
一方で比較的冷静な二人と対照的に寧の混乱はピークに達している。
「そりゃあ初めて見せるからな。これを使うのはあの事件のとき以来だ」
「え? あの事件って、それって――」
「ああ、蓮を殺したときだ。今まで黙っていたんだが――あのとき俺は能力を“暴走”させてな」
あのとき。
寧を殺されそうになり、蓮と戦わなければならなくなり、大いに動揺していた俺は能力を暴走させて蓮を殺してしまった。
能力の暴走には能力が従来通り使えなくなるという後遺症が伴うことがあるが、それ以外にもある変化が起きることがある。
それが能力の変異というケースだ。暴走が起きたとき、稀に新たな特性が付加されたり、能力そのものが全く別のものに変化したりすることがある。
俺の場合もそのケースだった。奴の真意を理解できない苛立たしさと後悔に押し潰されそうになっていた俺は溢れ出る感情の勢いに乗って能力を使用し、その結果暴走と変異が起きた。
その変異で新たに身につけた特性が、感情を放つだけでなく身に纏わせるというものだ。“同調”は元来持っていた特性なので、俺の能力が持つ特性はこれで二つになる。
感情の力を身に纏うと身体能力が強化される。単純に強化されるのはもとより、腕や脚に力を集中させれば通常の放出攻撃と同等の破壊力を出すことも可能だ。竜の火球が消滅したのも拳に力を集中させて殴ったからだ。
尤もこれには一つ欠点がある。大きな怒りを覚えたときでないと使えないので主力にはならないのだ。怒りを覚えるような場面というのは何らかの形で凄惨な状況が多いので、そのような場面が無いに越したことはない。
ともあれ、この状況はこの“怒りの鎧”を使用できる場面であったため、遠慮なく使わせてもらう。
火球が通用しないことに慄いた竜は動揺の色濃い雄叫びを上げながら、高く上げた前足を振り下ろした。
腕に力を集中させ攻撃に耐えうるように厚い感情の層を重ねると、前足の爪が硬い物に当ったように弾かれた。
止まった前足をすかさず両腕で掴み、思い切り後ろへと引っ張る。肉の千切れる不快な音が聞こえたのは一瞬だった。太い竜の前足はそれよりずっと細い俺の腕によってもぎとられ、竜の絶叫が木霊した。返り血は鎧が防いでくれたので、俺の腕や服は一切汚れていない。
のた打ち回る竜はようやく事態の深刻さを認識して、逃げ出そうと俺に背を向ける。欠けた前足から流れ出る血が土の上に赤い線を描いた。ある程度開けた場所なので翼で空へ舞おうとしているようだ。
図体の大きさに似合わず竜は素早い。逃げられると別の場所でまた被害が発生する可能性があるので、ここで確実に仕留めておきたい。
竜が翼をはためかせるのと俺が奴の背中に飛び乗るタイミングはほぼ一緒だった。いざ飛ぼうとしていた竜は背中に圧し掛かる重量の正体に気づいて俺を振り落とそうと暴れ回るが、力を込めた指の爪を首根っこに突き立てて揺れを抑える。俺は残るもう一つの手に光球を生成させ、ありったけの怒りを込めた。それはあの光の雨よりはるかに強大な力を持っている。
「相手が悪かったな、これでも“英雄”の息子なんでな」
掌で掴んだままの光球を竜の後頭部に叩きつけた。光が爆ぜて衝撃波が生じるが、鎧の前ではただの風でしかない。竜の頭蓋骨や脳漿が入り混じったどろどろした液体が木の幹にへばりつく。顎は完全に砕かれず、爆発から逃れた歯が飛び散った。下顎は血で汚れているものの綺麗な状態で残っている。
俺が背中から飛び降りた後、竜は慣性に従って前のめりに滑っていく。死骸は下手なスライディングをして木に激突すると動かなくなった。
背後から寧の声が俺を呼ぶ。俺は竜の死骸に興味を持つことなく振り返ると、人形に支えられてこちらへ歩いてくる寧の下へと駆け寄った。