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ティプラー提督が海のそこで生きていた!


一七


 それにしてもおかしい――ボロズドフは思った。

 死体がないのもおかしいが、死体があるのはもっとおかしい。風化した人骨や髑髏が出て来るのならまだ話はわかる。リチャードから聞いた話や自分たちが歩いて調べたあちこちの状況から判断しても、地震は、かなり以前――それも五年や一〇年ではない、相当むかしに起こったことのはずだ。

にもかかわらず、死体がある――。

そして少ないとはいえ、まだ少し生身の肉片を残していたということが理解できない。それとも、《マーゴッド》の気候や空気は、ものを腐敗させにくい、地球とは違うなにかを含んでいるということなのか……。

 地球の常識でいえば、二〜三ケ月、長くても半年も経てば人間の身体というのは土に還って行く。もちろん見つかった死体が、すべて室内でのものだったということもあるだろうし、比較的涼しい場所や地中深くにあったということもあるだろう。

けれど、それでもまだ、自分には理解できない『なにか』がある。《マーゴッド》には、なにか常人の眼には見えない力、すなわち眼に見えない《神の仕業》が働いているのだ。

ボロズドフは、しかし、そうは思ってもそれを口に出しては言わないことを誓った。もし言えば、科学者としての自分の信頼が得られなくなってしまうだろうし、メガロシティ復興隊としての正常な活動ができなくなってしまうだろうことを惧れたからだ。

 彼は、他の隊員たちと一緒に発掘作業や新たな構築物を建設して行く上で、もっとも大切なチームワークのために、己の思い、感覚的な発言といったものをすべて自分の脳裏から封じ去った。

いったん自分をそうしておいた上で、彼はさまざまの実務や作業や報告や相談、会議など一切のことを、みんなの総意のもとに行えるように誘導した。

 そうして一週間も経ったころ、みんなの間には互いの気持ちを思い遣ることでひとつになろうとする、いわば『集団意志』のようなものが生まれた。それは人間ばかりでなく、フィリップの仲良し友達だったルーピィやダイビーも同じだった。

この二匹は、いまでは隊内の誰とも友達だったし、誰からも友達として愛されていた。そこには、年齢や性別、あるいは下等動物といった概念はなかった。論理的には不思議なことだが、ひとに年齢を聞くことはあっても、それは時間の概念に置き換えられて問われるのだった。だから、年齢ということばはあっても、年齢という概念――長幼の序という観念はなかったといっていい。

性別にしても同じで、女性や男性といったことばはあっても、異性という概念はなかった。そこでは、まるでプラスの波動とマイナスの波動という、単なる波の動きだけがお互いに響き合って、ひとつのことをなしているという感じがあった。

 こんな風にいうとますます宗教的神秘的に聞こえ、反発を感じる人間も出て来るだろう。その可能性を懸念して、彼はそれを最近では精神理学者のいうように《共時空間》という非宗教的な言い方に改めていた。《共時空間》の創出は、みんなにはおおむね好評で、そうした気分でいるときは、みんなもあのときのように不安な精神状態になることはなかった。

そうしてできた無言の集団意志の働きが、相互に相互を勇気づけ、励まし合う精神土壌のようなものを形づくっていたのだった。

 そんなことがあってから、フィリップもかつてのような《外域的なもの》からのイクスプロール感や視線のようなものを感じるとはいわなくなって来ていた。これはこれで、ひとつの成功ではあったが、ボロズドフにはまだ安心した様子はなかった。

「どう、ボロフ。最近なにか変わったことあって――」

 ボロズドフが掘削作業している横を、通りかかったマデリーンが声をかけた。

「いや、相変わらずさ」

「そう。確かなのね」

「ああ、確かさ。どうしたんだよ。いつもより疑り深くなっているようだぜ」

 ボロズドフは、作業の手を止め、掘削機のオペレータシートから滑り降りて来て言った。その広い額には、汗の粒がびっしりとあふれている。頭頂が薄いわりに濃い胸はいわずもがな、二の腕にも糸くずの束のようになった毛が黒々とへばり付いている。

「ええ。あれ以来、あたしはあなたに一目置くことにしたのよ」

「ほう、そりゃまたありがたいこって――」

「ふざけないで。本気で言ってるのよ」

「そうかい。こうなりゃ、なにをいわれても驚かないぞ」

「あなたのお陰で、みんなはこんなに協力しあって、着々と仕事を進めてくれるようになったわ」

「そいつは、わたしのせいじゃないさ。礼を言うなら、むしろフィリップのほうだぜ」

 ボロズドフは、そことは別の、やや離れたところで掘削作業を手伝っているフィリップへ顎をしゃくって言った。「彼には、どうしてだか知らないが、みんなをまとめる力がある。わたしのように、ことばや妙な権威を借りずともね」

「ええ、そうね。フィルはすごいわ。なんだか知らないうちに、相手をその気にさせてしまうんですもの。その気になった相手にとっては、フィルはただの子供に過ぎないのに、当の本人が子供になった気がするのね……」

「ああ。ほんとに不思議な子供さ、フィルってやつは」

 ボロズドフは、額の汗を二の腕で拭って言った。《マーゴッド》の夏も、もう少し辛抱すれば終わりがやって来る。そうしたら、こんなに汗をかかずに済むだろう。だが、そのときには、かなり厚めの服を着込まなければ表を歩けなくなるだろう。そして冬にでもなれば、ほとんど冬眠状態だ。雪のなかに埋もれて息をするのもやっとかも知れない……。

 なんとしてでも、この夏中にすべてを片付けなければならない。そうしないと、《マーゴッド》の冬に半年以上、最大八ケ月もの間、足止めを食らうことになってしまう。

「ボロズドフ少尉。ちょっとこちらへいらしてください」

 マークヒルの大声が、丘の向こうからボロズドフを呼んでいた。

「どうしたんだ、マック。なにか見つかったか」ボロズドフは、マデリーンと顔を合わせると、マークヒルに勝るとも劣らない大声で訊ねた。

「とにかく早く、こちらへいらしてください」

「わかった。すぐ行く」

 ボロズドフは、振り返ってこちらを見ているフィリップにウィンクして言った。「フィリップ、きみもだ。一緒に行こう」

 その声にマデリーンも一緒に走った。マークヒルのいる丘は、眼と鼻の先でほとんど草地だったが、日頃あまり走らないボロズドフにとっては、大腿部の筋肉が痙攣を起こしてしまいそうなほどの勾配をもっていた。それでも、ひとつめの坂を登り終えて上を見ると、その先のほぼ中腹付近には、すでにフィリップが、こちらを向いておいでおいでをしていた。そしてこれまたいつ来たのか、彼の二匹の愛犬までが尻尾を振ってボロズドフを見ているのだった。

「早くおいでよ、ボロフ。先に行っちゃうよ」

「足が速いんだな、フィリップ」ボロズドフは、息を切らしながら叫ぶように言った。「いったい、いつそんなに早く走れるような練習をしたんだ」

「練習なんかしてないよ」フィリップが言った。

「ボロフが遅すぎるんだ」

「ああ、そうかも知れん」彼は荒い息を吐きながら言った。

「ボロズドフ少尉。早く。急いでください」マークヒルの声が丘の向こうから催促した。

「ああ、わかってる。行くよ。行くさ。そう急かさないでくれ」

 ボロズドフがそう言って、歩くほどの速さで登っている間に、マデリーンとフィリップの姿は第二の坂を越え、丘の向こう側に消えてしまっていた。

「すごいわ。いったいどうしたというの」

 マデリーンの驚きと、感動に満ちた声が聞こえて来た。

ボロズドフは焦ったものの、どうしようもなかった。右足の筋肉が吊ってしまって走れないのだった。半ばあきらめの心境でようやく丘の反対側に着いて立ちあがったとき、彼は、その足元からなだらかに下って行く平原の彼方を見下ろして感動の声を上げた。

「こりゃあ、凄い。なんという多さなんだ」

「二〜三万頭はいるわね」

マデリーンが、真っすぐ前方を見下ろして言った。

「い、いや、それじゃ、ききませんよ」

 マークヒルが興奮に身体全体を震わせ、それでも冷静になろうと無駄な努力をして言った。「さっきから見ていると、あの右端の大きな森のなかから、これでもかこれでもかというように、どんどん出て来るのです。この調子じゃ、おそらく一〇万頭は下らないのではないでしょうか――」

「そうだな。それぐらいになるかも知れん」

 ボロズドフが震える声で答えた。「しかし、生きものを、生きて動く動物を――この星に来て始めて眼にした」

「そうね。初めてだわね――」

 マデリーンは、新たに感動したように感極まった声で言った。

「この、死に取り憑かれたように見えた星も、じつはあんなに奇麗な、『躍動する生命』を残しておいてくれたのね」

「しかし、あれは――どうみても地球産の犬種ですよ。ほら、あの《エッグ》が乗せて行った……」

「チュクチアン・マラミュート・サウスというんだよ」

 フィリップが、マークヒルのことばを受けて言った。

「もともとは、北亜の奥地にあるアラスカやシベリアなんかにいて、セイウチやアザラシなんかの漁の手伝いをしていた犬なんだ。だけど、サウスオーシャニックが気に入って持ち帰り、徐々に体毛を短くして、南洋の島々でも活動しやすいように改良したのさ。それで、こんな暑い《マーゴッド》にいたって平気なんだよ」

「集団で遊ぶのが好きみたいね」マデリーンが言う。

「うん。仲間同士でもそうだけど、ひとにもとってもよくなつくんだよ」

「そうか。よく知ってるな、フィル」マークヒルが感嘆するようにして言った。「そんな大人顔負けの知識、いったいどこから仕入れたんだい」

「ビジ・プレート・ライブラリでだよ。この旅行が始まって最初のころだったけど、ドクタ・アニマルってあだ名されるくらい、動物には詳しくなったよ。その後には、植物、昆虫、魚類、鉱物、化学物質の名前なんかも全部覚えちゃった……」

「そういえば、《プロフェッサ》って呼ばれていたこともあったっけ?」

「うん。でも、いまではそれも卒業しちゃったよ――」

「ほう。じゃ、今度は、なんてあだ名されてるんだ」

「ただの《フィリップ》さ」

 ふたりのやり取りを楽しげに聞いていたマデリーンがぷっと吹いた。マークヒルが『参りました』というように肩をすくめる。

その間も、眼下ではフィリップのいうチュクチアン・マラミュート・サウスの群れが広大な大地を走り回っている。なににも邪魔されず、自由に。まるで、みんなと一緒に《マーゴッド》の大地を走り回れるのが楽しくてたまらないといわんばかりに……。

と、そのとき、ダイビーとルーピィの二匹が吠えながら、その群れに向かって走りだした。そして、フィリップも。

「おい、フィリップ、どこへ行くんだ」

 ボロズドフが驚いて叫んだ。

「みんなもおいでよ」

 フィリップが走りながら手を振って言った。「一緒に遊ぶんだよ」

 ボロズドフが、呆気に取られたようにマデリーンを見る。マークヒルがマデリーンの反応を伺うかのように彼女を見た。

 マデリーンが走りだした。

「待って、フィリップ。あたしも行くわ」

 ボロズドフがマークヒルを見る。マークヒルの顔が当惑したようにボロズドフを見た。

「ようし、わたしも行くぞ。待ってくれ、マデリーン」

 ボロズドフが坂を下り始めたのを見て、マークヒルも走りだした。すると、その周囲にいたほかの隊員たちも歓声を上げながら走りだした。そして、その騒ぎを聞き付けた麓のひとびとも、なにごとかというように丘を駆け上がって来た。

後発のひとびとが丘の頂上にたどり着く頃には、フィリップはもう犬たちの群れのなかにいた。マデリーンが続き、マークヒルが、ボロズドフが、他のひとびとがそれぞれ犬たちの群れに交じった。

犬たちは、彼らの到着を待っていたように、彼らを相手にじゃれ始めた。ダンスをするように一緒に転げ回る者、同じように駆けっこする者、子犬を抱き上げてぐるぐると回る者、その他、その他……。

そのさまは、まるで政治的な束縛から解放されたひとびとが離れていた肉親たちとの再会を喜ぶ姿を想わせた。

フィリップやマデリーンなんかの表情は、無邪気そのもの。まるで童心に還ったようだった。みんなが口々に陽気な叫び声を上げながら、犬たちと一緒に広い草原を走り、転げ、踊り狂った。

 地球を離れて来て、初めてのお祭り――あまりに速く走ったお陰で、息の切れたボロズドフは、みんなの様子を見ていて、そんなことばが口をついて出たのを知った。

みんなの解放感にあふれた、あの顔の輝きはどうだ。まるで旧友との再会じゃないか。ことばこそ交わしていないが、そこにはことば以上の《交感》が感じられた。

「ルーピィ、ダイビーと一緒にこっちへおいで」

 フィリップがルーピィを呼んだ。ルーピィがダイビーを連れて自分の前に走り寄って来ると、彼は、なにかを念じるような顔つきになった。すると、いままで思い思いに隊員たちと遊んでいた犬たちが一斉に吠え出したかと思うと、尻尾をふりながらフィリップの前に集まり始めた。

「ワーオ、やるじゃない。フィリップ」

 マデリーンが、集まって来る犬たちを見回して驚きの声を上げた。「どうしたの、この子たち。まるであなたのためなら、何でもやる――って言ってるみたいじゃない」


その日から、フィリップたちは、その何万頭もの犬たちと共同で仕事にあたることになった。

彼らは、人間でいえば、『友人同士』ともいうべき親しさを身体全体に込めて人間たちによくなつき、人間がことばによる命令を与えなくとも、あたかもその人間の意志が読み取れるかのように振る舞うのだった。

 マデリーンとフィリップが、その後、彼らの映像をコンピュータに入れて数えさせてみたところ、彼らの総数は、九万頭にほんの少しだけ満たなかった。だから、一〇万頭以上もいる――といったあれは、マークヒルやボロズドフの、感動のあまりの錯覚だったことがわかった。

もちろん、解析にかけられた犬たちの特徴や性別、推定年齢、名前などといったものは、例によって『ただのフィリップ』のコンピュータにインプットされ、必要なときにはいつでも取り出せるようフィリップの私設ビジ・プレート・ライブラリに保管されたことは言うまでもない――。


一八


「しかし、いったいなんだって、あんなに多くの犬たちが森のなかで生きていたんでしょうね。飼い主たちは、とっくに死に絶えてしまってるというのに――」

 そのことを話のついでに蒸し返して、マークヒルがボロズドフに訊ねた。

「うむ。当初でこそ、その千分の一もいなかったのだろうが、一度の出産で六〜八匹の子供を生む犬は、その環境さえ許せばいくらだって繁殖してしまう。地震があって、人間がいなくなってしまってからこっち、一〇年から一五年ほどのスパンで急激に増えてしまったんじゃないのかな」

「天敵もいませんしね」

「ああ」

「それにしても、多すぎるとは思いませんか」

「動物学者じゃないのでよくはわからんが、人間だってひとつ家族で八人から一〇人くらいの兄弟が一緒に暮らすのが普通だった時代もある。労働力を必要とするその時代には、ふたりが一緒になって一〇年か一五年もすれば、親や孫も含めて三〇人くらいの大家族になっていたっておかしくはないさ。

まさに太古の女性は、人間の拡大再生産器械、つまり《豊饒の神》の化身そのものだったんだからね。あの犬たちは、われわれが到着するまで、まさにそういう野放しの状態にあったんだよ」

「でも、森のなかの木の実や小動物なんかを相手にして、よく生き延びていましたね」

「ああ、そこが観念ばかりを発達させてしまって、本能を退化させてしまった人間どもと大いに異なるところだ。いくら環境が変わったって、なんとしてでも彼らは生きぬいて行くだろうさ。

これでも、宇宙科学者の端くれなんで、あまり神秘主義的って言うか、神かがり的なことは言いたくないけどね……」

 とはいえ、ボロズドフが、その九万弱の犬たちを引き連れてリチャードたちの隊に合流し、メガロステイト・シティにいる可能性のある生存者の捜索に加わるようになってからというもの、作業の能率はみるみるよくなっていった。だが、効率が上がりはしたものの、作業自体はハードそのものだった。

来る日も来る日も、瓦礫を取り除いてはリレー方式で遠くへ運び、それから戻って地面を掘り起こし、穴へ潜っては掘り返す作業が続いた。まさに果てしのない、気力と同胞意識だけが筋肉を支える作業の連続だった。

 それでも隊員たちは、犬やフィリップのような子供たちに負けじと、精力的に動き回った。街は何万頭もの犬の吠え声とそれに答える人間たちの声、あちこちで土を掘る機械の轟音、瓦礫を積む音、運び去る音、警笛などの騒音で活気にあふれ、ごった返した。

犬たちはその鋭い嗅覚を使って、あちこちの瓦礫の間を走り回り、ちょっとでも変な臭いがすればすぐに穴へ入り込んで捜すか、入り込めない場合にはひとが駆けつけて来るまで吠えあげて、そこに白骨化した人間や、すでに人間の姿を失いつつある遺体があるのを教えた。その度に地上は、亡骸を焼く臭気と煙でいっぱいになった。

 そうして三週間が経ち、一カ月が経って、最終的に発見された人骨の数は、十一万七六五九体分にも達していた。彼らと生活をともにしていたらしい犬や猫、小鳥などの骨やミイラ化した亡骸も人骨や遺体のそばで発見された……。

ひとびとは、しかし、そうしたものに最初のときのようなショック症状を見せたり、悲しみのあまり神を呪ったりというようなことをあまりしなくなっていた。

 それからも黙々とした作業は進み、メガロステイト・シティの全域、それを取り囲んでいるアースレベルゾーンの地中住宅やスカイレベルゾーンの倒壊した高層および低層住宅、アニマルファームや穀物生産工場、各種工場、その他、その他へと踏査は進んで行った。考えられる限り、眼につくかぎりの場所がすべて念入りに踏査され、これでもう捜索するところは残っていないというところまで来ていた……。

「しかし、予想されていたより少ない数字ですね」

 集計係のポールから最終報告を聞いたボロズドフが、これまでの数字の記録をリチャードに見せながら訊ねた。「これが最後の数字だとすれば、あとの遺体はどこに行ったんでしょうか――」

 この頃になるとリチャードは、以前ほど生存者への熱い希望を語らなくなっていた。口数そのものも少なくなって来ていた。

セーガンと本来の目的である復興計画の打ち合わせをするリチャードのその姿にも、ボロズドフはどことなく精力が失せたように見えるのだった。

 思慮深いボロズドフは、しかし、リチャードになにか深い考えがあるのだろうと思い、彼を放っておくことにした。そしてフリーマン准将が母船を降り、本格的な復興機材や人員とともにメガロステイト・シティに乗り込んで来たとき、リチャードがその作業の分担までもセーガンと彼に任せたのを見て、彼はリチャードに訊ねてみることにした。

「フォアライン中尉。いったいどうしたんですか。最近どうも様子がおかしいですよ」

「死生観が変わったんだよ――」

 ぽつりとリチャードが答えた。

「そんな寂しい言い方をしないでくださいよ」

 ボロズドフが悲しそうに言いつのった。「かつて、あれほど精力的にわたしたちを引っ張って行ってくれたじゃないですか――」

「疲れたんだよ、ボロズドフ君。ぼくはもう疲れてしまったんだよ。その『中尉』という呼び方もやめてくれないか。ぼくにはもう、その資格はない……」

 その声の力なさにボロズドフは二の句が告げず、黙ってその場を去るしかなかった。

 いったい、あのフォアライン博士、わたしが憧れてやまなかった、あの栄光に輝くフォアラインラムジェット・エンジンの発明者リチャードの、眩しいばかりの姿はどこへ消えてしまったのか――。

ボロズドフは、自分の部屋へ行ってドアを閉ざし、ひとり悔し涙をこぼした。生存者が発見できなかったということが、ひとりも救えなかったということが、それほどまでに彼の心を打ちひしがれたものにしてしまったのか。

信念のひと=リチャード・フォアライン。その不屈の精神の塊ともいうべき、あの宇宙に馳せる情熱はもう、この《マーゴッド》では、時代遅れの『無用の長物』となってしまったのだろうか――。

 生きて行く目標、生きてある意味、生き延びる理由。アクションとしての、情熱としてのそれらが、なし崩しにされて行くのを、ただ眺めるしかない無力感。どんなに努力し、自分を鼓舞して掴んでも、水銀が指の間やその周りから、どうしようもなくこぼれて行ってしまうように、彼は自分の人生をその手にすくいそこねてしまったのだろうか。

シティを覆っていた瓦礫の処理も終わり、道も新たにできて、さあこれから、ほんとうの街づくりが始まる――というのに。そしていまこそ彼の望んでいた、《人間の手》になる都市づくりの夢が実現するというのに……。

「誰だ。誰かそこにいるのか……」

 彼はドアに向かって言った。誰かが部屋の外から自分を呼んだ気がしたからだった。

《おまえ、ボロフ》

 同じ声が言った。だが、それは耳から入って来た音声ではなかった。彼は思った。

みんなが噂していた、《あれ》がこれなのか――。

「誰だ。フィルか」

 それがフィリップではないことは分かっていた。こうやって、ブラフでもかけなければ落ち着かないものを感じたからだった。

《おまえ、ボロフ。ティプラ、知る、おまえ》

「ティプラ……。ティプラって、あのティプラー提督のことか」

 ボロズドフは、自分がまだ若かったころ、この《マーゴッド》へ飛び発った恒星間航宇母船エッグのキャプテンの名前を憶い出して言った。

《ティプラ、会う、おまえ》

「あのティプラー提督が生きているのか――」

 ボロズドフは、いぶかりながら、その声を必死で聞き取ろうとして言った。呼びかけて強化しなければ、ふうっと消えてしまいそうなほど弱々しい心語だった。「で、おまえは誰なんだ。ティプラーなのか」

《ティプラ、ない。おまえ、行く、海、船》

「船。ティプラー提督は、船に乗っているのか」

《おまえ、時間、朝、太陽、ティプラ、待つ》

「どこだ。どこへ行けば、ティプラー提督に会えるんだ」

《海、いた。おまえ、海》

「あの港だな。あの漁港に、もう一度行けばいいんだな」

《港。海、船、動く。ティプラ、いる。おまえ、来る。ひとり……》

「船はどこだ。ティプラー提督は、その船に乗っているのか。ほかに誰がいる」

 ボロズドフは、消え入りそうになるそれを押し止どめるように呼びかけた。が、その後はどんなに呼びかけても、そのことばは彼に働きかけて来なかった。彼はすぐさまドアに向かい、それを乱暴に開け放った。周辺の地面をうかがったが、誰かのいた痕跡はなかった。あのときと情況はまったく同じだった。

しかし、今度のは完全に意味が異なった。決定的に違うのは、《あれ》が進んで自分のほうから意思表示をして来たことだった。

 《あれ》が、新地球人であれ宇宙人であれ、あるいはその他のなんであるにせよ、人間にとっても特殊なコミュニケーション手段のひとつである『心語』を発見し、その方法を使ってコンタクトを求めて来たということがポイントだ。

これは、これからの展開にとっては、大きな収穫といえる――ボロズドフは思った。

しかし、判断をあおぐべきリチャードの精神状態が、ああいう状態である以上、ボロズドフは間違っても彼に相談する気にはならなかった。たとえしたとしても、報告の一方的受諾だけに終わり、的確な判断や有効な指示の類いは与えられないと考えていいだろう。

恩師でもあるリチャードを尊敬しないではないが、いまはそのときではない。しかもこれは、誰もがにわかに信じてくれるほど単純な話でもないのだ。

「ボロフ」

 女の声がした。口頭による音声だった。「どうしたの。ドアを開けっ放しにしたりなんかして――」

 ボロズドフは一瞬びっくりして、声のしたほうを振り返った。

だが、それがマデリーンと分かって彼は平静を装った。

「ああ。ちょっと暑かったもんで。空気をね、その、ちょっと入れ換えてみてたんだ……」

「そうね、今日はとくに暑いわね」

 言いながら、彼女は彼の前の椅子に腰を下ろした。そのこめかみ辺りからあごにかけて、大量の汗が流れている。手元のカップに冷たいドリンクを入れて飲みながら言う。「でも、あのワンちゃんたち、よく頑張ってくれているわよ――」

「ああ。そうだね」

「どうしたの、今日は。なんだか元気がないわね」

「なんでもない。多分、街の片付けが一段落したんで、ほっとしているんだと思うよ」

「思うって、あなたのことじゃない。自分のことをそんなふうに言うなんて、変ね。なにかあたしに隠しごとをしてるんじゃなくて」

「どうも、きみの眼力はごまかしがきかないようだ」

 ボロズドフは、あっさりとシャッポを脱いで言った。ひとりで抱える荷にしては重すぎるし、虚勢を張り続けるのにも疲れを感じていた。

「実は、《あれ》が現れた」

「あれ――って、《あれ》のこと」

「ああ、《あれ》のことだ。ついさきほど、このわたしにコンタクトを求めて来た」

「なんといって来たの。そいつは、人間のかたちをしていたの」

「人間かどうかはわからない。音声や映像ではなく、心語で語りかけて来た――」

「なんと言ったの」

「ティプラーが港でわたしを待っているから、会いに行けと――」

「ティプラーって、あの……」

「そうだ。あのティプラー提督、《エッグ》のキャプテンだ」

「彼は、生きていたの」

「うん。《あれ》の話からするとそうだ。だが、罠かも知れない」

「そうよ。きっと罠よ。だめ。行っちゃいけないわ」

「だけど、行かなくちゃならない。行くと約束してしまった。ひとりで来い――と言っている」

「なおさらだめよ」

 マデリーンが立ち上がって言った。「行くなら、あたしやフィリップも連れて行くのよ。そうだわ。あの犬たちがいいわ。フィルになら《あれ》の心も読めるかも知れないし、なにかがあっても、あの犬たちが相手なら数が多い分だけ、なんらかの形で《あれ》に対抗できるかも知れない……」

「残念だが、今度ばかりは、きみの意見に与するわけにはいかないよ――」ボロズドフはきっぱりと続けた。「《あれ》のことばはたどたどしく、稚拙なものだったが、内容そのものは、四の五のいわせない迫力があった。

さからえば、きみやフィリップの身にきっと何かが起こる。ここはわたしに任せて、ひとりで行かせてほしい。頼むよ。ほかでもないきみだからこそ、こうやってお願いするんだ……」

 マデリーンは彼の顔を見上げ、唇を噛み締めたたまま、なにかを考えるようにしている。

「それと、このことはわたしが帰って来るまで、ほかの誰にも言わないでくれ。いいね」

「だって、それじゃ、あなたが帰って来なかったときは、どうなるの――」沈黙を破って、マデリーンが訊ねた。「いつ帰って来るわけ。明日、それとも明後日……」

「わからない。わからないが、おそらく遅くとも明日の夕暮れには戻れるだろう。いや、夕暮れには戻るつもりだ。そして、夕方の八時を過ぎてもまだ、わたしが戻らなかったら、そのときは、みんなに事情を打ち明けてくれてもいい。せめてそれまでは、みんなには黙っていてほしいんだ」

「わかったわ……」

 マデリーンは、手を差し出して言った。「でも、リストコムだけは、いつでも受信できるようにしておいてね」

「ああ、それは約束する――」

 ボロズドフは、彼女の手を堅く握り締めながら答えた。「それと、これはわたしが《マーゴッド》で一段落がついたら、きみに渡そうと思っていたものだ。忙しさにかまけて、ついつい今頃になってしまった」

「なによ。縁起でもない」

 マデリーンは、彼の差し出した小さな箱を見て言った。「そんなものもらったら、あなたはほんとうに帰って来なくなるわ」

「いいから、取っておいてくれ。下らないものだが、いまでは、唯一の地球産になってしまった貴重品だ」

 ボロズドフは強引ともいうべき素早さで、その小さな箱をマデリーンの手に握らせて言った。そして一瞬の間、彼女の顔を見つめてきびすを返そうとした。

「待って――」

 マデリーンは、彼の顔を両手で挟んで自分の方を向かせると、その唇を重ねた。「帰って来てね。きっと戻ってくるのよ。これをあなたの形見になんかしないからね」

「ああ。ありがとう」

 ボロズドフは言って、きびすを返した。「きっと帰って来るよ。そのときは、そいつを正式に受け取ってもらうからな――」

「ええ。待ってるわ」

 マデリーンは、彼が立ち去った後、その小さな箱を開けた。

 そこには、いくつもの紫水晶が上品にちりばめられた指輪が入っていた。紫水晶は、マデリーンの誕生石だった。

彼女は、それを取り出して眺めた。開け放たれたドアから差し込む陽射しが、それを照らした……。

角度を変えてみると、その深い紫のクリスタルのなかから幾条もの光が漏れた。なんだかだ言いながら、彼はちゃんと自分の誕生月を覚えていてくれたのだ。いまでは二〇〇年も前に廃れてしまった古い国の、それも古いタイプの男の習慣だったが、それだけに彼女には微笑ましかった。

 彼女は、それに静かなキスを贈った後、もとあったとおりに箱のなかへ蔵った。それを指にしてしまうのが、彼の不帰を暗示するような気がした。それよりも、彼が無事で帰って来てくれたほうがいい――マデリーンは思った。


一九


 まだ太陽が沈んで間なしの海とはいえ、そのなかは暗かった。

 リチャードは息をすることもできず、身体の動きを封じられたまま、その深い闇のなかへと沈みつつあった。それは自分の意志でしているというよりも、なにか眼に見えないものの力によって無理やりにさせられている感じだった。

下を見ると、暗闇の奥のほうからなにか淡い光のようなものが漏れていた。彼はそこへたどり着こうともがいた。そこにたどり着けば息ができるような気がした。

 ようやくたどり着いたそこは、不思議なことに、海のなかの空洞ともいうべき状態になっていた。その空洞に頭を突っ込むと、そのなかは酸素が充満しており、息ができるのだった。彼は両足で水を蹴って、身体ごとその空洞のなかに入った。底を足にして立つと、水中にできた巨大な泡のなかにいるという感じがした。

 彼は背後に、なにかが動く気配を感じた。そして恐る恐る泡の外を振り返った。

 そこには顔や手の皮膚がめくれあがり、眼球や舌の飛び出した死体、骨の突き出した骸やらが頭を下にして漂っていた。そうした程度のものが、ざっと一〇体以上は漂っていただろうか。

彼は叫び声を上げ、反射的に泡の外へ身を投げた。自分の手足や身体を包んで来る海の重さから解放されようと、思い切り両腕を振り回したとき、彼の眼がサーラの顔を認めた。

「今度は、いったいどんな夢を見たの、ディック。ずいぶんうなされてたわ」

 サーラが言った。

「ああ、まるで全身が錨に括りつけられて、身動きが取れない姿勢のまま、海のなかに引っ張り込まれていく夢だった」

 彼は、額の汗を拭ってくれているサーラに喘ぎながら言った。「そうしてたどり着いた海の底には、街で見た腐乱した死体が、いくつも浮かんでいた……」

「気味の悪い夢ね」

「ああ」

「なにも起こらなければいいけど――」

 サーラは、不安そうな溜め息をついて言った。「この前の夢は、《正夢》になってしまったわ」

「ああ――」

 リチャードが、あの夢の内容を想い起こして言った。「しかし、それを見たのは、ぼくじゃなかった」

「だから、心配なのよ」

「フィリップはどうしてる」彼はベッドから上半身を起こして言った。

「いまは、ベッドで眠ってるわ」サーラが彼の手を取って言った。

「そうか。彼になにか変わったことは――」

 彼はサーラの両腕を取り、その身体を抱き起こして言った。

「いまのところは、なにも起こってないわ」

 サーラはリチャードに抱かれるまま、彼の胸へ身体を預けながら言った。しかし、そうは答えたものの、なお残る不安な感じを彼女は拭いきれないでいた。


その頃、ふたりが話題にしている当の本人は、斜め向かいの宿舎のベッドにいた。

が、まだ眠ってはいなかった。サーラにおやすみを言ったものの、なぜか寝つかれないまま、天井を見上げて考えごとをしていた。彼が見やる方向には小さな天窓があり、そこからは天空の闇にちりばめられた無数の星々が光を投げかけていた。

大気が人間たちの吐き出す不純物で汚れてしまった地球では考えられないことだが、ここ《マーゴッド》では、星はまるでその手ですくい取れるのではないかと思えるほど近くに瞬いて見えた。

この星には、地球の月に相当する衛星が――大きさこそは、やや小ぶりになるものの――大小ふたつあった。それらは西と南の中空から強い光を投げかけ、地表を明るく照らし出していた。

だから、夜とはいっても、ちょっと瞳をこらしさえすれば、辺りの景色はナイトスコープなどで見るよりずっと鮮明に見ることができた。

 中空にかかった小さな月と、大きな月――。

大きいほうでも、地球のそれと較べれば、その三分の二ほどもなかった。いずれこのふたつの月は、地球のそれと同じようにテラフォーム化され、人間その他の生命体が住める星に改造されていくのだろう。

まず手始めに近くて大きいほうの星、つまり《南月》のほうから着手されるに違いない。そうなれば、人類はさらに増え続け、この《マーゴッド》からも大量の人員が投入されることになるだろう。その頃には、人類はこのイプシロン宙域だけでなく、その反対の方向にあるウォルフ宙域など十五光年以内にある恒星のすべてを踏査し尽くし、よりアースライクで長期居住可能な惑星を確定していることだろう。

どんな形であるにせよ、一二〇歳を超える長寿が確実に約束されるいま、人類は人口の爆発寸前には新たなアースライクスターを求めてより遠くへ向かっての旅に出る。そんなふうにして、あのビジ・プレート・ライブラリの言っていたように『銀河沈没』という最終シナリオへ向かって、何千年もの果てしない宇宙への旅を続けてやまなくなるのだ。

 頭のなかの想像が、いつかボロズドフの言っていた《神秘の仕業》にたどり着いたとき、フィリップは、表でなにかが引っ掻かれた音を聞いた気がした。彼はベッドから身を起こし、覗き窓のついたドアを見やった。が、ドアの向こうに、ものの動いた気配はなかった。窓を通して見る向こうは、この宿舎と同じ仕様の施設が何十棟も続いていた。

すべてがなにごともなく、安らかな寝息を立てて眠っているように見える。彼は気のせいと思い直して、身体をもとへ戻そうとした。すると、またドアの引っ掻かれる音がした。今度は空耳ではなかった。彼はベッドを降り立ち、ドアに向かった。

そしてドアに来ると、それを開ける前に、少し背伸びをして窓枠の横からそうっと下を覗いた。黒い動物の影が見えた。

さらによく見ようと背伸びをすると、その黒い影の正体はルーピィのそれだった。ルーピィは、フィリップが覗いているのに気がつくと、立ち上がって両前脚をドアにあて、キュンキュンというような悲しそうな声で鳴いた。

「なんだ、ルーピィだったのか。びっくりするじゃないか」

 フィリップはドアを開け、ルーピィを部屋に入れた。

ルーピィは入って来るなり、フィリップの足もとにお座りをして、彼を見上げた。

 彼は、ルーピィと同じ高さにしゃがみこんで言った。

「どうしたの、ルーピィ。なにかあったの」

 ルーピィは喉を絞るような、か細い声を出し、フィリップの腕を掻くような仕草をした。その眼には、いつにない寂しさが宿っている。なにかを訴えかけるような、ルーピィ独特の不安そうな眼の動きがあった。

《ほんとにどうしたの、ルーピィ。なにかぼくにしてほしいことでもあるの》フィリップは、音声での質問ではらちがあかないと見て、心語で話しかけてみた。《ぼくになにをしてほしいの》

《……いない》ルーピィが、フィリップの心にことばの断片を伝えてきた。

《いない――って、誰がだい》

《ダイビー》

《ダイビーが……》

《ダイビーいない……》

 ルーピィは、悲しそうにフィリップを見上げながら、心を発信し続けている。

 フィリップは、ルーピィにそのままの姿勢で待つように告げて、服を着替え始めた。

あれほどいつも一緒だったダイビーとルーピィの二匹が、離ればなれになることは考えられなかった。二匹は、文字通りいつも一緒にいて、フィリップたち人間の手足、というより、目鼻となって遺体捜索や掘削現場での遺体発見の手伝いをしてくれていたのだ。

新しく友達になったチュクチアン・マラミュート・サウスの仲間たちが、それぞれ別の行動を取っていたとしても、彼らは決して別れて行動することはないはずだった。

《ダイビーはいつ、いなくなったの》フィリップは、ルーピィに訊ねた。《それとも誰かにつれ去られでもしたの……》

《ダイビー、ひとり、行った》

《どこへ》

《ダイビー、変、いわない》

《きみに黙って、行ってしまったの。行き先も告げずに――》

《どこ、いわない。ダイビー、行った》

《そうか。彼を探してほしいんだね》フィリップが、寝間着姿をいつもの作業服に着替え、その上に防寒用の上着を着て言った。《彼のことが心配で、それでぼくを起こしたんだね》

《ルーピィ、心配。ダイビー、変》

《わかった、ルーピィ。一緒に探しに行こう》

 フィルがルーピィの頭を撫でて言った。ルーピィが嬉しそうに大きな声で二度吠えた。

《しっ。静かに。そんなに大きな声を出しちゃだめだよ。眠っているみんなが眼を醒ますからね》

 フィリップが言って、ルーピィに自分の首を嘗めさせた。

そうやってルーピィを静めておいてから、彼は小さな紙片に走り書きをしたためた。眼につきやすいように、それをテーブルの真ん中に置いた後、彼は音のしないようにゆっくりとドアを開け、周りを見回した。

相変わらず辺りには、静まり返った空気だけが漂っていた。

彼はルーピィを先に立たせ、後ろ手にドアを閉めた。

表は、まるで凍てついたように青白い光で覆われていた。ふたつの月が、冷やされた大気を通して太陽からの光を投げかけ、ひとりと一匹の影をクロスさせていた。ルーピィが匂いをたどるようにして、地面に鼻をつけながら走った。

フィルの影がそれを追う。寝静まった宿舎の前をいくつも通り過ぎるうち、ふたりの影は次第に見えなくなり、ついには遠くの闇のなかに消えてしまった。


 サーラが、隣で寝ているリチャードの眠りを妨げないように、そうっとベッドから抜け出し、かたわらの作業衣に手を伸ばした。

「なんだ」リチャードが、その動きに気づいて言った。

「やっぱり心配だから、ちょっと行って、あの子の様子を見て来るわ――」

ブルゾンを羽織りながら、リチャードを見下ろして彼女が答えた。

「待ってくれ、サーラ。ぼくも行こう」

 寝入りばなを起こされて眠いはずのリチャードが、即座にそう言って立ち上がった。彼もまた、なんとなく不安な感じが頭から離れてくれず、完全に眠りにつくことができなかったのだった。

 彼はサーラと同じベッドで横になっている間、ずっとこの《マーゴッド》に着いてからのできごとを反芻していた……。

 遺体こそは数多く発見されたものの、生存者のいなかった『死者の街』メガロステイト・シティ。これまでの調べでいえることは、スカイレベルゾーンでの死者はともかく、アースレベルゾーンでの生存者であったはずの死体は、その後もなんらかの形で生かされていたに違いなかった。

そうでなければ、あの十一万七六五九体もの遺体のほとんどが原型を保っていたことの意味がわからない。そのほとんどが台所の床や食卓、ベッドなどに横たわるか、うつぶせになる形で死んでいたのだ。彼らはそこから出られないのを知って、徐々に飢え死んで行くのを待つしかなかったのだ。

それにしても、生存期間が長すぎる。いくら食料やその他の備蓄があったからといって、その後一〇数年間以上も生き延びていることが果たしてできるのだろうか。発見された遺体のなかには、いまだ死肉を食らう虫が群がっているのがあった。

それは、考えられないことだが、その遺体が地中住宅の密室に閉じ込められた状態のまま、この二〜三ケ月前まで生きていたことを意味するのではないだろうか――。

 だとすれば、《何》が彼らを生かし続けていたのか――それがリチャードの解決しなければならない問題だった。

いかに空気が豊富に入って来ようと、限られた食料と閉ざされた空間で、何年もの間、生き続けられたこと自体が奇跡だ。その奇跡を起こした者の正体は、いったいなんなのか――彼は、それが見極めたかった……。

 彼は、サーラと同じように手早く作業衣を身につけ、ブルゾンを羽織った。そして手に携帯イレイザーをもつと、ドアに向かった。

外は明るかった。部屋のなかの空気とは段違いな、急冷却されたような冷たい空気がふたりを襲った。その冷気を首筋に感じて、リチャードはぶるっと身を震わせた。

斜め向かいのフィリップの宿舎までは、ほんの四〇歩ほどの距離だった。

《あの子がいないわ》サーラが心語でいった。《何度、起こしても応答がないのよ》

《急ごう》彼もまた心語で答え、小走りになった。

 宿舎のドアを開け、廊下にでると、ふたりはフィリップの部屋に向かった。そしてフィリップの部屋に着くと、リチャードはそのドアを素早く開いた。

「フィリップ、いるのか」

 彼はドア付近のスウィッチに触れて言った。部屋が明るくなった。

部屋には誰もいず、テーブルに紙切れがあるのに気づいた。取り上げて、サーラにも聴こえるように声に出して読んだ。

「パパ、そしてママへ。ぼくはルーピィと一緒にダイビーを探しに行って来ます。心配はしないで。すぐ戻って来るから。フィル」

「ダイビーを探す――って。ダイビーは、どこかへ行ってしまったのかしら……」

 サーラがいった。「確か今朝方には、ルーピィと一緒にいるのを見かけたのよ」

「よし。いまだと、そんなに遠くヘは行っていない。エアカーで探そう」

 リチャードが、エアカーのキーを見せながら言った。「たぶん、チュクチアン・マラミュートたちのところだろう。まずそこから当たってみるしかない」

 ふたりがエアカーで犬舎のある広大な施設に差しかかったとき、施設の前に黒い大きなうねりのようなものがうごめいていた。

「あれはなんなの――」サーラが前方を指さして言った。

「犬だわ。みんな犬舎を出て来ているのよ」

 リチャードが見ると、眼下前方の犬舎からは、数万頭の犬たちが続々と出て来ていた。

彼らは、まるでリチャードが来るのを待ち受けてでもいたかのように顔を南月に向かって上げながら、長い吠え声を上げていた。

その声は、リチャードたちには、無数のサイレンが一斉に鳴ったように聴こえた。確かにその近くの宿舎では、次々に明かりが灯り始め、気の早い者はあちこちの宿舎から飛び出して来ているのが見えた。そして数人ずつがかたまって、リチャードの乗ったエアカーが近寄って来るのを見上げているのだった。

「見てよ。みんなが起き出してしまったわ」とサーラ。

「こうなりゃ仕方がない。みんなに説明して協力してもらうことにしよう」

 リチャードは言って、エアカーの高度を下げ、着地の意思表示をするかのように犬舎の上空を旋回した。いまはもう、犬舎の周りはほとんどの人間が宿舎から出て来ていると思われるほど、黒山の人だかりになっていた。

誰かが指示を出したのだろう。向かい合った宿舎と宿舎の間には、垂直降下するための大きな空間ができていた。リチャードはもう一度旋回した後、その空いた地面に着地した。

「いったい、どうしたというんだね。この騒ぎは――」

 真っ先に駆け寄って来てそう言ったのは、フリーマン准将だった。

「犬たちの吠え方の凄まじさと来たら、まるで空襲警報のようだったじゃないか。こんな夜中に、いったいなにがあったというんだ」

「すみません」リチャードは、まず頭を下げて言った。「わたしの息子のフィリップが、いなくなってしまったんです」

「きみの息子さんがいなくなった。そいつは本当かね。これだけの騒ぎを起こしておいて、まさか後になって、彼はトイレに立っていました――なんていうのはナシだよ」

 フリーマン准将は、半ば冗談めかして言った。

「おそらくそれはないでしょう、フリーマン准将」

リチャードは辛抱強く答えた。彼に悪気はないにしても、この場は温和しく応対しておくにしくはない。おそらく彼にしてみれば、励ましのつもりで吐いたことばなのだろうから……。

「冗談は、さておくとして――リチャード君」フリーマン准将は真顔になって言った。「ことを起こす前に、なぜわたしに一言いってくれなかったんだね」

「夜も大分更けておりますし、そのー、わたしたちだけで解決できるのではないかと思いましたものですから……」

「いかん、いかん。それがいかんのだよ、リチャード君。軍隊はなにごとも報告・連絡・相談、この三つが、いくら時代は変わっても、いっとう肝心なんだ」

 彼はリチャードの肩を叩いて言った。「連絡ひとつを怠って、国ひとつを台なしにしてしまうことだってあるんだからね。組織とは、つまりそういうものなんだよ、リチャード君」

「はあ、肝に銘じておきます、フリーマン准将」

「よし。きみの心配はよくわかった。きみの息子さんの捜索は、わたしの部下に任せたまえ。彼らはこうした戦略に関しては、エキスパート中のエキスパートだ。で、いつきみの息子さんはいなくなったんだね」

「つい、さきほどです。ほんの二時間ほど前のことでしょうか」

「ふむ。それで、なにか心当たりのようなものは――」

「これは――」リチャードは、フィリップの書き残したメモを取り出しながら言った。「フィリップが書き残して行ったものですが、それによると、ダイビーがいなくなってしまったのでルーピィと一緒に探しに行くといっているのです」

「そのダイビーというのは――」

「ダイビーというのは、あー、つまり、犬です。息子がルーピィという犬とペアで可愛がっていた愛犬のうちの一頭なのです」

「ああ、いつも《つがい》でわれわれの捜索を手伝ってくれていた、あの感心な犬たちのことだな」

「ええ、その『感心な』犬たちのことです」リチャードはサーラを見て答えた。「その彼らが別々に行動を起こした――というのです」

「犬たちが別々に行動を起こすのが、そんなに不思議なことなのかね」

「ええ。少なくとも、あの二匹は一緒に行動するのがつねでした」

「ふむ。よくわからんが、そのダイビーとやらがいなくなったのには、それ相当の訳があるというんだな――」

「ええ、そのとおりです」

「わかった。マーベリック大佐、マーベリック大佐はいないか」

 フリーマン准将は振り返って、人込みに向かって大声で叫んだ。どこからか声があって、屈強な兵士が進み出て来て、彼の前に立った。

「マーベリック大佐であります、フリーマン准将」

「マーベリック大佐。すぐに捜索隊を編成しろ。フォアライン中尉の息子さんがルーピィという犬と一緒にいなくなってしまった。子供の足のことだ。そう遠くへは行っておらんだろ。バルーンライトをいくつも上げろ。そして街の隅々まで明るく照らすんだ」


二〇


 ボロズドフがソーラーカーに乗って、例の漁港を見下ろす丘にたどり着いたとき、ほぼ明け方近くになっていた。

真正面よりやや下に見える《マーゴッド》の太陽は、白々とした強い光を幾条にも天空へ放ちながら、水平線のかなたからゆっくりと頭をもたげはじめていた。

その光景は、地球で見るよりも壮大で、空と接する遥か海洋の表面も地球のそれのように丸くなってはいなかった。あくまでも水平で、どこまで視線を移してもそれは直線然としてあるのだった。それだけ、《マーゴッド》の図体がデカイということなのだろう。

 さあ、海の見える丘に着いたぞ。これからこの丘を降りて漁港に向かうが、あの漁港のどこに行けば、ティプラー提督に会えるというのだろう――ボロズトフは眩しそうに眼を細めながら、眼下の漁港跡を見下ろして思った。

 この前、調査したところではそれらしいものはなかった。

ただ朽ち果てた建物の残骸だけが空しく眼の前に横たわっているだけだった。そして、一種港町らしい様相を呈しているとはいっても、周囲の村のそこここに点在する人家の跡らしいところには人の姿はなく、死体さえもが発見されなかったはずだった。

メガロステイト・シティにはあったものが、ここにはその片鱗すらも発見されない。それには、なにか特別な訳でもあるのだろうか。まさか全員が海に出ていて、地震の後の大津波にさらわれ、船体ごと海の底深く沈んでしまったというのでもないだろう。

 仮にそうだとしても、港や海岸にはそれらしい遺留品が流れ着いていなければならない。

そして津波で船体が破壊されてしまった――というのなら、なおさらそれらしいものの破片が浮いて来なければならないのだ。

船は、すべてが金属でできている訳ではない。内部の調度や家具といったものは、地球のそれと同じように、そのほとんどが木材や化学的材料の比較的軽く酸化のしにくい成型品などでできていたはずだ。木材はいずれ水分を含んで沈むとしても、化学的材料のかけらまでが沈んで腐ってしまうことはまず考えられない。

何年を経てようが、それは海岸の砂や岩などとは画然とした違いを見せて、いつまでも漂ようか、そのなかに眠っているはずだ。前回の調査では、砂や土のなかまでは掘り起こしてみなかった。だが、表面的にざっと見たところでは、それらしいものは見いだせなかった……。

 さらに、これはどう考えても論理的にはありそうもないことだが、船自体が造られなかった――ということが《ことば遊び》レベルでは考えてみることもできる。

では、なぜ漁港が存在したのか――それは地球上でいう『船』というものとは、およそ概念の異なった海の乗り物が考えられたからだ。だとすると、それが海の乗り物である限り、漁獲したものはそれで運ぶことができる。あるいはまた、必ずしも物理的な容れ物を必要としない運搬方法が考案されたのかも知れない……。

海洋民族パイオニアとしての、あの地球人たちは、しかし、どこへ行ってしまったのか。果たしてメガロステイト・シティ住民への海産物供給だけで満足していたのだろうか……。

 ボロズドフは漁港の南端に着くと、ソーラーカーを降りた。

この漁港跡は、東側を海にして南北に伸びていた。おそらくその最盛期、というより震災以前には、この漁港付近の市場はさまざまなひとびとの交易で賑わっていたろうことが想像された。

柱や壁、床など、あちこちにできた黒い染み、うす汚れた傷痕やひび割れなどの経年変化が、それら大勢のひとびとの出入りを物語っているのだった。そこは漁港らしく、元気いっぱいのひとたちの会話であふれ、陸揚げされた新鮮な魚介類が所狭しと並べられていたことだろう――ボロズドフは思った。

真正面に見える海は、明るく静かに凪いでいて、彼の足元の崩れかかった岸壁をピタピタと叩いていた。

地震の影響をもっとも強烈に受けたのは、ほんとうは都市部のメガロステイト・シティではなく、津波という別種の恐怖をも味わわねばならなかった、この漁港や漁村のひとたちであったかも知れない……。震央域がどこであったろうと、今回の地震が《マーゴッド》の地表の南北一〇〇〇キロにもおよぶ大規模なものであったことは、ミカオンが提出した《マーゴッド》地震分析報告書で、すでに明らかになっている。

 しかし、人間にとってこそ、その地震の規模はとてつもなく大きく、恐怖の対象そのものであり得たが、この《マーゴッド》にとっては、過去何十億年かの間に何百万回となく起こった、ごくありふれたもののひとつであったろう。

人間は、いや、地球人は、自分の生の長さに比してものごとの大小や長短を決めたがる。ある意味で、それは避けられない運命のようなものだ。尺度は、それが尺度であるかぎり、なんらかのものを基準にしたものでしかない。《マーゴッド》を基準にすれば、人間の存在など取るに足りない。ほんの露ほどの存在なのかも知れないのだ。その露ほどの存在がなにをしようと、あるいはどんな目に遭おうと、それは《マーゴッド》の自然が関知するほどのものではなかったはずだ。

たとえ、知的生命体がいなかったとしても、そこにあるさまざまの種は、地球とはまったく隔たった環境――もっといえば、地球とはまったく無関係の生物系の圏内――で育まれ、進化して来た生物なのだ。自分の価値基準に合わないからといって、それが不自然であり、奇異であると決めつけるのは、地球人の単なる先入見の押し付けでしかない。この《マーゴッド》には、わたしたち地球人の概念操作的思考法では捉え切れない、《なにか》がある。

それをわたしは、自分の身体のなかに感じるのだ――ボロズドフは、かつては市場であったろう、コンクリート製の床の上を靴音も高く歩きながら考え続けた。

 彼には、まだはっきりした概念は生まれていなかった。

つまり、《ことば》でいいあらわすことこそできないが、彼はこの《マーゴッド》になんらかの不可思議さ・奇妙さを認めているのだった。というのも、ことばでいおうとすると、すべてが独立した部分の塊か、それに近い個々別々のものの寄せ集めのようになり、まったく違ったものになってしまう恐れがあるからだった。

 あちこちと気を配って歩き回っているうち、彼は瓦礫と化した施設の残骸のなかに、地下へ通じていそうな穴――ひと一人が通れそうなそれ――が空いているのを見つけた。三〇分ほど苦労して瓦礫を取り除くと、そこは階段の入り口になっていた。前回の調査では、惜しいことに気づくことができなかったものだ。

 その入り口こそは、彼にもお馴染みのアースレベル仕様だったが、降りて行くにしたがって、どこか当時の設計とは違った仕様になっていることに気づいた。

彼の担当していたのは、ハビタブルゾーンの人的環境施設の設計であったから、この漁港のように特殊な保存施設の仕様についてはあまり大きなことはいえなかった。が、それでも彼が不審に思えたのは、ひとが降りるためには不必要なはずの、幅五〇センチほどの溝状になったスロープが階段に合わせた勾配に沿ってつけられている――ということだった。

このスロープは、あるいは陸揚げした魚介類を地下の冷蔵施設かなにかへ滑り落とすために設けられたのかも知れない――そう思い直して、彼はさらに下へ降りて行った。

 外気とは違った冷たい空気が、なにかの腐った臭いとともに間歇的に吹き上がって来るようだった。涼しいのは歓迎だが、この臭いはたまらない。ボロズドフは、口で息をしながら楕円状になった螺旋階段を降りて行った。ハビタブルゾーンの設計仕様でいえば、本来なら設けられてあるべきところに踊り場はなかった。その大きな楕円になった緩いカーブの存在を無視すれば、永遠に真っすぐ地下へ降りて行っているように錯覚するほどだった。

明かりは、もちろんない。頭上の入り口から漏れて来る光だけが頼りだった。靴音だけが、ところどころひび割れたコンクリート壁に当たって跳ね返り、幾人もの足音のように聴こえた。

溝のスロープはときおり、階段の勾配に逆らって高くなっているところがあった。そうして感覚的には、三階分ほどを降りたところで、道が平坦になった。いや、やはり緩やかな勾配はある――彼はそれから五〜六歩を進んでみて思った。スロープは、やはり、なにかを楽に運ぶためのものなのだろう。

やや平坦になったところを進んで行くと、周りは完全に闇のなかに没してしまった。辛うじて後ろの光だけが、自分が前に進んでいることを教えてくれていた。

彼は、リストコムのパイロットランプを点けてみた。これでもないよりはましだった。少なくとも足元は、ぼんやりとだが、うかがい知ることはできた。しばらくして眼が慣れて来ると、たったそれだけの光で、半径一〜二メートルほどの範囲をうっすらと見ることができるようになっていた。

 自分の息遣いと足音と、袖やズボンの擦れ合う音。そして後方から、微かに聞こえて来るさざ波の立てているらしい周期的な音と、耳を通り過ぎる風の流れ――。それだけが、いま彼の耳に届くすべてだった。

鼻腔に漂う臭気は相変わらずだったが、いまではさほど悪臭とは思わなくなって来ていた。あるところまで来ると、そこから先は道が左右に別れていたが、彼は迷わず広いほうの道を採った。

確証やなんらかの根拠があってのことではない。ただ、そっちへ行くほうが楽なような気がしただけだった。勾配は相変わらず一定の角度で続き、溝のスロープは、ある地点まで来ると高く、そしてまた階段と同じ勾配となって続いていた。

 実際には三〇分も経っていなかったのかも知れないが、彼には一時間以上、いや二時間以上もそうしているように思えた。周囲がまったくの闇で、足元がおぼつかなかったから、そう思えたのかも知れない。今度は完全に水平になり、直線になった道を行くと、前方にうっすらとした明かりが灯っているように思えた。

もう楕円のカーブはなかった。彼は、そこへ向かって足早に歩いた。

 近づけば近づくほど、彼はその明かりがなんとも形容のしがたいものに思えた。つまり、電気火花を飛ばして明るくする方式のライトやアーク、炎といった、それらのものとはおよそ異なった光に見えたからだった。その光がひときわ鮮明になったように思えたとき、彼は後方に、なにかが『いる』のを感じた。

彼は携帯イレイザーを構えた。これはスタナー方式のそれとは違って、五メートル離れた敵の記憶を失わせることができた。この光線を浴びたものは、それが人間なら現在から半時間前に溯る記憶を失うのだった。

「そこにいるのは誰だ――」

 彼は立ち止まり、暗闇でたたずんでいるような影に向かって言った。「さっきから、わたしを尾けて来ているのは知っているんだ」

 完全なブラフだったが、そう言ったほうが相手の意表を突けると踏んだのだった。

「さあ、ここへ出て来い。そして顔を見せろ」

 彼は首を振って方向を示し、イレイザーをその黒い影に向けながら怒鳴った。黒い影が無言で少し動いた。彼の腰ほどの高さに、ふたつの光が同時に動くのが見えた。その間隔は、一五センチほど。いや、それより少し足りないくらいの距離だったろう。

なにかの眼のようだった。彼はイレイザーの引き金に人差し指をあてがい、それを引き絞る格好をしてもう一度言った。

「姿を見せろ。さもないとほんとうに撃つぞ」

 そして黒い小さな影が、ゆっくりと明かりのなかにその正体を現したとき、彼は腰が砕け落ちそうになった。

「なんだ。ダイビー、おまえだったのか……」

 彼はそのままの姿勢で、すとんと地面に座り込んだ。極度の緊張が、あまりにも急激にほどけてしまった反動で、立っていることができなくなってしまったのだった。

近寄って来たダイビーが一声吠えると、彼の顔を、口といわず鼻といわず、そこいらじゅうをなめはじめた。彼はダイビーの首筋を撫で、頭を撫で、ほうぼうにお返しをしてやりながら言った。

「ずっと、わたしの後を尾けて来ていたのかい、ダイビー」

 ダイビーが、それに答えるかのようにかん高く吠えた。生憎なことに、ボロズドフには心語はできない。少なくとも、フィリップとダイビーとの間のようにはできなかった。

だが、いまはダイビーのほうがボロズドフの言っていることをわかっているような気がした。

彼はダイビーを立たせ、イレイザーを拾い上げた。

「よし。そうとなれば心強い。これから一緒にティプラー提督に会いに行こう」

《ティプラ、海、いる》

 あの声が、またボロズドフの脳裏に響いた。

彼は周りを振り返ってみたが、もとより誰かがいるはずもなかった。その声は、耳を通じて聴こえて来た人間の音声などではなく、彼の脳に直接語りかけて来た『神経の合成語』とでもいうべきものだったのだから……。

「教えてくれ、声の主よ。この地下道は、どこまで続いているんだ。わたしはいったい、どこまで行けばいいんだ――」

 彼は、《音声》で訊ねた。ひととの会話を音声によって行っている彼にとっては、心語は、いわば対話としての実感のない、独り芝居のように思えたからだった。

《もう、残り、ない。おまえ、会う、ティプラ》

「わかった。もうすぐティプラー提督に会えるというんだな。だったら、早く会わせてくれ」

《おまえ、ボロフ、海、入る。海、できる、息。おまえ、死ぬ、ない》

「うむ。海に入ってもわたしは死なない――そういうんだな。え、そうだろ。なら、こんなところをいつまでもうろうろさせていないで、早くわたしを、その『死なない海』とやらに連れてってくれ」

《ダイビ、行く。おまえ、ボロフ、行く。会う、おまえ、ティプラ》

「わかった。ダイビーの後を尾いて行け――というんだ、そうなんだろ」

 ダイビーが先に立って、彼を振り仰ぎながら吠えた。ひょっとしてダイビーは、なにものかに操られているのかも知れない――彼は思った。

この声の主が喋っているときの彼の表情は、いつものダイビーのそれではない。いつものダイビーなら、わたしを見ればさきほどのようにすぐ甘えてくるはずだ。だが、先に立ってわたしを呼ぶその姿は、まるでなにものかに遣わされた使者かのように泰然としているではないか。彼はダイビーの後を歩きながら独りごちていた。

 ダイビーが歩くのを止め、こちらを振り向いた。ボロズドフが、彼に近づこうとした。ちらっと眼にしただけだったが、その前方の地面の上を一本の光がよぎったような気がした。つぎの瞬間には、前方の地面がさらに向こうへ押しやられ、眼前にはぽっかりと四角い穴が開いた。

 そこからは、さきほどから地下道を照らすようになった光源のわからない、白い奇妙な光があふれ出ていた。「なんなんだ、これはいったい――」彼は唸った。

《入り口、海、入る》

 彼は及び腰になりながら、その四角い穴を覗いてみた。そこには満々と水が湛えられ、なぜか明るい海底のようなものが揺らぎながら透けて見えていた。そこには、ただ穴が開いているというだけで、掴まるものもなければ階段の類いもなかった。

ここは海面下だというのに、なぜ海の水が入って来ないのか――彼にはそれが不思議だった。というのも、彼は地下へ潜ったのであって、地上へ出たわけではないからだった。

彼の感覚だと、海面下一五メートルから二〇メートルは来ているはずだった。それなのに海面は、まるでボロズドフたちが地上にあるかのように、ゆらゆらと眼下にたゆたっている……。

《入り口、海、入る》

 あの声が、また彼の脳裏に響いた。

「こんな中へ入れったって、できっこないよ」

彼は、前に言ったことも忘れて言った。「それこそ三分も経たないうちに窒息して死んじまう」

《海、できる、息。おまえ、死ぬ、ない》声の主が言った。

「でも、この子はどうなるんだ」ボロズドフはダイビーの前にしゃがみ込み、彼を抱き寄せて言った。

《ダイビ、死ぬ、ない。ボロフ、おまえ、同じ》

「わたしもこのダイビーも、海に入ったって死なない。これがさっき言っていた『死なない海』というやつなのか――」

《ボロフ、ダイビー、ふたり、死ぬ、ない》

 彼はダイビーを抱き上げ、まず右足を海水に浸けてみた。すると、足が水に浸かないうちに水のほうがへこみ、彼を濡らさなかった。そしてさらに彼を驚かせたことは、足の下にはちゃんと地面のようなものを踏み締めているという実感があるのだった。

彼は右足を水に入れると、というより、水のあったところに足を入れると、もう片方を同じようにした。どちらにしても、彼は濡れることはなかったし、沈むこともなかった。それどころか、水のなかで垂直に立つこともできた。

もちろん厳密にいえば、それは水のなかではなかったが、首まで沈んでみれば水のなかというよりなかった。彼は、自分の身体の周りが空気の層のようなもので覆われているのを見た。水中にあって、水中にいるのではない、そんな不思議な感覚が、彼を夢中にした。

「こいつはたまげたぞ。水のなかに入っているのに、濡れもしなければ溺れもしない。なんてこった、まさに奇跡としか言いようがない――」

 いったい全体、この《マーゴッド》の奇跡というやつは、どこまで凄い技術を披露してくれるのだろう。

これじゃ地球の科学技術なんて、まるで子供だましの手品みたいじゃないか――彼は感動を抑えきれず、まるで初めて観光に出た山だしのお上りさんのように辺りをきょろきょろと見回し、あれこれと試してみた。彼の周囲は、すべて海水が取り囲んでいたが、そのどこへ手や口をもって行ったとしても濡れたり、息ができなくなったりはしないのだった。

 それともこれは、わたしがベッドで見ている、単なる夢にすぎないのか――あまりの非現実的なできごとに、彼は自分の感性を疑い始めた。しかし、これはどうみても現実だ。

彼は、海のなかに沈んで行く、というより、運ばれて行く自分とダイビーの姿を見ながら思った。

 あれほど水に潜って遊ぶのが好きだったおまえも、これでは面子丸つぶれ――ってとこだな。泳ぎの達者なところを見せることができなくて、さぞかし残念だろう……。


二一


 エアカーで上空を飛び回っていた兵士の『フィリップ発見』の報を聞いて、リチャードとサーラが顔を見合わせた。

彼はメガロステイト・シティの中心部へ行こうとしていた――というのだ。それから五分ほどして、フィリップの乗せられたエアカーが上空を旋回した後、リチャードたちのいる宿舎前の広場にゆっくりと降下した。広場には、フリーマン准将ほか、数十人の兵士や宿舎から出て来た隊員たちも大勢待機していた。

 フィリップが兵士と一緒にエアカーから降り立ち、走り寄って来たリチャードに抱きかかえられた。彼はくしゃくしゃの泣き顔になりながらリチャードに言った。

「父さん、ごめんなさい。ダイビーを見つけたら、すぐに帰るつもりだったんだ。まさかこんなに大騒ぎになるなんて、思ってもいなかったんだよ」

「フィリップ!」

サーラが息子の名を呼んで、フィリップに駆け寄った。リチャードがフィリップを下に降ろすと、フィリップはサーラの腕に飛び込んで行った。

「母さん、心配かけてごめんなさい……」

 広場は、浮遊している幾本ものバルーンライトで真昼のようになっており、つぎつぎとエアカーが舞い戻って来ていた。

降下しようとするエアカーやホバリング中のエアカーが起こす風のせいで、広場に集まったひとたちの髪の毛や衣服は逆立ち、辺りを覆うホバリング音が邪魔をして、よほど大声を出さなければ話が通じないほどだった。

「いいのよ、あたしは。あなたが無事でいてくれさえすればね」

サーラが涙に濡れた瞼を拭い、怒鳴るような大声を出して言った。ルーピィが彼女に頭を撫でられ、尾を振っている。

「なにはともあれ、無事でよかった」

フリーマン准将がフィリップ母子を見やりながら、リチャードの肩を叩いて言った。「とりあえずは、これで『フィリップ失踪』騒ぎも一件落着だな」

「ええ。ありがとうございます」リチャードが、そのことばを受けて言った。「しかし、肝心のダイビーがどこにいるのか――まだ見つかっておりません」

「なあに心配は要らん。犬だってたまには息抜きもする。どこかその辺の穴蔵に潜ってモグラと追っかけっこでもしているんだろう」

フリーマン准将は、こともなげに応じた。「ま、そのうち、そんな遊びにも飽きてふらりと帰ってくるさ……」

 リチャードは、フリーマンの軽口には軽いほほ笑みを返しただけで答えなかった。

誰かが自分を見つめているのを感じて、周りを見回した。

すると、そこにマデリーンの顔があり、その眼がこちらをうかがっていた。彼女はボロズドフのことがあったので、いても立ってもいられなくなって様子を見に出て来ていたのだ。

リチャードと視線が合った途端、彼女の眼の動きは、それ以上の見つめ合いを拒否するような、いつもとは様子の違うものになった。

「マデリーン――」

リチャードは、きびすを返して反対方向に行こうとした彼女の後ろ姿に向かって叫んだ。「マデリーン。待ってくれ。きみはなにか知ってることがあるんだろう――」

「知らないわ。あたしはなにも知らない――」

リチャードのほうを振り向いて後じさりしながら、マデリーンが言った。が、その顔にはおどおどした不安な表情があった。見ようによっては、悪さを発見された子供が親に注意されて、泣き出す前のそれのようだった。

 リチャードは、ようやく彼女にたどり着いて言った。

「いや、きみはなにかを知っている。知っていて、それをわたしたちに隠しているんだ」

 彼がマデリーンの腕をぐいっとつかむと、彼女の顔が見る見るうちに皺くちゃになった。

「《あれ》が彼を呼び出したのよ」

「《あれ》というのは――」

「《あれ》というのは――」

マデリーンは、くぐもった声になって続けた。「こそこそと隠れて姿こそ見せないけれど、あたしたちの脳のなかに勝手に入り込んで、なにかを探ろうとしてる《連中》のことよ」

「そういえば、いつだったか、彼がそんなふうなことを言っていたことがある……」

リチャードは当時のことを憶い出しながら、呟くような声で言った。その声は、しかし、小さすぎてマデリーンの耳には届かなかった。彼女はリチャードの態度に不安なものを感じて、すぐに付け加えた。

「このことはフィリップも知っているし、他の一部のひとも認めていたわ……」

「そうか、いまわかったぞ。あのときのあれは――」

いつの間にか二人の背後に立って、そのやり取りを聞いていたフリーマン准将が、ひとり納得したように手を打って言った。

「きっと、そのわけのわからない《連中》の仕業だったのだ!」

「なにか思い当たることでもあるのですか、准将」

リチャードが訊ねた。

「すまん。大したことはあるまいと思って、皆には発表しないでいたことがあった。わたしの勝手な判断だったが――」

フリーマン准将は、そこでいったんことばを切って、嘆息するように言った。「いま思えば、それがやつに付け入るすきを与えたのかも知れない……」

「それというのは、なんなのですか――」

マデリーンが訊ねた。ティプラーの件は、まだ言い出すまいと心に決めていた。それをいえば笑われるだけだ。ことが明確になるまで黙って待つことにしよう。

「うむ。実は、あのゴースト・ステーションと化した《エッグ》内部のことだ。あれには、なんら生きものらしいものは存在しなかった――と発表したのだが……」

「なにか別の生物でも――」マデリーンの想いを代弁してサーラが先回りして訊ねた。

「いや、生物そのものはいなかった――」

フリーマン准将は、そこで唾液を飲み込み、喉の渇きを潤して続けた。

「生き物こそいなかったが、ひとつだけ不審なことがあった。《エッグ》を調べた調査チームの報告によると、あれ、つまり《エッグ》には《マーゴッド》と同じ回転が与えられている――というんだ。そんなことがあり得ると思うかね」

「なるほど――だから、ベジタブルファームや苗木牧場なんかの植物がうまく生育していなかったのね!」

今度はサーラのほうが手を叩き、合点のいった声で言った。

「地球のバイオスフィア的仕様で構成されていた《エッグ》ステーションの生態系は、《マーゴッド》の自転に変えられたことで磁場が変化し、地球生物としてのバランスを崩してしまったんだわ。あれは、なにも酸素供給装置の変調のせいだけではなかったのよ」

「そいつは、つまり――」

サーラのことばを聞いて、ある啓示を受けたリチャードが、焦りを帯びた声で言った。周囲にいる全員が、なにかを言いかけようとするリチャードのほうを見やった。

「少なくとも、宇宙ステーション内の人工重力を任意に作り出せるくらいの、言ってみれば、地球人なみの頭脳をもつ『知的生物』がこの星にいた――ということになる」

「それがほんとうだとすれば、ボロズドフを呼び出したのも――」

フリーマン准将が知たり顔に言った。

「その知的生物、いや《マーゴッド》星人が、われわれ地球人に向けて仕掛けて来た『罠』の一種だと考えて間違いない……。やつらは、つねにわれわれに姿を見せないようにして、どこかからわれわれを監視しているんだ」

「そうよ」マデリーンが語気荒くいった。「彼は、それを承知でひとりで出かけたのよ」

「正義感に燃え、つねにひとりで解決してきた彼のことだ。それも考えられないことではない」

リチャードが、ますます険しく悔しそうな顔付きになって来たマデリーンの逆鱗に触れないようにして訊ねた。「それで、彼はどこへ行くといってた――」

「漁港へ。わたしたちが最初に調査した、あの漁港へ行くといってたわ……」

マデリーンが、リチャードを見上げて言った。

「ディック、お願い。あのひとを助けてあげて――」

「ああ。わかってるさ。あんなにいいやつは他にいない」

リチャードはサーラを見やりながら言った。こんな気持ちのときは、女同士のほうが落ち着くかも知れないと思ったからだった。「彼は、このわたしだけではなく、サーラやフィルにとっても、なくてはならない存在なんだ」

 夫の思いを察知したサーラが、マデリーンの肩を抱き寄せて言った。「大丈夫よ、マデリーン。彼は、必ず帰って来るわ」

 フリーマン准将が、リストコムに向かってマーベリック大佐に指示を出している。

「――いいな。《連中》は、まだ正体は現しておらんし、こちらのほうでもまだどんなものともわかってはおらん。だが、《連中》は少なくともわれわれレベルか、われわれ以上の知能を有している可能性がある。人間の格好をしているかも知れんし、あるいは子供のころ、ビジ・プレート・ドラマで観た巨大な爬虫類の格好をしている可能性もある。いずれにせよ、あなどってはならん。いいか、ただちにあらゆる場合に備えて態勢を整えておくんだ」

「わかった! わかったよ、父さん――」

 フリーマン准将の、それこそビジ・プレート・ドラマのような命令をよそに、フィリップが風呂場を飛び出たアルキメデスのように大声を張り上げて言った。

「ダイビーは、ボロフと一緒に行ったんだ。ボロフと一緒に、あの港に行ったんだよ。だから、こんなに探してもどこにも見つからなかったんだ」

「わたしもそう思う――」

 しわがれた老人の声が、リチャードの耳元でした。

「先生」リチャードが後ろを振り返り、驚いて言った。「いつここに――」

「いまのところ、確証的なことは言えんが――」

 ワインズベルクは、自分を取り囲むようにして周りに立ったリチャードやサーラ、マデリーンたちの顔それぞれを見確かめるようにして続けた。

「いまも論議されているように、この《マーゴッド》にはなんらかの形をした知的生物の存在があることだけは疑いはない。それを諸君のように《あれ》と呼ぼうが、《連中》と呼ぼうが、名称はどうでも構わんが、問題は、それが人間の脳、つまり神経伝達物質の塊であるわれわれの脳細胞のなかへ、自分たちのメッセージを直接送り届ける能力をもっている――ということだ……」

 周りに沈黙が訪れ、彼のことばに聞き耳を立てようとするひとたちの人垣ができた。

「わたしも、そのメッセージの類いを聞いたことがある」

リチャードの知らない兵士のひとりが、前に出て来て言った。

「なに者だかは知らないが、『出て行け、出て行け』と頭のなかで命じられるような感じが何日も続いたんだ。そんなあるとき、『うるさい。貴様こそ出て行け』と叫んだら、それっきりなにも出なくなってしまったんだがね……」

 人垣を押しのけるようにして、フリーマン准将が戻って来ていた。

ワインズベルクは、彼が自分の前に来るのを待って続けた。

「最初の時点では、確かに彼の言うとおりだった。彼らは引っ込み思案で、恐る恐るわれわれを踏査している感じだった。そして踏査されている者が強く拒絶すると、入って来なくなった――。

 しかし、その後さまざまのひとの話をわたしなりに分析してみたところ、彼らはこれまでのような前頭前野からの侵入ではなく、扁桃体からアプローチを試みていることが判った。

扁桃体からだと、わたしたちのニューロンが《快》で受け止め、拒絶反応を起こさなくなる。彼らは、何度かわれわれの脳への侵入を試みるうち、前頭前野からのダイレクトな侵入では反発されることを学んだんだ。そして拒絶反応を起こされずにメッセージを発信できる方法を発見したに違いない。

これは、わたしがデュポでの実験で得ていた結果と、ある意味では同じものだが、彼らは、ここ数日間ですでにそうした方法を誰に教わることもなく開発し、われわれ人間に応用できるまでになっている。こうしたことは、彼らが驚異的な調査分析能力をもっているばかりか、人間以上の能力をもったバイオ脳人間、つまりフィクサロイドを作り出すのに、そう遠くない距離に位置していることを意味するのだ。現に彼らは、人間以外の哺乳類の行動様式を探査し、それをあやつる能力を発揮し始めている……」

「というと、ダイビーはいまごろ――」

フィリップが言った。「その《彼ら》によって、どこかへつれ去られているってこと?」

「残念だが、フィリップ、いまのところ、わたしにはこれ以上のこはなにも判っておらんのだ……」

 ふたりがやり取りをしているところへ、フリーマン准将のリストコムが鳴った。

「わたしだ」フリーマン准将がリストコムに向かって言った。

「フリーマン准将。ただいま、救援隊の準備が完了しました」

マーベリック大佐の声だった。

「そうか――準備ができたか。では、わたしからの命令があるまでそこに待機せよ」

フリーマン准将が、リチャードを振り返って言った。

「リチャード君、こうなればいちかばちかだ。なにごともやってみんことには、いい結果は出やせん。ここまで来て、われわれの同胞がただの一人たりとも欠けることがあってはならん。新しい《マーゴッド》を築くためにも、そして後からやって来るわれらが地球の同胞たちのためにも、全力を上げて敵に向かおうではないか――」

 フリーマン准将が興奮した面持ちのまま、なおも続けようとしたそのとき、群衆の中から赤い制服姿の男が素早く進み出て、フリーマン准将の前に立った。

「セーガン補佐官……」フリーマン准将が、呆気に取られた格好で言った。

「フリーマン准将――」セーガンは穏やかな表情で言った。「このわたしも、その救援隊の一員として加わることをお許しいただきたいのですが……」

「それは一向に構わんが、しかし――」

こんなときにもシニカルな物言いを忘れないフリーマン准将の脳が、リチャードへの思いをちらと掠めさせて言った。「きみには、メガロステイト・シティでの新都市建設という、重大な任務があるのではなかったかね」

「現場には、わたしの代わりをやってくれる人間が幾人もおります」彼は、いつもの自分のペースになり、穏やかな笑みを浮かべて言った。「このわたしが同行させていただく理由についていわせていただくと、あの漁港にある諸施設の設計は――それを考えたこのわたしの頭のなかにすべて入っているということです。第二の理由については……」

「ああ、理由は、それだけで十分。どうしようと構わん。きみの好きにしてくれたまえ」

セーガンが後を続けようとしたとき、フリーマン准将は早々と手を振って、その口上を切り上げさせて言った。

「ありがどうございます。ご快諾いただいて感謝します、フリーマン准将」

セーガンが、半ばおどけたように身をかがめて感謝の辞を述べた。

 最近では、セーガンは様子が変わって来ていた。そのことはリチャードも、うすうす気づいていたが、おそらくセーガンではない《本来の自分自身》をじょじょに前面に押し出して来ているのだろう。少しずつの変化は、短期的にはよほどの注意力がない限り気づけるものではない。

しかも、人間は――いや人間に限らず、地球に生まれた生物のほとんどは――最初に《刻印づけ》された概念で、ものごとを処理しようとする。セーガンがセーガンという人物でなくなることは、彼を知っている人間にとって彼をすでに知っているという点で、もはや考えられないことになってしまうのだ。

 考えずにものごとを処理したり、対処したりできるというのは、その方法が『概念優位的』であることを意味する。

とくにこの惑星へ来てからの数週間というもの、リチャードは地球から携えて来たさまざまのものが、内側から徐々に切り崩されていく気がしていた。たぶん、このセーガンなら、その辺りの切り替えは速く、有事に適切に対処していくことができるのだろう。

むしろ、どんなときにも気持ちを乱さないこんな男のほうが、実際の問題解決のためにはいいのだ。過去にこだわるのでなく、その方法を現時点にあるものの形から有機的につなぎ合わせて新しいものを生み出していく――そんな力が、これからの人類には必要とされるようになっていくだろう……。

 そんなあれやこれやを、ぼんやりと考えていたリチャードの心に、セーガンの心語が割り込んで来て言った。

《他人をあまり買いかぶり過ぎるのも、あとで自分自身を傷つけることになりますよ、フォアライン中尉……》

 それがセーガンのものだと気づいて、リチャードは慌てて言った。

《いや、それはないでしょう。わたしはあなたを信頼していますよ、セーガン補佐官》

《それはともかく、わたしたちは、この難局を乗り越えていかねばなりません。たとえ、それが見たこともない爬虫類の化け物やイソギンチャクの巨大変種であったとしてもね……》

《ひとの考えていることが読めるあなたに隠しごとはできないので、この際、正直に言わせてもらいますが、あなたというひとは、ほんとは優しいひとなのですね。これまで、その優しさから出たユーモアを悪意から出たものと誤解していたようです。角度を少し変えさえすれば、いままで知ることができなかったあなたが見えて来るのですね……》

《もう、その話はよしましょう――》

彼は照れ臭そうに、はにかんだ顔で応じた。《これが普通の音声による会話だったとしたら、恥ずかしくて聞いちゃいられませんよ。あなただってそうでしょう》

《ええ。確かにこういうことは、心語だから腹蔵なく話せるのかも知れません……》


二二


 そこは、水のなかにできた大広間か謁見室とでもいった趣のしつらいがあり、歩くと、足の下には柔らかで、滑らかな絨毯のような感触があった。

 数尋はあるだろうと思われる天井らしきところからは、太陽光が揺らめきながら降り注いでいるのがわかった。この広さだと、数千人は楽に入れるだろう――ボロズドフは、周りの氷ならぬ水彫刻のようなさまざまの造形物を見渡しながら思った。いずれも見たこともない造形物だったが、なぜか嫌いな感じがしなかった。

そうして二分も歩いた頃、ボロズドフは自分の前方にティプラー提督らしき人物がこちらを向いて立っているのが見えた。

その姿は、彼がデュポの会議室や執務室の壁のオプトグラフなどで記憶しているよりずっと老け、髪の毛もほとんど後退していたが、あのティプラー提督、《エッグ》に乗り込んで行った船長であることは間違いなかった。ティプラーは、ボロズドフの立っているほんの数メートル先の、少し膨らんだ形になった空間にいて、波かなにかの動きに合わせて揺れるように立っていた。

「ティプラー提督。あなたは、本当にあなたなのですか」

ボロズドフは、自分でもおかしな質問をしているな――と思いながら訊ねた。

「ああ、そうだ。よく来てくれた――」彼は一歩を進み出て、ボロズドフの手を握り締めながら言った。「もう地球からは、誰も来てくれないのかと思っていたよ……」

 ボロズドフは握手を返し、手の動作でダイビーに『座れ』を命じてから言った。自分たちの身体もどこか波に揺られているようだ。

「やはり、わたしたちを待ってくれていたのですか」

「ああ。待っていた。待って、待って、待ち続けた……」

「いったい、あの地震はいつ起こったのですか――」ボロズドフは、かねてから疑問に思っていたことを真っ先に口に出した。

「光速に近いスピードでこの星にやって来たきみたちの時間感覚でいうと、十数年前のことになる……」

「では、その十数年間をどう過ごしておられたのです」

ボロズドフは、メガロステイト・シティの地下から出て来た、あの肉片のついた遺体の秘密を聞こうとして言った。

「わたしたちは、メガロステイト・シティのアースレベルゾーンで発見された死体だけが妙に新しかったのに疑問をもっているのです。あなたがたメガロステイト・シティの市民は、ひょっとしてつい最近まで生きていたのではありませんか――」

「そうだ。わたしたちは、つい最近まで生きていた……」

 その答えは、ボロズドフが半ば予想し、あってほしくないと期待していたものだった。とはいえ、やはり現実に耳にしてみるとショックは大きかった。彼は動揺を抑えながら、その前提から生じるさらなる疑問への追求を試みた。

「では、どうやって生きていらっしゃったのでしょう。わたしには、幽閉されたアースレベルゾーンでの生活が、そんなに長くもったとは思えないのですが……」

「いまのきみたちにとって、もっとも納得の行く答は、このわたしがこうして生きていることを指摘するだけで充分なのではないだろうか……」

ティプラー提督は、ゆっくりと考えを巡らすような、やや間延びした話し方で言った。

「でも、それでは、結果論的な答えにしか過ぎません。わたしは、なぜあなた方が生き延びてこられたかを知りたいのです」

「うむ。新しく《マーゴッド》に来たきみたちには、にわかに信じられないことかも知れんが、この星には、われわれよりずっと高度に進化した生物がいた――ということだ」

 この答えもまた、ボロズドフにとっては、半ば予想し、あってほしくないと期待したものに過ぎなかった。

だが、その予想が当たれば当たるほど、彼の真の希望や期待は別の方向へ追いやられて行く。ボロズドフは、深い底無し沼に足を踏み入れるような恐怖感を覚えながら訊いた。

「その高度に進化した生物というのは――」

ここで喉が引きつるような感じがし、彼は咳払いをひとつした。「いったい、どんな格好をしているのですか」

「地球の科学者レベルの認識では理解できないか、もしくは地球上の生態系では類推できない姿をしている――といったほうがいいかも知れない」

ティプラーはゆっくりとした抑揚で言った。「ぺつにこんな風に言ったからといって、勿体ぶろうという気持ちがあるわけのものでもないのだが……」

 ボロズドフは、その妙ないい回しに黙して聞いているよりほかなかった。ここは素直に答えが返ってくるのを待つしかない。彼は重要なことを知っているに違いないのだから――。

「では、質問を変えましょう――」

ボロズドフはそれっきり答えが返って来なくなったので、待ちきれなくなって切り出した。

「ここは、いったいどこなのですか。一見したところ、水のなかのような気がするのですが、わたしやあなたはどうして溺れたり、息ができなくなったりしないのです」

「それは、いまいった生物が、わたしたちの身体を守ってくれているからだ」

「その生物は、海の生物なのですか」

「いや、海の生物とも陸の生物ともいえる」

「では、地球でいう両生類の類いなのですね」

「いや、両生類の類いでもない――彼らは、こうして海の水をその意志で塞ぎ止め、そのなかに空気を発生させることもできるし、空中へ舞い上がり、鳥のように飛翔することもできる……」

「では、彼らの実体はなんなのです――」

辛抱強いボロズドフの、攻める角度を変えた二度めの質問だった。

「《意識》だ」ティプラーが短く、ぽつりと答えた。

「意識、ですって――」

「地球のことばやイメージで喩えるなら――そうなる。彼らは、まさしく《意識》なのだ」

 ボロズドフは、二の句が継げなかった。思わず笑い出したいのを堪えた。ここで笑えば、元も子もなくなる可能性があった。それこそ一瞬にして、海の底に置き去りにされるかも知れないのだ。

「おっしゃることの意味が、よくわからないのですが――」

ボロズドフは、慎重にことばを選んで訊ねた。「《意識》が、この星に生息する生物の種だとおっしゃりたいのでしょうか」

「ああ。そうだ」

「しかし、それが生物の種であり、個体であるかぎり、どこかに肉体をもつはずです。肉体をもたない、あるいは物質的な生命構造をもたない《意識》の存在なんて考えられるのでしょうか」

「それが地球人の認識の限界だ――彼らにも『物質的な生命構造』というものはある」

「では、《意識》に、いったいどんな生命構造があるというのです」

「それは、分子生物学の素養のないわたしには、はっきりと説明することはできない。だが、分子生物学者であったとしても、それが地球の科学の知識をもとにしたものであるかぎり、きちんと説明することはできないだろう。彼らは、わたし個人の素人発想でいけば、あるいはウィルスのような遺伝形質をもったRNA生物の一種なのかも知れない……。いずれにしても、彼らがわたしたち地球人の心理学者などが、《人間の意識》と呼んでいるものと似た存在であることだけは確かだ」

 それを聞いてボロズドフは、ティプラーは気が狂っているのではないかと疑った。《エッグ》のように大きな航宙母船の船長ともなると、あらゆる科学に精通している必要がある。そうでなければ、宇宙で起こる、あらゆる危機に対処することはできないのだ。

しかし、その船長にして、このような発言をするのである。

確かに人間に意識というものは存在する。しかし、それは肉体と切り離しては考えられないものだ。肉体というのが不適切ないい方になるのなら、脳という細胞の塊といい換えてもいい。

その脳は、当然ながら、さまざまの化学物質から成り立っている。ひとをヒトとしてあらしめている三〇億のDNAと二四本の染色体からなるヒトゲノム。それがデオキシリボ核酸という化学物質からなっていることは知られていても、電子顕微鏡などで実際に眼にした者はいない。

それとまったく同じに《マーゴッド》の知的生命体は、眼にこそ見えないが、まさに何十億ものRNAをもった《見えない》生物として、この星に君臨して来たのだろうか……。

「また、こうも言っていい――」

ティプラーが言った。「彼らは、細胞というものを構成することがないので、われわれの眼に見える形で遺伝形質を発現していない。だが、他の生物の細胞中に侵入し、自己のRNAからDNAを合成することができる。つまり、宿主DNAのなかで組み込まれたプロウィルスとなって宿主とともに増殖する――と」

 ボロズドフは、科学者の端くれとして、そうした一般常識的な科学知識には決して疎いほうではなかった。

が、それが《意識》としての自己生成能力を発揮できる、いわば『意志』としての力を他者に及ぼすことのできる不可視的、いや、非物理的な存在を、どう定義してよいかわからなかった。

これではまさに、二一世紀の終わりを境に葬り去られてしまった、あの『宗教』でいう《魂》というのと同じ概念ではないのか。

宗教は、科学的知見とは無関係な、いわば隔絶されたところで、人間の心を「純粋」に培養して来た。ひとの心を蝕んだ、そうした過去の宗教と同じように《マーゴッド》のウィルスたち、いや、RNA生物たちは、地球からやって来た哺乳類の脳を蝕んでいる――というのだろうか……。

 もっとも月並みな、こうした疑問がボロズドフの脳裏につぎつぎと起こったとき、彼はティプラーのそれではない、とても太く低い声を聞いた気がした。

《ボロズドフよ、われわれは、そなたたちのような姿をもたない存在なのだ》

 ボロズドフは、はっとしてダイビーを見た。

ダイビーは、座ったままの姿勢で彼を見上げ、いつもとは違った眼で彼を見つめていた。いま、《マーゴッド》の知的生命体は、このダイビーの脳を借りて発信しているのか――ボロズドフは思った。

《われわれは、そなたたちの眼には映らない。そして、われわれにはそなたたちのような眼もなければ足もない。したがって、どのような空間にも入って行くことができる。いま、われわれはそなたの脳に刺激を与えて、そなたの言語で発信している……。

 われわれには、そなたたちのような科学もなければ学問もない。すべてがすべて、われわれはそのなかに入ることで、その《もの》を直接に知ることができる。われわれには、科学も要らなければ知識も必要ではない。触れることで、分け入ることで、そのものを知覚することができるのだ。

 われわれは、そなたたちが《マーゴッド》と呼ぶこの星にやって来たとき、このティプラーが言うように新しい『宿主』を見つけたと思った。そして、その主はわれわれの知らない、あらゆる種類の知識をもっていることがわかった。この星以外に生命体の住む惑星があることも、太陽系というものがこの天体のなかにいくつ存在するか――という、われわれなら一瞬にしてわかることが、そなたたちにおいては、かなり迂遠な計算方法を使って割り出さなければならないことも知った。

だが、われわれにはそうした知識や公式の類いは要らない。

それがあると知ったところで、われわれの生命の維持には何の役にも立たないからだ。われわれには、われわれの在り方がある。

そなたたちが物理学と呼ぶものも、その物理性を超えて移動したり、混じり合ったりすることができるわれわれには、なんの知識にもならないのだ》

「物理性を超えて物質と混じり合う――ですか」

 ボロズドフは思わず言っていた。

《ふうむ。分からぬかも知れぬ。そう。そなたたちの知識で、電荷をもたない『ニュートリノ』という素粒子があろう。それとまったく同じように、われわれはどの粒子とも衝突することなく、この星を素通りすることができる。われわれは、ただそうしたいと思うときにそうするだけだ。

そこには、そなたたちの言っているような障害はないし、誰の妨害も受けない。誰に妨げられることなく、自由にそれをすることができるのだ。そなたたちは、その肉体という物質性をもつがゆえに栄養摂取という手段を必要とし、その肉体という物理性があるがゆえに、空間を移動するとき機械や道具の類いを必要とする。

つまり行動に対して実に依存的である。しかし、われわれはそういうものは一切必要としない。どこへでも、そしてそれがどんなものであっても、好きなように操ることができる。

そなたたちは、ものを運ぶために容れ物を必要とし、その容れ物を運ぶために金というものを必要とした。

金は、それが誕生してから地球年で三〇〇〇年も経つ頃には、ものを運び、手に入れるための手段となった。そしていまでは、生命を維持するという、もっとも基本的な生物の在り方をそれで操るという本末転倒なことをしている……。

 われわれは、われわれの生命を維持するために概念に依存する必要はない。われわれは自らが生きてあるという目的のために、そうした概念的なものを蓄積したり、その蓄積されたものを利用したりして、他のものを入手するという婉曲な方法を必要としない。

すべては、われわれにあって入手しうるものであり、近づきうるものなのだ。未知は、それに触れることによってすべてを知ることができる。われわれに学問というものが存在しないのは、あるいは科学というものが存在しないのは、実にすべてを自らの身体を使って直接に知ることができるからだ。その気になれば、そなたたちより深い知識を得ることができ、宇宙に関する知識もまたそなたたちよりも的確に知ることができるだろう――》

 ボロズドフはその演説を聞いていて、どこか『宗教』っぽいものを感じないではいられなかった。だが、現実がそのとおりだったので、反論することはできなかった。その代わり、彼はもっと次元の低い、答えやすいものに限定して質問を出すことにした。

「で、あなたがたは、わたしたち地球人をどうしようというのですか。その魔術的な力を用いて、わたしたちを宇宙の外へ放り出そうというのですか――」

《われわれは、初めて、そなたたち地球人に出遇ったとき、その宿主としての資質に疑いをもった。だが、われわれは眼というものを持っていないから、そなたたちのように視覚的に見て判断することはできない。すべてそのなかに入って調べなければ、そのものの実体を見極めることはできないのだ。

そこで、われわれはこのティプラーたちが港にやって来たとき、それらすべての個体のなかを調べた。

その結果、われわれのそれと――ある意味では――同等のDNAに組み替えることができるのを発見した。しかし、彼ら、つまり、そなたたちはあまりにも概念的にものを捉えすぎており、すべてを範疇で括って処理しようとした。

そのやり方はまさに、ひとつのものごとを無理やりに分割し、バラバラのものにしてつなぎ合わせるという、まったくもって不可解きわまる方法だった。ものごとをバラバラに分解することによって得られるのは、個々別々のものであって、その本体ではない。それにそなたたちは気づいていないようだった……》

「それで……」ボロズドフは言った。

 この相槌に意味があるかどうかは、二の次だった。いずれにしても、こちらの心域言語が読まれている以上、なにを隠そうとしても無駄に終わることが眼に見えていた。それなら、適当に相槌を打って先を促すほかない……。

《だから、われわれは、そなたたちの科学がいうところの『哺乳類』としての特徴を残そうとした。《マーゴッド》産の動植物は、そなたたちのような食性に合わないものが多い。それで、この地の特性に合った食性をその脳のなかにセットしようということになった》

「え、わたしたち地球人の特性を、あなたがたが勝手に作り替えようとしたのですか」

《われわれが宿主として求めるのは、《マーゴッド》の土地に適する生存の在り方であって、地球人のそれではない――》

 その声は断固としたものに聞こえ、ボロズドフは危うく出かかった質問を喉の奥に蔵った。

《それで、まず手初めにこの《マーゴッド》に降り立った、そなたたちのひとりのなかへ入って様子を見た。そして、他の個体も踏査した後、そのなかでも有力と思われる二〜三の個体について、そなたたちが《エッグ》と呼んでいるあの船に入った》

「すると――」ボロズドフは、自分でも噴き出した怒りで身体が震えているのがわかるほど、緊張した声を絞り出して言った。「《エッグ》のクルーたちを改造したのですか」

《それを『改造』という単語で呼ぶのが相応しいのかどうかはわからない。おそらくそなたたちが判断することなのだろう。いずれにしても、われわれは彼らに入って船の構造を調べ、それら施設の在り方から逆に地球という惑星がどういうものかを学んだ……。

 その結果、確かに地球には、この星と似たところはあったが、われわれのような生存の在り方をする生命体は存在しないことがわかった。そして地球が何世紀にもわたって、なんらかの形で知的生命体の存在を探していて、なにも発見できないでいることも知った。

われわれは、彼らの方法では見つけることができなかった。彼らの方法は、われわれがなんらかのメッセージを送っていると仮定してのものであり、その方法が特定の電磁波によるものであると限定されていたからだった……》

 だが、少なくともあなたがた《マーゴッド》の住人は、ホルムアルデビド分子の放出する四八三〇メガヘルツや『水の穴』といった《魔法の周波数》を送りつけてやるどころか、宇宙からやって来る音に耳をすまそうともしていなかったではないか。

要は《マーゴッド》以外に知的生命体が存在する可能性を探ろうという《意識》すら抱いていなかったのだ――ボロズドフは思った。

とはいえ、当初はその《意識》があった場合でも、デュポでの地球外知性体探査のように、ひとつの権力構造の歪みのなかで、政治的なポジショニングのための道具や予算獲得のモデルと化している場合もあった。

人類は、あのワインズベルクのラボに対する職員の反応や宗教に対するそれと同じく、すでに地球外生命体の存在など、まったくの『ホラ話』の一種として信じなくなっていたのだ――。

 自問自答がそこまで及んだとき、ボロズドフは、この生物の思考様式、あるいは対話様式が、地球のそれとは著しく異なっていることに気づいた――。

 この知性体は、こちらの質問に答えているようでありながら、その実は、自分の論理展開だけで話を進めているのだった。

だから、《超》精神理学的には、あちらのストーリィボードにこちらが乗せられ、地球人流の論理様式による《結構》が掴めずに苦労させられることになるのだった。ボロズドフは腹を決め、眼の前にあるのがランダムに映し出されるビジ・プレート・ライブラリの一種であると思うことにした。

《――われわれは、そなたたちのいう実験その一として、船の環境を徐々に変えて行った。そして、そこにいる個体の適性も徐々に変えて行った。彼らは、《エッグ》と《マーゴッド》との往還を通じて、徐々に変化して行った。そして地上に彼らがつくった道路や乗り物や家々といった、われわれの見たこともないさまざまのものが増えて行った。

やがてそれは、ゾーンと呼ばれるものになり、街と呼ばれるものになり、都市と呼ばれるものに変わって行った……。

 地下深くに住む者もおれば、地上高くそびえ立った建物のなかに住む者もあった。空中をエアカーというもので飛び回る者もいれば、『歩く』という地面との摩擦による動作で地上や地中を移動する者もいた。またあるときは、地上をソーラーカーというもので走り回る者もいたし、航宙船というもので大気圏の外へ出掛けようとする者もいた。地面を掘り、交通アクセス網というものをつくる者もいた。他の惑星から航宙船とやらの材料を調達して来る者もいたし、海の底へ出掛けて行って、海の生物を研究する者もいた……。

 そうして、何年も経たあるとき、彼らのつくったメガロステイト・シティと呼ぶ都市から一五〇〇キロほど離れた海域の、水深六〇〇〇メートルに位置する海底火山の爆発が起こった。

これは、われわれの種の誕生から四五〇万年にわたる経験でいえば、六〇年から八〇年に一回は必ず起こるありふれたもののひとつに過ぎない。だが、そなたたちのような物理性をもった生命体にとっては、それは相当なものに思えたろう。

海は、まるで赤い坩堝のなかで煮えたぎる溶けた鉄のように燃え上がり、最大のものは半径一五〜一六メートルにもおよぶ真っ赤な溶岩の塊となって、海の底からつぎからつぎへと噴き出した。

それらは、上空一〇〇〇メートル以上の高さにまで煙と一緒に噴き上がっては、つぎつぎと海面に落下して行った。海そのものは、蒸発する水蒸気と火山の噴き出す煙と落下して来る溶岩が立てる飛沫とでまったく見えなくなっていたが、海のなかはあふれ出したマグマの熱で風呂釜のようになり、大量の鉄やマンガンが溶け出して行った……。

 いっぽう、彼らのつくったメガロステイト・シティは、その火山が起こしたプレートの変動による地割れや地震に襲われ、跡形もなく崩れ去ってしまっていた。そこにあった建物のほとんどは、一瞬のうちに倒壊し、一面を白い瓦礫の海と化してしまった。

それから一時間もしないうちに、彼らが五ケ月を要してつくった漁港に大津波が押し寄せ、その周辺の村々の家屋を呑み込んだ。

おのおの個体は逃げ惑うか、そこに蹲るかして難を避けようとしたようだが、その行為はきわめて不適切で非合理的なものだった。またメガロステイト・シティの地表にいた個体は、そのほとんどが建物の下敷きになるか、地震が空けた裂け目に落ち、揺り返しで元に戻ろうとする地面と地面の間に挟まれて死んで行った……。

 しかし、それでも生き残っている者はいた。そなたたちがアースレベルゾーンと呼ぶ地区に住む個体や他の種の個体たちだ。

われわれはわれわれなりに、それぞれの個体の生命を保ってやろうとした。われわれは、しかし、どんな物質や個体のなかに入れはしても、われわれ自身の力でものを持ち上げたり、それらを運び去ったりすることはできない。

彼らが自分たちの備蓄していた食料をすべて生存のために費消し尽くしてしまった後、われわれは彼らの生命が少しでも長くとどまるように、その組織のなかに入っては、その組織の生存に必要な物質――そなたたちが栄養やビタミンと呼ぶものなど――を作り出してやった……。

 しかし、われわれの努力にも限界があった。彼らのなかには、生体を維持する装置そのものを酸化させる者が現れはじめた。とくに彼らの脳という装置は非常に優れていたが、その他の装置よりは壊れやすできていた。生体組織を維持させることはできても、脳というものを生き続けさせることはわれわれにもできなかった。

彼らのほとんどは、そなたたちがいう『精神の死』というべきものに侵されて、自分自身の生命装置を破壊しはじめる者も出て来た。いったんそうして破壊された生体組織は、元には戻せなかった。

 彼らの脳を精査してみると、そのほとんどに地球からの救援を待っている徴候がうかがえた。われわれは各個体の完全な死が訪れた後も、その肉体が酸化しないように努めた。

そうしておけば、いつかまた彼らが個体としての生命を復活させられるときが来ると考えたからだ。

われわれは、生存している個体の数が完全になくなってしまわないうちに、彼らの《意識》だけでも取り出しておこうと考えた。われわれは、それぞれの個体の脳を走査することで、彼らに共通な思考様式を学び、《ことば》という、われわれにはない間接的な伝達手段とその仕組を覚えた……。

 そうしてわれわれは、彼らの脳細胞がまだフレッシュなうちに、それぞれの個体のもつ《意識》や《記憶》というものを取り出し、いわば暫定的な保管庫として比較的震災の被害を免れていたアニマルファームの敏捷な動物――そなたたちが『犬』と呼んでいる、あの生物――に植え込んでおくことにしたのだ》

 そうか、あの何万頭というチュクチアン・マラミュートは、《エッグ》のクルーたちの避難先だったのか――ボロズドフは、この問わず語りの意味するものが、人間という異生物への愛情から出ていることを悟った。

この知的寄生生物マーゴッド星人は、生きてあるものを自分と同等の生物と見做して慈しむ性質をもっているのだ。そこには、権力や能力の差がなく、誰でもが自分自身の力で他者と同じことができるという点で、他を羨んだり、排斥したりする意識そのものがないのだ。


二三


「フリーマン准将。ありました――」

 遠くから叫ぶような声が聞こえた。その方角を見ると、兵士のひとりが片手を振りながら、ハンドライトの光を中空に向けて『ここだ』の合図を送っていた。リストコムで呼びかけるより、この連絡方法のほうが手っ取り早いと思ったのだろう。

兵士の姿は、暮れかかる海を背景にして黒いシルエットになって見えていた。セーガンがリチャードとマデリーンを見やった。その顔には驚きがあった。

「なにがあったのだ」

フリーマン准将が、三人に負けじと速足で歩きながら、冷静な声でリストコムに訊ねた。

「地下へ通じているらしい、怪しい階段があります」

シルエット兵士の、妙に興奮した声が答えた。「すぐにこちらへいらしてください」

 フィリップは、ひょっとしてボロズドフの所在が捉えられるのではないかと、そのそばにいるはずのダイビーに向けて命令心語を発信してみた。

だが、反応らしいものは得られなかった。

 サーラが、フィリップの発信に気づいて言った。《あたしも、さきほどから呼びかけているのだけれど、それらしい応答が全然ないのよ……》

 そこには、確かに地下道らしいものがあった。ちょっと見にはわからなかったが、周囲の瓦礫がひと一人入れるぶんだけ脇へ除けられていたので、それと知ることができた。

「嫌な臭いね。なにかが腐っているのかしら……」

サーラが鼻をひくひくさせて言った。その奥のほうからは周期的な風の音とともに、なにかの腐ったような臭いが間歇的に吹き出して来ていたのだ。

「おそらく漁獲物の保存庫として作られたものだろう……」

 セーガンが暗い地下道をハンドライトで照らし、なかを覗き込みながら言った。

「だが、風があって、波の音が聞こえて来るところをみると、どこか海に面した出口に続いている――ということだ」

「よし、エリントセンサーを使え。出口がどこにあるかを調べるんだ」

フリーマン准将が言った。

「アイアイサー」フリーマン准将の横にいて、辛抱強く命令を待っていたマーベリック大佐が、後ろを振り返りざま、直立不動で待機する部下に言った。「マッケンジー少佐、エリントセンサーを使え。そしてフレイタス軍曹、地下のどこかに通信用の電磁音はないか確かめろ。後の者は、武器を携帯して警戒態勢をとれ」

 命令を与えられた兵士たちは、地下道へ通ずる穴を遠巻きに、それぞれのエアカーを盾にして半円形の隊列を組んだ。その向こうには、ふたつの月に照らし出された凪ぎの海が、暗くなり始めた空との間に白い一線を画し、きらきらした光を揺らめかせていた。

フリーマン准将が、その側近であるマーベリック大佐ら数人を呼びつけ、リチャードらを何重にもなった半円形の隊列の一番後方へと下がらせた。そこには大型の軍用ソーラーカーがあり、フリーマン准将とマーベリック大佐たち数名が乗り込んだ後、リチャードたちが乗り込んだ……。

 どうやら、これが臨時の司令本部となるみたいだな――リチャードは思った。

ここには、大型の通信探査機器やその他の通信機器が搭載されている。窓の外へ眼を転じてみると、そこにはいつの間にか数台のエアカーがやって来て、ソーラーカーの周りを取り囲んでいた。

さらにその向こうへ眼を転じると、幾重にもなった隊列が見え、総勢六〇〇名にも及ぼうとする兵士たちがレーザーキャノンを構え、緊張した面持ちで待機している。

「准将、この地下道は、まるで迷路のようになっています」

マークヒルが報告した。

「あの階段から下へは、いくつもの通路があり、一レベル下がるごとに少しずつ角度を変えた四方向、ないし八方向の道が続いています。しかもその距離は末端へ行くほど細くはなっていますが、長いものでは一キロ以上に及んでいます……」

「で、そこには、なんらかの施設らしきものはないのか」

フリーマン准将が訊ねた。

「ええ、それらしいものは見当たりません。すべては通路で、その通路は地上へではなく、さらに海中に向かっているようです。水深は、おそらく最深地で三〇〇〇メートル以上になるのではないかと思われます。底には、なにか巨大な、空洞のようなものがあるようです。しかし、これでは深海用の潜水艇でもなければ、正確なところはつかみ切れません」

「迷路というより、これはまるで、巨大な木の根っこのようなものが溶けたか、腐り落ちてしまった跡のように見える――」

リチャードが、エリントセンサーの映し出す、ツリー状になった通路らしきものに眼をやって言った。

「これはいったい、なんということだ」

フリーマン准将は、怒ったようにセーガンに向かって言った。「これは、なにかね。きみの頭のなかにすべて入っているという設計のものなのかね」

「いいえ」

セーガンは素直に答えた。

「こんな仕様は、初めて眼にするものです。ましてこれほど巨大なものとなると、まず人工のものでは考えられません。もし地球の人間たちがやったのだとすると、数十年も要かってしまう大工事となることでしょう……」

「では、われわれが聞いた波の音や風の音というのは――あれは、いったいどこから聞こえて来たというんだ。まさか天地が逆になって、海の底へも波が打ち寄せていたというわけでもあるまい」

 フリーマン准将はにやりとして言ったが、セーガンはもとより、サーラもマデリーンも笑いはしなかった。そしてリチャードにも、フリーマン准将の下手な軽口に応ずる気はないらしいのが見てとれた。たしかに波の音はしていたし、なにかものの腐った臭いが風とともにあの穴から吹き出していたのだ。

それは、みんなが認めていた。誰もが押し黙り、腕組みをしたり、タバコを喫ったりして考え込んだ。

「そうだわ――」マデリーンが、重い沈黙を破っていった。「リストコムよ。彼はリストコムをもっているわ」

「そう、それよ。いいアイデアだわ。それを使いましょう――」

腕組みをしていたサーラが即座に彼女に呼応して言った。「心語ではいくら呼びかけても返事がないし、彼自身、あまり心語には感受性がないのよ。それしか確実な連絡を取る方法はないわ――」

 サーラが頷くのを見て、マデリーンが自分のリストコムに向かって言った。

「ボロフ、この声が聞こえて。あたしよ、マデリーンよ。返事をして、お願い」

 全員の視線がマデリーンの手元に集中し、それぞれの心のざわめきが伝わるような沈黙が周囲を包んだ。マデリーンが同じことばを数度繰り返した。

が、一分が過ぎ、三分が経ってもなんの応答もなかった。

全員の緊張がますます高まって行く……。その緊張に耐え切れなくなったマデリーンが、絶望的な声で叫んだ。

「ボロフ、そこにいるんでしょ。返事をしてよー」

 その声が、そこにいる全員の耳をつんざくように辺りへ響いた。ルーピィまでもが小さく震え出し、不安を隠しきれない表情でマデリーンを見上げていた。

「こうなったら仕方がない――」フリーマン准将が決断したように言った。「あの穴へ潜り込むしかない」

「それは危険です」セーガンが言った。「エリントセンサーで見た通路の非人工的な様子からすると、なにかの巨大な巣であるようにも思えます」

「うむ。というと――」

フリーマン准将が頷く。「あの最深域の空洞に、なんらかの生き物が潜んでいる可能性がある――というのだな」

「ええ。そこになにかがいるのだとしたら、われわれが入って行くよりも、むしろ燻り出してしまったほうがいいでしょう。それが生物の一種なら、われわれの化学ガスは相当な脅威になってくれるはずですから……」セーガンが続けた。

「よし、わかった。マーベリック大佐、全員にガスマスクを装着するように言え。そしてあの穴に入り、五分経ったところまで行って、六分後にセットした催涙ガスを投下して退却するように――」

「待って」マデリーンが必死の形相で言った。「そんなことをしたら、なかにいるボロフはどうなるの」

 フリーマン准将が、落ち着き払った態度で言った。

「なあに催涙ガスぐらいで、彼は死にはせん。煙に驚いて生き物が表へ出て来たところをわれわれが引っ捕まえ、その隙にわれわれがあのなかに入って、彼を救出すれば済むことだ」

「でも、相手はただの生き物じゃないのよ。地球のイタチや蛇の類いじゃないわ」

マデリーンが言った。「わたしたちの心理や行動が読めるほどのやつらよ。そんな単純な方法で、うかうかと姿を現すほど、莫迦な生き物だと思うの」

全員に無言の緊張が訪れようとしたとき、フィリップが言った。「そうだ。ルーピィに行かせよう。ルーピィなら、ダイビーのいるところを捜し出せるよ。ボロフもきっとそこにいる。ルーピィに小型ビジ・プレートとライトつきの発信器をつければ、なかの様子も見ることができる……」

 みんなの顔に安堵が走った。とりわけフリーマン准将の顔がほころんだ。彼はフィリップに手を差し出して言った。

「ありがとう、わが、小さな指揮官どの――。われわれは、きみの命令に異存なく従うよ。リチャード君、きみも立派な息子をもったものだ」

 三人がそうして握手を交わすなか、マークヒルはすでにルーピィに小型ビジ・プレートつき発信器を装着してやっていた。ルーピィは、これまでにも何度もそれをつけられているせいか、温和しくされるがままになっていた。

マークヒルの手慣れた動作で、装着はすぐに完了した。

「よおし。行け、ルーピィ。行ってボロズドフとダイビーの居場所を探して来るんだ」

 機器をしっかりと装着され、自分を見上げて尻尾を振っているルーピィにフィリップが命令を下した。

ルーピィはひと声吠えると、あの穴に向かって走った。その軌跡は、エリントセンサーがしっかりと追っている。モニターのなかのルーピィは、彼女の体温の状態を感知したセンサーが送って来る赤やオレンジ、グリーンなどの色が一体になって動くカラーマップで見えている。

ビジ・プレート・スクリーンには、ルーピィの向かっているシーンが走り去る広角の映像となって届いていた。もちろん映像そのものは、オートフォーカスがセットしてあるとはいえルーピィの動きに合わせて上下左右に揺れるそれであり、決して人間が意識して映すような安定したものではなかった。

しかし、それだけに視る者にとっては臨場感があり、撮影者の意図や主観の入らないドキュメントとなっていた。

 ルーピィは、穴の手前で立ち止まって匂いを嗅いだ後、意を決したように階段横のスロープに飛び降りた。ルーピィにとっては、階段よりはスロープのほうが走りやすそうだった。彼女はダイビーとボロズドフの匂いを嗅ぎつけ、その跡を追って走った。

「どうやら、匂いを嗅ぎつけたようだな」フリーマン准将が言った。

「うん。ルーピィの嗅覚は最高だよ。なんてったって、一キロ先の匂いまで嗅ぎ分けてしまうんだから……」フィリップが自分のことのように誇らしげに言った。

 ルーピィが送って来る映像は、スロープを走り降りる感覚を充分に伝えていた。見ようによっては、地球にある子ども向けの乗り物に乗っているようだった。ルーピィは、一レベルを降りるごとに現れる脇道には眼もくれず、真っすぐに本線ともいうべき太さの道に沿って走っていた。

「あれは、いったいなんなのでしょう――」

マークヒルが、エリントセンサーのモニター上に出ているカラーマップ上の動く物体を指し示して言った。

「さきほどから現れては消え、現れては消えしているようなのですが……」

「どうしたんだ。マック」

リチャードがそう言ってモニターに眼をやると、そこにはルーピィのそれとは別のカラーマップ様のものが、ルーピィのスピードに合わせて浮遊していた。

 そしてその物体は、マックのいうように、ある一定の間隔をおいてオレンジになったり、グリーンになったりしている。完全なオレンジは三〇度を指し、完全なグリーンでは二〇度の温度がある。完全なブルーは一〇度未満だ。

浮遊物体は、そうしてしばらくはルーピィの動きと呼応するように移動していたかと思うと、ふっと周りと同じレッドからオレンジ、つまり五〇度ないし四〇度の外気温と同じ存在になってしまうのだった。羽根など物理的なかたちのある様子はない。

「こいつは、いったいどういう生物なんだ」フリーマン准将が、エリントセンサーに眼を近づけて言った。「羽根も持たずに空中を飛び回ることのできる変温動物だとでもいうのか――」

「でも、こっちにはなにも出てないよ」

フィリップが、ビジ・プレートを指さして言った。

「エリントセンサーでは、ルーピィのちょうど二〜三メートル先の空中に、五〇センチ四方ほどの不定形な球体となって浮かんでいるのに、ここにはなんにも映ってない……」

「ほんとうだわ」

サーラが言った。「ビジ・プレート・スクリーンには、なんにも映ってないわ」

「ルーピィに取り付けたレンズは――」マックが言った。

「二六〇度の範囲までカバーできます。つまり、フィルの言うように、ここに映っていなければおかしいのですが……」

「おそらく肉眼では見えない生物なのだろう」セーガンが独り言のように言った。

「肉眼では見えない生物ですって――」

サーラが噛みつくように言った。「あの温度をもつ五〇センチ四方ほどの浮遊物体が、肉体をもたない生物だと……」

「わたしだって信じられはしないが、現実にビジ・プレートのスクリーンには出ないで、エリントセンサーのモニターにだけ出ているのを見れば、そう信じるしかないないじゃありませんか――」

セーガンがわざと助け舟を求めるような表情をリチャードに向けて言った。「どうでしょう、フォアライン博士。ここは科学者らしく、変な先入観や我意を捨てて、現実に即した判断を下すべきだと思うのですが……」

「セーガン補佐官のいう通りだよ、サーラ」

リチャードが、ふたりの間に割って入って言った。「いまは見たとおりの現実を素直に受け入れ、それにどう対処できるかを考えるんだ。学識者ぶった議論は、あとでいつでもやれる――」

「ええ、その通りね。ごめんなさい。もう言わないわ」

サーラは、なかば負け惜しみの肩をすくめて言った。彼女は自分がまたぞろ、頭でっかちの『地球科学者』になりかけていたのを恥じた。これでリチャードの仲裁がなかったら、自分はもっとむきになって反論していたかも知れない……。セーガンにはなぜかひとをそんな気にさせるなにかがあるのだ――サーラは思った。

「マッケンジー少佐」セーガンが言った。

「はい、なんでしょう」マークヒルが答えた。

「その生物の温度分布から、それがどんな形をしているのか割り出すことはできるでしょう。多少の時間は要かるかも知れませんが、やってみてくれませんか」

「ええ、いいですとも」

マークヒルは言って、ルーピィの後を追っているカラーマップから、もっとも全体像がはっきり映っているのを静止画像にして取り出し、別のディスプレイに映し出した。「つまり、こいつをスキャニングしてビジュアライザーに落とし込めばいいのですね」

「ええ、そうです」セーガンが答えた。「あとは動態モードにすることで、大体の動きや立体像はつかめるでしょう……」

「うむ。ましてルーピィという基準になる大きさがあるのだから、そいつの大きさも必然的に知ることもできるだろう……」

フリーマン准将が、感心したように言った。

 ルーピィは、その間もさらに地下へと潜っていた。

だが、ときおり匂いが途切れてしまうのか、周囲を二〜三度ぐるぐると歩いてはある方向を採り、その方向に向かって走った。しかし、相変わらずセンサーにその存在は出ていても、ビジ・スクリーンには浮遊物体らしきものは映っていないのだった。

「――ふうむ。これじゃあ、まるでRNAの内部を走査しているようなものね」センサーの映し出すカラーマップ映像を睨むサーラが唇を尖らせ、腕を組んで言った。

「ああ、まったくだ」リチャードが同意して言った。「いい方を換えれば、足だか触手だかは知らないが、それを無数にもった螺旋形ムカデのお化けといってもいい……」

「立体映像が、そろそろ出て来ました――」

マークヒルが言った。

セーガンが、フリーマンが、そしてフィリップまでが、一斉にその方向を向いた。動態モードになったディスプレイからは、ある物体が徐々に立体的でリアルなものになりはじめていた。

「どうも、長い触手のついた傘みたいなものが――」マークヒルがディスプレイを見上げながら言った。「ぐるぐる回りながら飛んでいる、そんな格好ですかね……」

「うむ。見ようによっては、足のないクラゲのようにも見える」

フリーマン准将が言った。

「それが自分で発熱して、温度調節をしながら飛んでいるんだわ」

サーラが言った。「外気温のレッドと同じ温度になったときが、一番高いところにあるみたい――。ということは、熱が浮遊力や飛行力を生み出す『ダイナモ』となっているのかしら……」

マデリーンが言った。「あれだけの熱があるのだから、発光はしているのでしょうね」

「いえ。発光はしていません」マークヒルが、ディスプレイに眼をやったまま答えた。「ビジ・プレート・カメラで捉えられないところをみれば、あるいは発光はしていても、ビジ・ライトの光を吸収する物質でできているのかも知れません」

「でも、よく見ると――」サーラが言った。「いつも同じ形をしていないみたいね。マック、ちょっと画面を拡大してみてくれない。あ、もう少し大きく。そう。それでいいわ。ほら、ちょうど小魚が集団で泳ぐときみたいじゃない。

全員が集まったときに、クラゲみたいな形になるわ。

小さな一匹一匹の小魚が、一カ所に集まっては発熱し、その熱によって高く舞い上がって分散する。そして落下や飛行で冷めそうになったところで、また集まって発熱する。そういうサイクルを繰り返しながら飛んでいるんだわ」


二四


《どうやら、そなたたちのお仲間がやって来たようだ》

知的寄生生物――ボロズドフは、いまではそれを《マーゴッド》星人と呼ぶことに抵抗を感じるようになっていた――が、穏やかにボロズドフの頭のなかに入って来て言った。

「フリーマン准将も来ているのか」ティプラー提督が訊ねた。

 どうやら、このウィルスのような生物は、同時に複数の個体にも侵入して話をすることができるらしい――ボロズドフは思った。

《フリーマンも、フォアラインの家族も、ボロズドフの恋人であるマデリーンも来ている……》

 ボロズドフは、最後のことばにぎくりとなった。

彼女もここに来ているということは、彼女に危険が及ぶ可能性もあるということだ……。

《いや、それはない。ボロズドフよ……》

即座に知的寄生生物が反応して言った。《われわれは、彼らには殺せない。だが、われわれにはそれができる。おまえたちがなにもしないなら、われわれもまた彼らに対してなにもしない》

「それを約束してくれますか」

《約束しよう――ボロズドフよ》知的寄生生物が言った。

《そなたたちが、われわれに無益な戦いを挑まないと約束するかぎり、そしてこれ以上、《マーゴッド》の大地を傷つけないという限りにおいて……》

 ティプラーがボロズドフを見た。彼もまた、自分と同じ恐怖を感じたのだ――ボロズドフは、不安を覚えながら思った。なんとかしなければ――彼ら地球人たちは、この生物を敵と見做して攻撃をしかけて来るかも知れない……。

ましてあのフリーマン准将が来ているとあれば、当然のこと、宇宙防衛軍司令官としての面子にかけても、各種の戦闘兵器は万全装備して来ているはずだ。

「頼む。わたしに彼らを説得させてくれ」ボロズドフは言った。「でないと、彼らはなんらかの化学兵器を使って、あなたがたを攻撃して来るかも知れないのです――」

《われわれには、彼らの武器はなんの痛痒も与えない。物理的な攻撃、あるいは化学兵器による攻撃は、われわれには無意味なのだ。だが、まあ、いいだろう――そなたたちのことばに『偽り』はないようだ》

知的寄生生物が、ふたりの脳をスキャンしたかのように、唾液を飲み下すほどの間を置いて言った。

「では、わたしたちふたりを、ここから出してくれませんか」

ボロズドフは、見えない相手に向かって言った。「わたしたちは、彼らをとめなければなりません――」

 不思議なもので、声そのものは頭のなかで聞こえているのに、顔を中空に向けていうのは自分でもおかしかった。地球人の特性として、見えない声に対しては、それが天空から発されたものだとする刷り込みがすでになされているのだろう――。

それに聴覚がこの際なんの用もなさないと知ってはいても、耳をすます動作をしないではいられなくなるのも、人間が《炭素+水》型固体生物としての物性を備えた存在であるという証拠でもあるのだろう。

彼ら知的寄生生物は、しかし、そうしたさまざまの器官をもたずにわれわれとのコミュニケーションを立派に果たしている。

確かに、水をその細胞膜に包んで陸に上がって来た固体生命としての人類は、彼ら気体生命としてのコミュニケーション能力に、恐ろしいほどの俊敏さと羨ましさを認めざるを得ない。

しかも人類は、単なる二足歩行ができた段階から『知的種』ともいうべきホモ・サピエンスの時代となってから、たかだか数万年の生でしかその歴史を経験して来ていないのだ。彼(彼女かも知れないが)は、確か『四五〇万年にわたる経験』と言っていた……。

それが『知的種』となってからの現生人類の歴史をいっているのだとしたら――その進化の落差は歴然としている。

人類には、遠くおよばない世界のできごとなのだ。そう思うと、ボロズドフは背筋になにか冷たいものが走るのを覚えた。

《では、その犬について行くがいい……》知的寄生生物が言った。

 ダイビーがぴくりと耳をそば立て、ボロズドフを見た。『来い』と言っているのだ――ボロズドフは直観的に思った。

「最後に、もうひとつだけお願いがあります」ボロズドフが中空を見上げて言った。

《なんだ……》

「どんな事態になっても、彼らを殺さないことはもちろん――」

《それは先にも約束した……》

「ええ。しかし、あなたがたを正式に認めさせるためにも、彼らの脳のなかには絶対に入らないでほしいのです」

《どんな事態になっても――か》

「ええ。どんな事態になっても――です」ボロズドフは歯を食いしばって言った。

「わたしはあなたがたの心が――地球人でいえば――『優しい状態』にあるのを知っています。彼らの心を、ほんとうの意味で『素直』にするためにも、なかに入って操作してほしくないのです」

《わかった。それも約束しよう……》

「なんだか、こちらの要求ばかりで、その……」ボロズドフは言ってみたものの、あとが続かなかった。声に出していわなくとも、その内容については、相手は先刻ご承知のはずなのだ。

《ただし、そのせいで彼らが自分自身を傷つけることになっても、われわれは関知しない》

 そのことばを聞いて一抹の不安を感じなくもなかったが、ここまでいい分を飲んでくれた以上、ボロズドフとしてはこれ以上に注文を増やすことは憚られた。

「いいでしょう。そうなった場合は、われわれ自身の自業自得なのですから――」

《それと、この者たちも連れて行くがいい……》

 その声は、なぜか後方から聞こえた気がした。

ボロズドフ、というより、彼とティプラーのふたりは同時に後ろを振り返った。そこには、水中に浮いたようになった数十人の人影があった。背の高いのもあれば、低いのもあった。太ったのもあれば、痩せ細ったのもあった。白い肌、黒い肌、茶色い肌もあった。

《この者たちは、そこにいるティプラー同様、われわれが今日まで生存させることのできた最後の人間たちだ。彼らはいま、半睡状態にあるが、そなたたちのいう心理療法を施せば、一定期間をおいて回復する一歩手前までのコンディションにしてある。その他の者は、残念ながら、われわれの力が及ばず、ある者は酸化、ある者は炭素に還元された……》

「そういえば、あの犬たちに《エッグ》のクルーたちの《意識》を移植した――といっていましたね」

《ああ。だが、残念ながら、彼らの《意識》はあの犬たちのなかにいるのが長すぎて、いまではあの犬たちと同化してしまっている。彼らは、自分たちを犬だと思っている。その細胞膜と犬たちの細胞膜が同じ《炭素+水》型の化合物で、その構造がきわめて類似した内容であったためだ。われわれの『細胞』とならば、そういうことにはならないが……》

「では、あの犬たちのなかに入ってしまったクルーたちの《意識》は、もう取り出すことはできないのですね」

《そうだ。もう取り出すことはできない》

知的寄生生物が、ゆっくりとした口調で言った。

《すでに彼らは、宿主である犬の生体に支配され、その心理構造で行動するに至っている。それに、すべての個体が炭素に還元されてしまった以上、返すべき生体もない……》

 一度は明るく灯されたかに思えた『希望の火』――だが、それが一瞬にして吹き消されてしまったのだ。ボロズドフは、胸が締め付けられる思いできびすを返した。

《心配することはない。彼らは、彼らですでにこの《マーゴッド》の地での生存の在り方を享受しはじめている……》

 知的寄生生物が、励ましともつかないことばを彼の心に送ったが、意気消沈してしまっているボロズドフには、なんの慰めにもならなかった。


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