各務将人の告白 ‐最終実験‐
九条詩織はその後の一連の流れをこう語った。
糸井夫妻を談話室へと案内するために浅賀と鋭月の部下二人が実験用フィールドに併設されたモニタールームから出て行く姿を見送った後、立花の薬を投与された夏美と言葉を交わした。
「……九条先生、ちょっと気分悪いんだけど」
「きっと薬の副作用ね。休めばすぐに良くなると思うけど、折角だからお父さんとお母さんに逢ってからにしましょう? 話すぐらいなら大丈夫よ」
「うーん……今まではこんなに気分悪くなるのって無かったんだけどなあ」
夏美には薬を服用した後の能力の変化をモニタリングするという名目を伝えていた。彼女はそれが己の精神状態を悪化させるためのものとは一切知らなかった。これから起きる出来事を何も知らない少女が不思議がる様子を目にした九条は、胸の奥底から湧き上がった罪悪感を消すのに必死だった。
「なあ、先生」
「どうしたの?」
九条は内心の動揺を悟られないように気をつけていたが、つい返答が鋭くなってしまった。一瞬夏美がきょとんとした表情を見せたが、特に気にしたような素振りもなく会話を続けた。
「……いや、もう入院して一週間になるけど実験とかうまくいってんの? なんか浅賀先生とか皆顔が険しくてあんまり調子良くなさそうだし」
この一週間は言わば“最後の猶予期間”ともいうべき時間であった。
浅賀はこの一週間で能力の成長を成功させられなかった場合、禁断の計画を実行に移すと鋭月に伝えていた。そして、その猶予期間は既に昨日の段階で終了している。
結果次第では今日の実験が正真正銘最後になるだろう。
それを知るのは眼前の少女を除いたここにいる全員だ。
誰もが普段と変わらない平然とした表情で作業に当っているが、一体心の内では何を考えているのだろうと九条は漠然とした不快感に襲われた。彼らは少女の両親に待ち受ける非業の結末を知りながら仕事をこなしている。ひょっとして自分と同じように罪悪感に対して見て見ぬふりを決め込んでいるのだろうか。あるいは、浅賀や桐島のように酷薄なのか。
考えた末に九条はその感情を振り払うことにした。
もう止めるには遅すぎる。
彼女は取繕った顔で夏美に微笑んだ。
「夏美ちゃんが気にする必要ないわ。あなたは頑張ってるんだから責められる謂れなんてないもの」
「でも、大型の魔物を生き返らせる実験ってもう何ヶ月もやってるけど成功してないだろ? なんかもう無理なんじゃないかなって思ってさ。昨日も何体か実験したけどどれも失敗だったし」
最後に実施されたテストでも再誕させられたのは猪程度の大きさを持つ中型の魔物まで。大型の魔物の再誕は失敗した。正確に言えば、亡骸についた傷を修復することはできたが生命を呼び戻すまでには至らなかったというべきだった。肉体の再構築そのものは何も問題ないらしい。
魔物の亡骸は全て冷凍保管庫に安置されている。どれも比較的新しい亡骸ばかりで鋭月の配下が異界で狩ってきたものだった。
「……そんな顔しないで、きっとうまくいくから」
夏美を励ました直後、九条のスマホに電話がかかってきた。
相手は桐島晴香だった。
『そろそろですよー、準備してくださーい』
「……わかった」
桐島から電話がかかってきたということは、恐らくもう済んだのだろう。
当初は実行の場面を直接目撃させる案が提出されていたが、不測の事態が生じることを嫌った鋭月から待ったがかかった。案は修正され、夏美を案内する前に片をつけることにしたのだ。
変異の前段階としての暴走を過激にさせるのは好ましくないというのが判断の理由だ。あまりに精神的ショックが強すぎると能力を喪失してしまう可能性を危惧したというわけだ。
「お父さんとお母さんが到着したんだって。行きましょう」
「あー、久しぶりだな。お土産でも持ってきてくれたかな?」
九条は微かに震える手先をなるべく夏美に見られないように努めた。
モニタールームを出た二人は談話室へ向かって進んでいった。
検査棟兼研究施設の一階と地下を繋ぐ階段は、西口と北口それぞれの傍にある二つだ。談話室は北口側の階段を下りた先の廊下にあった。この談話室は簡易食堂も兼ねておりスペースは広い。
談話室の扉の前には浅賀についていった鋭月の部下がいた。九条の顔を見るなり一度頷いて部屋の中に入るよう視線で促した。
九条がゆっくりと談話室の扉を開いた途端、血の香りが漂ってきた。
談話室の中央に倒れる二人の男女を確認してから、部屋の中へと入る。夏美がその後に続いた。
「……え」
夏美は視線の先にある物体を見て、呆気にとられたような声を出した。
「え、え、何、これ」
気分が優れないためよたよたとした足取りであったが、それでもテーブルや椅子の背に手をついて倒れているそれに近寄っていく。
そうして目と鼻の先まで近づいてから、それが自分の両親であると認識したらしい。
「父さん……? ちょっと待って、どういうこと。これ……」
糸井夫妻は共に俯せの状態で倒れていた。表情はそれほど苦悶に歪んでおらず薄らとしたものだった。周囲に荒れた様子がないことからして、二人はろくに抵抗できないまま殺されたと考えられる。背中に傷があるので恐らく不意打ちだろうと九条は推察した。
両親の前で膝をつき理解が追いついていない様子で狼狽える少女に彼女は声をかけた。
「夏美ちゃん、すぐに傷を治して。助かるかもしれない」
「あ、あ、うん、わかった!」
冷静になって聞けば九条が不自然なくらい落ち着いていることに疑問を抱いたかもしれない。だが、夏美は全く気づいた様子もなく慌てて能力を発動させた。
夏美の両手に淡い光が生まれ、二人の身体を包み込んでいく。光が触れた箇所の傷口がみるみるうちに塞がっていき何も残らない綺麗な肌へと変わっていく。
研究を開始した当初と比べると夏美の能力は随分と成長していた。発動から効果が発揮されるまでの時間は短くなり、効果範囲も掌の大きさ程度だったのが今では体格の小さな魔物くらいならすっぽり覆えるほどに広がった。純粋な成長という点でいえば充分すぎる。
「何で? 何で起きないんだよ。起きろって! 起きろってば!」
夏美は両親の身体を揺するが反応は無い。九条も傍によって脈をとったが何の反応も返ってこなかった。
ここまでは彼女らの予想通りの展開であった。
「頼むよ……起きてくれって……」
涙声になって言葉を漏らす少女に、九条は新たに言葉をかけた。
「まだ足りないのかもしれないわ。もう一度やってみて」
「……」
夏美は荒く息を吐きながら再び能力を発動させる。薬が効いているのだろう、九条の言葉に無言でただ従うだけだった。精神の均衡が徐々に崩れていっている最中だ。思考がはたらいていないようで頭が軽く揺れていた。
夏美は大きく息を吸った後、掌から光を放出する。先程より明らかに光が増していることに気づいた九条は密かに観察した。
出力が増しているのは暴走の初期段階だ。この時に出力を過大にすると急性の能力酔いを引き起こし気を失うことも考えられる。いざというときは介入するつもりで彼女は状況を見守った。
「うっぷ……」
早速吐き気を催した夏美が口元を抑えた。能力が解除されて床一帯を覆うほどの光が消え去る。夫妻の遺体に変化は見られなかった。
「……今のところ変化はなしか」
いつの間にか浅賀が談話室へ入ってきていた。その後ろには鋭月の部下もいる。
「暴走の初期段階には移行しているみたいだけど」
「次のステップに移行する予兆は?」
「外見に変化はなし。精神状態は悪化。加えて思考能力の低下、それに感情の制御が効かない様子が見られるわ」
吐き気を堪えるように蹲っている夏美を平然と眺める浅賀。その視線はこの後の展開がどうなるかという興味と期待が込められていた。
再度夏美が能力を発動するとさらに強烈な光が部屋中を支配した。近くに立つ九条は眩しさの余りに目を閉じる。出力が増大している証拠だった。
「不安定になっているのは良いことだけど、これならもう少し衝撃的な光景だった方が暴走を後押しできたかな? やっぱり殺害のシーンを直接見せつける方がありだったんじゃない?」
「その決定権は私にはありませんので」
浅賀は鋭月の部下に話を振る。部下の男は無表情で首を振って答えるだけだった。
「まあ、いいさ。それで計器は?」
浅賀は取り出した通信機に問いかけた。
談話室には簡易的な計測器が設置されており、部屋の様子もモニタリングされている。この場面も彼女らがつい数分前までいたモニタールームで観察されている。
『数値は平均を大きく上回っています。次の段階に移行したとみていいでしょう。効果範囲が手の中心から大きく離れて……これは光の当たる場所が全て範囲内となっている?』
「光の当たる場所全て? じゃあ今この部屋全体に効果が広がっているのかい?」
『そうです。ただ、感情の揺れが激しくて出力が安定していません。染みができているようにぽつぽつと効果範囲が散らばっている感じです。万遍なく広がってはいません。薬の作用で意識が朦朧としているのが原因でしょう』
「そのまま継続して観察してくれ」
浅賀は通信を切る。
「さて、成功すればいいが……」