あの夜の出来事
病室を出た後、駐車場にいる凪砂さんたちと合流するまでの記憶が曖昧だ。深尾巡査と何か話した気がするが、頭の中に霞がかかっているような感覚に見舞われはっきりしない。
車の後ろに並ぶ植込みの傍に凪砂さんが立っていた。俺の様子に不審を抱いたらしく眉を寄せている。
「何かあったか?」
凪砂さんはそれだけ訊いた。こういう時、付き合いの長い相手は少ない言葉で意思疎通できるのが楽でいい。
「……少し疲れました。本部に着くまでの間寝たいです」
俺も詳細は語らず最低限の言葉だけ伝える。凪砂さんはそれだけで話は後にしてほしいと理解してくれたようだ。
「それじゃあ本部に着いたら仮眠室を借りようか? 今日は午前からバタバタしてたからな。ゆっくり休むといい」
凪砂さんは俺の頭を優しく撫でると車に乗り込んだ。俺も後部座席に乗り込もうとするが、ふと病院の上階を見上げた。
里見の病室は丁度車を停めている場所の上にあった。さながら小さな独房とも呼べる病室で交わした先程の会話を思い起こす。
あの話が本当だとしたら――。
「どうしたの?」
車中の寧が変な物でも見る目つきで問いかけてくる。
「……由貴くん、何かあったのか?」
「いや、里見と話をして気分が滅入っただけだ」
雫も心配そうに声をかけてくる。俺は端的に事実を伝えて車に乗り込んだ。
車が発進して俺は間もなく宣言通り眠りに落ちた。心地よい車の揺れが俺の夢の世界へと誘う。その誘惑に抗うことなく俺は一時の安らぎに身を任せた。
あの事件以来初めて訪れる本部に目立つ変化は無かった。外観も内装もあの頃と変わらず懐かしさを覚える。
エントランスホールでは俺を知る職員が数名物珍しげにこちらに視線を送りひそひそと何か話している。寧と凪砂さんがじろりと睨むと慌てたように退散し、それを見た雫が顔を顰めた。
「なんだあの態度は。失礼だな」
「腫物扱いだからな。俺が屋敷に呼び戻されるって噂は既に知れ渡っているだろうし、加えて今度の事件だ」
「渦中の人ってわけッスねえ」
そんな話をしていると吹き抜けの階段を誰かが下りてきた。見慣れた着物の柄が俺の視界に入る。
「小夜子さん?」
「あら、見ない顔があるわね?」
小夜子さんが話しかけてきた瞬間、俺は思わず口から息を漏らす。
これと同じシチュエーションがあの日もあった。小夜子さんが同じように階段を下りてきて、それに気づいた蓮が声を上げる。今でもはっきり思い出せる光景だ。
「小夜子さん、そちらは如何ですか?」
「ただでさえ御影家の事件で頭を悩ませていたところに横山の事件が起きて混乱しているわ。警察から情報提供してもらったけれど、犯人の目星は今のところついていないわ」
「信彦さんとの事件の関連性については?」
「何とも言えない、といったところね。殺人は明らかに内部の犯行だけど、襲撃に関しては関与が疑われているし……個人的にはしっくりこないけど」
小夜子さんはそう言うと俺の顔をじろじろと見つめてくる。
「由貴……? ちょっと元気がないんじゃない?」
「ああ、いや、少し疲れが出て……」
「疲れ気味のようなので仮眠室で少し休ませようかと思いまして」
「そう……無理は禁物よ。昨日のこともあるんだから」
前髪の奥に見え隠れする小夜子さんの瞳が憂う。
俺は小さく微笑みを返し、心配は要らないと告げた。
だが、本当は小夜子さんの顔を見るのが恐かった。里見からあの話を聴いた後では。
幸い小夜子さんが俺の内心を悟った様子はなかった。
「ああ、そういえば……さっき秋穂があなたたちのために会議室を確保したって言っていたわよ。四階の小会議室ね」
「秋穂さんは気配りが良くてこういう時助かるな。後で礼を言っておこう」
小夜子さんは一階の最奥に通じる廊下へと去っていった。凪砂さんたちは会議室のある四階へ行く。
俺は小さくなっていく小夜子さんの後ろ姿をしばらく眺めていたが、身体の芯から湧き上がる怠さを思い出すと一人仮眠室へと向かった。
仮眠室は職員用スペースに近い場所にあり、『同盟』に籍を置く者であれば本部の職員でなくとも使用可能だ。
廊下を進み仮眠室の前まで来ると、隣の医務室から沙緒里さんが出てきた。
「あら、どうしたの? 冴えない顔しているじゃない」
沙緒里さんは俺の姿を見るなり面白そうに話しかけてくる。面倒な人に捕まったとうんざりした気分になる。
そんなことを考えている俺に構わず彼女はくすくすと笑う。
「色男が勿体ないわね。ただでさえ普段から感情の起伏が薄い方なんだから、もう少し精気溢れる顔つきになりなさい」
沙緒里さんを無視して仮眠室の扉を開こうとすると、俺の傍に近寄ってきた彼女の冷たい息が俺の耳にかかる。
「それとも――何か嫌なことでもあった?」
俺は何も答えずに扉を開き中へ入る。扉を閉じる直前、隙間から見えた沙緒里さんの顔には俺の心を見透かしているような冷酷な笑みが浮かんでいた。
里見修輔の告白は俺を困惑に陥れるものだった。
「あの晩、最上夫妻と浅賀は氷見山公園で待ち合わせをしていました。浅賀が彼らの提案に乗ったように装い、罠に嵌めるために」
「提案?」
「彼らは浅賀が鋭月様に研究を命じられていたことを突き止め、それを『同盟』に証言するよう説得していたのです。あの方を追い落とすために」
つまり、父さんと母さんは鷲陽病院で行われている研究を知っていた。あの研究は鋭月の部下でも一握りしか知らないと九条詩織が語っていたらしいが、二人はどうやって知ったのだろう。それに浅賀を説得していたのは、鋭月と対立派の繋がりを証言できる浅賀を『同盟』に引き渡そうとしていたということか?
当時は鋭月と対立派の関係を証明する根拠に欠けていた。鷲陽病院への家宅捜索が実行されれば研究を止められる上、病院スタッフを拘束する口実も生まれる。島守院長は気の弱い人間だったというし、彼が鋭月からの提案と資金援助について証言すれば駄目押しになる。
「しかし、罠が仕掛けてあるなんてことは相手側にしてみれば百も承知。当然切札を隠していたわけです」
「それが礼司さんだった?」
里見は憎々しげに頷いた。
「……よもや御影礼司と接触していようとは流石に我々も予想していませんでした。出てくるのは精々中堅クラスの一団だとばかり思っていましたから。そうして戦闘が始まったのです」
里見たちはそれほど多くの戦力を投入していなかったのだろう。予想に反して最強クラスの敵が現われて面喰った。鋭月の尻尾を掴むためなの証人を保護するためなのだから別段不思議ではないと思ったが、敵にしてみれば過剰戦力に見えたのかもしれない。
「ところが――戦闘が始まってしばらくして、あの二人が現われたのです」
「二人?」
「御影寧と名取小夜子です。正確には、まず御影寧が姿を見せ、若干遅れて名取小夜子が、といった具合です」
何故、二人はその場に姿を見せたのだろうか。当時の寧は四歳。お転婆といえども夜に一人で公園をうろつくのは考えにくいし、状況的に小夜子さんが付き添っていたのだろう。
しかし、戦闘が勃発する恐れのある場所に子供同伴というのはありえない。礼司さんと小夜子さんが意図して連れて来たのではないだろう。推測するに、戦闘の騒ぎを聞きつけた寧が音の正体を確かめようと、小夜子さんが目を離した隙に飛んで行ったのだ。
氷見山公園は本部から近く、たまたま二人が近くにいたとしても不思議ではない。ただ、その場合小夜子さんは礼司さんが公園にいると知らなかったことになる。礼司さんは単独で行動していた?
「……それで、その後は?」
「そこから先は私も詳しくは知りません。他の皆さんと散り散りになって乱戦状態でしたので。私は御影礼司の相手で精一杯でした。御影寧と名取小夜子の方は……横山さんと浅賀と一緒にいたのは知っていますが。その後、騒ぎを聞きつけた付近の住民が集まりだしたので撤収しました。それから他の皆さんと合流し、浅賀から最上夫妻が死亡したことを教えてもらったのです」
父さんと母さんは氷見山公園で死んだ。
しかし、二人が発見された場所はそこから離れた全く別の場所だ。
「何故、礼司さんは父さんと母さんの死を事故死と偽ったんだ……?」
「大失態だったからではないですか? 危険に晒されていると知りながらみすみす死なせてしまったんですからね。ましてや、あの御影礼司がついていながらです。あの頃は『同盟』の動きの鈍さを責める風潮が少なからずありましたから」
本当にそれだけだろうか? まだ見落としている情報がありそうに思える。
これを知るには小夜子さんに訊くしかない。両親が死んだ時にその場にいたとされる人物。
寧の様子からしてあいつは事件の記憶が朧げなのだろう。正確に証言してくれるのは小夜子さんしかいない。
「私の話はこれで終わりです。参考になりましたか?」
俺は里見にささやかな感謝の意を表明して、病室を出た。