各務将人の告白 ‐糸井夏美の覚醒‐
「……本当にあの連中ときたら、よりにもよって子供に対してそんな真似を」
凪砂さんは今にも反吐が出そうな顔で呟いた。
「それで? 当然失敗したんですよね? 能力の暴走を利用して目的の性質を開花させるなんて都合のいいことあり得ませんから」
俺も同意見だ。
そもそもこの実験は当時の状況からもう後が無いとして成功率の低い賭けに出たようなもの。失敗する確率の方が高いのは明白だ。
各務先生の口ぶりからしても失敗に終わったことは予想できた。
ところが、俺の考えとは裏腹に先生は答えた。
「いや、成功するにはしたんだ。最終的には、だけどね」
「?」
どうも引っかかる表現だ。
“最終的に”とはどういう意味だろうか?
「夏美さんの精神に衝撃を与えて人為的に暴走と変異を生じさせる――この試み自体は成功した。だけど、君たちが考えたように思い通りにはいかなかったんだ。変異は彼らの予測とは全く違う形で生じたんだ」
夏美の暴走は数分間続いた。
この間もモニタールームで計測した数値は異常な結果を叩きだし、暴走の段階が進行していることを表していた。
ただ、逆に言うとそれ以外の変化は何も見られない。
「どうだい?」
『……新しい反応は検出されません』
「そうか」
浅賀は残念そうに言った。
「九条さん、立花くんから貰ったもう一本の薬あるよね?」
「……これです」
九条は懐から透明なケースを取り出した。ケースの中には一本の注射器が収められている。注射器の中を充たしている液体は薄い緑色で、見る者に得体の知れない印象を与えた。
「搬送する準備は?」
「既に整えているわ。待機済みよ」
「結構、それじゃ後は最後まで見守ろうか」
浅賀はそう言ってから夏美の観察に戻る。
ここまで来て何の変異も見られないなら最後まで何も起こらないだろう。
実験は失敗だ。
この時、九条はそう確信した。
やがて、部屋中を照らしていた光が徐々にその輝きを失っていき、ついには完全に消えてしまった。
「なんで……どうして……」
起き上がる気配のない親に縋りつき涙の粒を零す少女は、はっとして顔を上げた。
「そうだ、九条先生お願い! 私じゃどうにもできない! 助けてくれよ!」
「……その」
今度は自分の足元に縋りついてきた夏美に、九条はどう返答していいかわからなかった。
「あれ、浅賀先生? そうだ、浅賀先生は? 浅賀先生!」
夏美はその時になってようやく浅賀が部屋にいたことに気づいたらしく、その顔に微かな希望が灯った。
しかし、彼の反応は素っ気ないものだった。
「……駄目か」
「みたいだな」
廊下で聞き耳を立てていたらしい立花が部屋へ入ってきた。その後ろには桐島の姿もある。
「暴走と変異が発生する一般的な条件は満たしているはずなんだがなあ。そう簡単にはいかないか……」
「それでー? どうするんですか、これ。ここまでやって成果なしじゃ駄目じゃないですかー」
「……?」
立花と桐島の発言が何を意味しているのか理解できていない夏美は怪訝そうな顔をすることしかできなかった。説明を求める眼差しが九条へと向けられた時、彼女は無言を貫いた。
「鋭月さんから許可は得てます。失敗した場合、糸井夏美を次の“生贄”にすることが決まっていますよ」
「わざわざここを建てたのが無駄になったな」
立花は露骨にがっかりしたというジェスチャーを見せた。
「そうでもないですよ。ノウハウは得られましたから次にまた実験する際に活かせます。候補者だけなら他にもいるんでしょう?」
「まあな、ただ糸井夏美をこのまま献上するのはやはり惜しいな……」
「何の……話……?」
ようやくそれだけ声を絞り出せた夏美の問いかけに、浅賀は優しげな笑みを浮かべる。
それから一歩、また一歩ゆっくりと少女の方へと足を踏み出していった。
「夏美さん、こんな結果に終わって本当に残念だ。もしかしたら、という期待はあったんだけどね」
浅賀は九条から受け取ったケースから取り出した注射器を構える。
それと当時に立花と桐島が夏美の両脇へと移動した。
その段階に至って夏美はこの状況が語る真実へと辿り着いたようだ。
「まさか……」
悲しみが消え去った能面のような顔が、浅賀の残酷な微笑みを見つめていた。
「君にはこれから鋭月さんの所に連れていくまで眠ってもらうよ。心配しないでいい。眼が覚める頃にはもう終わっているから」
「もっと早くに結果を出していればこんなことしなくて済んだんですけどねー」
桐島の掌から溢れ出た“蠢く粘土”が夏美の両足に纏わりつく。裸足の上に灰色の塊が落ち、ごわごわと動きながら固まっていった。
両足を囚われ動けなくなった彼女の両腕を立花と一緒に強く抑えると、夏美は苦痛に表情を歪めた。
「……やめろ」
痛みに耐えながら目の前の男を視線で射殺さんとばかりに睨みつける。
「どうか許してほしい。俺もこんなことしたくなかったんだけど……でも、遅かれ早かれこうなってたかな? まあ、すぐにでも御両親にまた逢えるよ。だから心配はいらない」
「……やめろって言ってんだ」
注射器の針が迫ってくる中も夏美は拒絶の言葉をぼそぼそと呟く。それを気にする者は誰もいない。
相手はただ一人の少女。複数の大人相手に抵抗する力は持たない。
「じゃあね、おやすみ夏美さん」
そう言って浅賀は針を抑えられた腕に刺そうとした。
異変が起きたのはその時だった。
「やめろ――!」
その瞬間、どこからか破壊音が鳴ると共に、壁や天井がみしみしと震えた。
九条は地震が起きたのかと思ったがそうではない。
揺れは断続的に起こり、さらに破壊音が聞こえた方角から何やら妙な声が聞こえた。獣の咆哮のようなものが。
「今のは……」
九条が無意識にそう呟いた時、突然夏美の背後の空間が歪んだ。
それは凝視していなければはっきりと視認できないほど微小な変化だった。
夏美の両脇を固めていた立花と桐島も違和感に気づいたらしく、目を鋭くさせると即座に距離をとった。
二人が離れると同時に、空間が歪んだ場所から薄い茶色の毛に覆われた脚が覗いた。丸みを帯びた巨大な爪が宙を裂く。
現われた脚が床の上に降りると、その脚から繋がる胴体が見え始めた。
そこまできて九条は突然現れたそれが何かを理解した。
「魔物……どうしてこんな所に!?」
夏美の背後にどしりと重量ある体躯を落としたのは金色の瞳を輝かせる獅子のような獣だった。
先程空間が歪んだように見えたのは異界の入口が開いて、向こう側の風景と重なったからだ。
「おいおい、何だよ急に!」
「え、え、どうすればいいでんすかー!?」
普段は人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべている桐島も流石にこの状況には焦ったらしい。浅賀に視線で判断を仰いだ。
「二人ともまずは離れて!」
言われるまでもないと二人は九条の後ろへ大きく退いた。
九条も同じように距離をとる。
だが、彼女の視線は身じろぎ一つしない夏美に釘づけとなっていた。
「夏美さんも早く!」
九条の叫びに夏美は一切反応せず、顔を俯かせたままじっと立っているだけだ。
ただ、耳を澄ますとぼそぼそと何か言葉を口にしているのがわかる。
どうするべきか迷っていると獅子の魔物はゆっくりと動き出す。
「ああ……!」
このままでは夏美が襲われる。少女の喉笛に獅子が喰らいつく光景を想像して九条の顔から血の気が引いた。
ところが、次に起きた出来事は彼女の想像の真逆をいくものだった。
獅子の魔物は夏美の前方へと回り込むと、九条たちを威嚇するように唸りだしたのだ。
さらには巨体で夏美の身体を覆い隠すような位置を取る。
彼女に襲いかかる気配は微塵もない。それどころか彼女を庇おうとするような態度を見せた。
これは一体――。
その時、桐島が何かに気づいたような声を上げた。
「あれ、あのタグ……」
桐島は獅子の左耳を指し示す。
そこには『8』と数字が書かれた白いタグがピアスのように吊るされていた。
九条には、いやその場にいたスタッフ全員がそのタグに見覚えがあった。
それはこの施設の冷凍保管庫に格納されている魔物の死骸に割り振られた番号を表すタグだ。
「確かあのタグって保管庫の……」
記憶を辿ったその瞬間、九条の背中にぞっと寒気が走った。
彼女は知っていた。再誕の実験に用いた大型魔物の死骸の中に、目の前に立つ獅子と同じ魔物の死骸もあったことを。その死骸に割り振られた番号が『8』であることも。
他の面々も彼女と同じ結論に辿り着いたらしく、一様に驚愕に顔を歪ませている。
「マジかよ……」
「あれー、これってまさか……」
その獅子は今日最後に行った実験に用いた魔物の死骸だったものだ。今は冷凍保管庫に安置させられているはずの。
それが今はこうして生きている。
「……まさか、この段階で変異が生じたのか?」
信じ難い事実に困惑が広がる中、さらに事態を加速させる出来事が起きた。
夏美の背後が再び歪み異界の入口が開かれた。
全員が息を呑んで何が現われるか警戒を強めて観察する。
「今度は何?」
問いかけに答える声はない。
ノイズが走った映像のようにぶれる風景は夏美の後方全体に広がっていく。
今度は異界の奥がはっきり認識できるほど入口が開いている。向こう側に広がる空間は病院の中を模していた。それはこの検査棟の廊下とよく似た通路であった。獅子が現われた時とは別の場所に繋がっているようだ。
緊迫した状況下、獅子と異界の入口双方を注視していた九条たちは夏美の行動に驚いた。
夏美は彼女らに背を向けると自ら異界の中へ足を踏み出していったのだ。
「夏美さん!?」
制止する声を気にも留めず夏美は異界の奥へ伸びる廊下を進んでいく。
そんな少女に従うかの如く獅子も戸惑うスタッフたちを睨みながら入口を潜る。
「夏美さん、どこへ行くの!? 危険よ!」
夏美は廊下の途中で立ち止まり、振り返った。
その瞳はひどく冷たかった。
九条は身が竦むような感覚に囚われ、何か言おうとしてもできなかった。
夏美は背を向けると再び歩みだす。
そうして一人と一頭が境界線を越えて間もなく異界の入口は閉じた。
彼女たちの姿はもうどこにもなかった。
後に残されたのは呆然としたまま立ち尽くす四人だけだった。