各務将人の告白 ‐炎上‐
各務先生の話を聴きながら俺は火災当時の出来事について考察する。
糸井夏美の変異は浅賀に襲われそうになった時に発生した。これは立花の薬に加えて両親の死により精神が限界に達していた折に、両親を殺したのが浅賀たちである事実を突きつけられて怒りが爆発したのが原因だろう。
彼女の精神を追い詰めて変異を引き起こすという目論見自体は成功した。だが、そのタイミングが最悪だった。これが少し前であったなら状況は変わっていたに違いない。
もう一つ気になるのは再誕した魔物が夏美を守るように行動したという点だ。彼女が異界へ消える際にも後をついていったらしいが、聞く限りでは夏美に付き従っていたと考えられる。
この理由には見当はつく。
「魔物が夏美に従っていたのは変異によって新たな性質を獲得したからだろうな。恐らく“再誕させた魔物を支配下に置く”という効果だろう」
「詩織もそう言っていたよ」
各務先生も同意した。
このあたりは浅賀たちも当然把握していたようだ。
「しかし、変異が生じた途端に再誕したということは……」
「ああ、この性質の特徴は過去に能力を発動させた対象も再誕させられることだ」
だから保管庫にあったはずの魔物の死骸が復活した。能力の変異と同時に再誕の効果が表れたのだろう。そのおかげで夏美は間一髪魔の手から逃れることができた。
それにしても変異前に再構築した対象についても支配下に置けるというのは余りに強力だ。再構築と再誕についてどこまで判明しているのだろうか。
例えば、複数の対象が存在する場合に同時に再誕させることは可能なのか?
支配下に置けるのは死から復活させた対象に限られるのか、それとも治癒能力として用いてた時のように部分的に再構築した対象も含まれるのか?
他にも時間制限――過去に能力を発動させていても一定期間が過ぎると効果は生じないといったことは起こり得るのか?
ここまでの話では浅賀たちが行った実験の結果に関してはほぼ省略されていたので、詳細を知りたいところだ。
「再誕した魔物は夏美さんを浅賀たちから守るように動いた。彼女自身がそうするように操ったのか、彼女の意思を読み取って魔物が進んで行動したかはわからないが……」
「詩織は思念疎通の一種だと言っていたから、多分前者だろう」
各務先生の言葉通りなら感応系能力の性質も獲得したということだ。かなり大きな変異を遂げたらしい。これは少々厄介な話になるかもしれない。
俺の“同調”がそうであるように、感応系――他人に干渉するタイプの能力は制約がつく半面強力な効果が多い。
夏美の能力に感応系の性質が追加されたなら、その効果が単なる思念疎通だけで終わらない可能性がある。
ただでさえ常識の範疇を超えた能力だというのにそれ以外の性質も存在するとなると、それこそ礼司さんや小夜子さんクラスに匹敵するといっても過言ではない。
そして、俺の予想は当たってほしくない時に当たる。
俺がその説を披露してみせると各務先生は気まずそうに視線を逸らしたのだ。
「……そうなんですか?」
凪砂さんが顔が引き攣りそうになるのを必死で抑えていた。
「……とりあえず話の続きをしよう。それで大体は説明できる」
ここまで長い間語り続けていた先生は疲れたような表情をしていた。
夏美が異界へと消えた後、真っ先に我に返った浅賀はすぐに通信機の電源を入れてモニタールームと連絡を取ろうとした。
変異が生じたならその計測結果が出ているはずだからだ。
それにあの獅子が本当に保管庫に安置していた死骸と同一個体なのか、保管庫へ確認に行かせる必要があった。
最初に聞こえた破壊音は方角的に保管庫から鳴ったと考えられる。もし、安置していた死骸が復活したのならあの獅子以外にも――。
その懸念を払拭するためにも迅速に確認したかった。
だが、通信機から返ってきたのは悲鳴や怒号、そして咆哮。
「これは――」
「……すぐにモニタールームへ戻ろう」
九条詩織は各務先生にこう漏らしたそうだ。
最初はこの残酷な場面に立ち会うことに後ろめたさを覚えて離れたいと思っていたが、むしろそれは幸運だった。
この場にいたからこそ自分はあの火災で生還することができたのだと。
モニタールームに戻った四人を待っていたのは惨状であった。
そこにあったのは数メートルの巨体を誇る一匹の魔物が踊り狂う姿。
煤けたような暗い茶色の鱗に覆われた表面に大きな翼を持つ竜種の魔物。
それがその体躯には狭い空間を飛び、天井の一部を平気な顔で破壊する。その口元からは炎が吐き出され、下方を火の海へと変える。床から天井に昇る熱気が照明の光に当って陽炎をつくった。
その魔物も獅子と同じく見覚えがあった。下にいる九条たちからは遠すぎて見えないが、きっとその竜の耳にも管理用のタグが吊るされているだろう。
モニタールームと実験用のフィールドを隔てるガラスは無残に砕け、内外にガラス片が散らばっていた。部屋の中には先程まで会話をしていたスタッフたちが転がっている。肉が焼け赤黒い肌を晒しており、白衣は完全に燃え尽きていた。確かめるまでもなく絶命しているのは明らかだ。
部屋の中にも炎と熱気が立ち込め、黒煙が廊下の方まで流れ出している。息をするのも辛い状況だった。
竜が暴れ回るフィールドの方にもいくつか人の形をした塊が転がっているのが見えた。どれも身動き一つしない。その中には鋭月から派遣されてきた監視要員もいた。廊下に待機していた男も九条たちより先に駆けつけてきたようだが、既に倒れ伏している。ここにいる面子の中では戦闘に長けた能力を持っていたはずだが、竜には敵わなかったらしい。
「……やっぱりそうだ。あいつここに持ち込んだ竜の死骸――死骸“だった”ものだ」
「ってことは、夏美ちゃんが生き返らせたってことですかー? ここにきて?」
「本当なら嬉しい話なのにこの状況じゃ喜べないな」
浅賀は苦虫を噛み潰した表情で言った。
「単に再誕させただけじゃない。あの獅子を見ただろう? あれは糸井夏美を守るように行動していた。これは――」
「再誕させた魔物を従わせる能力が変異によって身についたと?」
九条が途切れた言葉の後を継ぐと、浅賀は重々しく肯定した。
「あのガキの意思を優先するっていうなら、ここで暴れているのもその所為か?」
「恐らくはな。完全に怒り狂って俺たちを殺すつもりらしい」
フィールドをよく見渡すと、スタッフの遺体の他に魔物の死骸もいくつか転がっていた。あれらも蘇ってスタッフに襲いかかったのだろう。こちらはスタッフたちが先に全て排除できたようだ。残っているのは竜が一頭のみ。
ここにいたスタッフたちに生存者はいないのかと、九条は辺りを観察する。
「誰かいないのか!?」
浅賀の呼びかけに応じる声はない。
聞こえるのは炎がごうごうと勢いを語る声だけだった。
「これまずいですねー、私たち以外全滅じゃないですかー?」
「んな呑気なこと言ってる場合かよ。どうするんだよあれ」
立花が顎で示した先には彼らを見下ろす竜の姿。
その視線が彼らを次の標的と見定めていることを言葉なくして告げていた。
次の瞬間には竜の口から新たな炎が噴出し、九条たち目がけて迫って来た。
「退くぞ! もうここは持たない。地上へ出て鋭月に連絡する!」
「逃げるのは賛成ですけど追ってきませんかねー!?」
「そうなるのを祈るしかねえな!」
炎を避けつつ会話を交わす浅賀、桐島、立花の三人。
浅賀の言うとおり既に地下フィールド全体が炎に巻かれ、地獄の業火のように妖しげに揺らめいている。煙の量は増す一方でこのまま留まれば焼け死ぬより先に一酸化探査中毒に見舞われるだろう。それに天井が崩壊したことで地上部分に火の手が回るのも時間の問題だ。
反対意見は出なかった。浅賀たちは部屋の出口へと一直線に走る。それを竜が見逃すわけもなく、今度は降下して鋭い鉤爪で捕らえようと試みた。
「鬱陶しいですねー、帰してくださいよ」
冷たく小馬鹿にした表情で嗤う桐島が大きく腕を振りかぶると、大きな岩の塊ほどの“蠢く粘土”が宙を飛ぶ。粘土の塊が竜の両脚に纏わりつくと、竜は突如バランスを崩したように真下へ降下した。床に落ちた竜が怒りの叫びを上げる。
“蠢く粘土”は肉体の基となる物質である。引き締まった筋肉として変換した場合、その重量は見た目以上に大きくなる。それが脚に纏わりつけば巨大な重しを繋いだ足枷を瞬間的に取り付けたも同然だ。
「そいつで鼻と口を塞いじまえば殺れるんじゃねえのか?」
「これ維持するの大変なんですよー。足止めだけで精一杯ですって」
呑気に窒息死するまで待つ必要もあるまい。逃げるのが最優先だ。
浅賀は竜が落ちた時にはもうモニタールームから消えていた。その後を追うように立花と桐島も脱出する。
最後に残った九条は部屋の入口から離れた場所にいた。炎の避けた時に入口から遠い場所へと移動したからだ。
竜の脚から効果が切れた粘土がぼとぼとと溶け落ちる。自由を取り戻した竜が残った獲物に狙いを定めるのは当然だった。
どうするべきか九条は迷った。
部屋の外へ逃げるには竜の脇突破しなければならない。だが、その前に炎で焼かれるか、鉤爪で切り裂かれるかのいずれかの末路を辿るだろう。
残念なことに九条の能力はこの場では役に立たない。研究者として招聘された彼女は戦闘能力を期待されていなかった。
こうしている間にも火の手は勢いを増していく。
覚悟を決めるべきか。
彼女が決断しようとした時、状況は思いもよらぬ形で崩れた。
「――潰れろ」
男の声がした。布か何かで覆った口から発したようなくぐもった声だ。
それと共に竜が何かに押し倒されたように地に伏した。腹から首にかけて鞭を振るったように打ちつけ、竜の口から悲鳴に似た叫びが漏れた。
倒れた衝撃で部屋が震える。
小刻みに身体が揺れる中、九条は竜の向こう――部屋の入口に立つ一人の人物を見た。
梅雨時にも関わらずコートに包まれた身体。顔には覆面のようなものを装着し、顔は判別できない。
声の主と思われるその人物は右手を竜へと向け、上から掌で押さえつける動作をとっていた。竜は伏したままもがくが起き上がることができない。竜の巨体と比べれば赤子より小さな手によって動きを封じられているようであった。
「今の内に来い! そう長くは持たないぞ!」
不可思議な光景に見惚れていた九条ははっとすると、言われるがままに扉へと疾走した。
竜の頭のすぐ隣を通り抜ける際に、竜が恨めし気な瞳を突きつけていたのは無視した。
九条が男の元まで辿り着くと、男はさらに掌を叩きつける仕草を見せた。
またしても竜が大きく叫び、翼を大きく揺らす。突風に近い風が地下フィールドに吹き荒れるが、もう怖れを感じることはなかった。
竜は炎を吐こうと顎を大きく開いた。
九条は咄嗟に身構えたが、竜の口からは小さく爆発するような音と共に炎の塊が僅かに燃え上がっただけだった。
男の方を見れば指先で虚空に円を描いている。そして、その指先は竜の口内を示していた。
この男が指先一つで炎を防いだのか?
九条の思考は困惑の一途を辿った。竜を叩きつけたことといい一体この男は何者なのか。何故、この場にいるのか。疑問が次から次へと湧いてくる。
だが、まずは逃げるのが先だ。
扉を閉めてから二人は廊下を駆け抜ける。
男が立ち止ったのは一階に上がる階段の近くまで来た時だ。
「まったく、こんな騒動になるなんて聞いてないぞ。ここは魔物のサファリパークにでもなったのか?」
「……あなたは?」
ぼやく男におずおずと訊ねた。
彼は九条に顔を向ける。覆面によって見え辛いが睨んでいるのがわかった。
「君の質問に答える義務があるかい? 君は俺のおかげで無事逃げられた、それでいいだろう?」
「……それはそうだけど」
感謝の気持ちはあったが、言い方に少しばかり反抗心を覚えた九条は口を尖らせた。
「さて、上に行く前に訊いておきたいことがある」
質問に答えないと言っておきながら自分は遠慮なく質問してくる。九条は彼に結構図々しい男だという印象を抱いた。
「先に外へ逃げた方がいいんじゃないの?」
「心配はいらない、退路は確保してある。逃げる時間は充分に残っているよ」
断定する口調を不思議に思ったが平然としている態度から嘘ではないだろうと考えた九条は、一息つくためにも男の話を聴くことにした。
「何が訊きたいの?」
「至ってシンプルな質問だ。糸井夏美と、彼女の両親はどこにいる?」
男の言葉に九条の身体が強張った。
「……どうしてあの子のことを?」
「俺がこの施設へ社会科見学に来たとでも思ったのか? 言っておくが俺は全部知っているぞ。その上で訊く、糸井夏美とその家族はどこだ? この建物のどこかにいるはずだ」
確信に満ちた口調は一切の嘘偽りを許さないという意思を明確に表していた。
九条は最初躊躇っていたが、威圧するような様子に気圧されて話すことにした。
「あの子は……消えたわ。それに御両親はもう……」
「消えた?」
彼女は地下で起きた一部始終を男に説明した。
男は時折相槌を打つだけでほとんど黙って聴いていた。糸井夫妻が殺されたくだりで若干動揺したように見えたが、他に目立った反応は見せなかった。
「……」
最後まで聴き終えた男はしばし考え込む。
それを九条は黙って見ていることしかできなかった。この災厄を引き起こした側の当事者ということもあり、下手に発言するのは憚られた。
「君は先に逃げろ。俺はここに残ってやることがある」
男は口を開いたかと思うと素っ頓狂なことを言い出した。
「何言ってるの、早く逃げなきゃ駄目でしょう! あなたが何者か知らないけど、またあの竜みたいな魔物が現われたら――」
保管庫に安置されていた亡骸はまだ沢山ある。それらが全て復活しているなら、とても一人で太刀打ちできるとは思えない。大型の魔物は危険生物として指定されているものばかりであり、保管庫にあったのもそれに該当する種の亡骸ばかりであった。
元々は一体ずつ実験で再誕させ、成功後はすぐに殺処分する予定だった。それが一度に複数復活したために不意打ちを受けたスタッフが全滅することになった。
「いいから行け。それから――できたらでいいから浅賀には俺のことを隠していてほしいな。命を救われた恩を感じているならね」
最後にそう言い残して男は来た道を引き返していく。九条が止める間もなく男の姿は廊下の角に消えてしまった。
彼女は迷ったが、男の忠告に従うことにした。
一階へ上がると外から人々のざわめきが聞こえてきた。どこかで消防車のサイレンも鳴り響いている。既に一階から上も炎上しているらしい。ところが、九条のいる辺りには火の手もなく煙も流れてきていなかった。
男は退路を確保してあると言っていたが、階段付近が無事なのは彼が何かしたのだろうか? 竜を圧倒した彼の能力によるものかもしれない。
心の中で彼に感謝しつつ、九条は無事に外へと脱出を果たした。
彼女は島守院長と深刻な顔で話し合う浅賀と合流し、その後、知らない間に着信履歴をいくつもスマホに残していた恋人にも連絡を入れた。取り乱した彼を宥めるのに苦労したという。
一連の出来事は鋭月にも報告され、すぐに夏美の捜索部隊が編成された。ようやく実験が成功したというのに、肝心の被験者を失ったことは彼を珍しく怒らせた。
数ヶ月の間は周囲が慌ただしく動き、その間浅賀たち生き残ったスタッフは事件当時の状況について何度も尋問されることになった。
結局、正体不明の男のことは隠すことにした。現場から遺体が発見されていないことから恐らく生き延びたのだろうと推測し、それ以上考えないことにした。
考えるにはあまりに疲れすぎていた。