二章……(十一) 【忘我の吟詠】
◇◇◇
――飛来物を躱し、横方向に跳ぶ。
次の飛来物は後方に跳んで避けて。更に次は身体を寸前で翻し体幹を傾けることで往なす。
直感に任せた、思考の伴わぬ対処。人ならざる身は本人の認知を越えて急場を凌いでいた。だけれど一時の凌ぎはそこまでが限界か……。
躱し、避け、往なしたはずの三方向から同時に反転した刃を浴びせられ。肉体の代わりに、肩から伸びた羽衣が切り裂かれ損傷する。統巫としての羽衣により、ある程度は痛みや傷を受けなくとも。正面切って吠え、牙を剥いたとて勝算は一割も無く。勝負になりはしないと動物的な感で早々に覚る。それに一連の流れは、あくまでも陽動だ。振り向いた方向には暇無しに糅てて加えての一射、
「――鎖……っ!」
自在に動く刀剣によって宙に張られた鎖。
対峙する者を捕らえようと、真っ直ぐに向かって来たそれをまともに受けてしまった――。
「……あっ!! ……ガッ!?」
やはり意識するよりも早く、柔軟で機敏に動く肉体が反応していたが。しかしながら反射的に最適な回避行動を取ろうとする肉体に、これまで荒事にはとんと縁のなかった精神が足を引っ張った。
たたらを踏み、よろめいて。ニ射目、三射目、数本の鎖を続けて受け。それらが刀に引かれ無遠慮に巻き付いてくる。踠くも抜けられずに。蜘蛛の巣に絡まり、獲物になった蝶が糸巻きにされてしまう情景がリンリの目蓋の裏に浮かぶ。
あまりにも唐突で、常を逸しており。それが自分に起きている現実であるという実感が掴めず。『負ければどうなるのか?』極度の緊張と危機感に張り詰めた感情は、肉体と精神の不調和を招き。そのため即時の対応が間に合わない。冷静さを取り戻そうと頭を振り。とにもかくにも、今はと、
「うぐッ……かっ、身体が?」
拘束が強まる前に逃れようとし、立ち眩み。
視界の端が波打ち。平衡感覚が狂い、周囲の景色が上下左右に揺れているよう感じられた。
意識は清明なものの、急激な酷い倦怠感と脱力感に襲われて。あの穢不慣に侵された際に近しい不統一で乱れた身体感覚。握っていた物を、握ったままではいられず落としてしまう。身体が思い通りに動かせずに全身の筋肉が弛緩している。
肩が、胸が、腕が、腰が、腿がいっそうに強く締め付けられ。堪えきれず膝を折ってしまう。
「はぁ……ハァ、ハァ……!
どうして、だ。……拾え……ない?」
――落とした刃物の柄が足に当たり。それを拾わなくてはならない、のに。拾えない。
抵抗し。緩徐に己が身体へ視線を落とすと。
男らしさとは無縁に変貌した身体。女人としての細やかな二つの膨らみに、細い胴部、鼠径部と……衣類の上から締め付けられている己が身体の箇所が目に入って。今尚、縛りを強める金属の連なり。
「ぐう゛ぅっ……趣味が悪いな……!
俺にはちょっと、共感できない趣味だ……」
鎖によって胸が擦れ、脇の下を擽られ、胴部の衣が捲れて臍丸出し、股の間を弄ばれる醜態。
何とか切り抜ける為の手札を探すも。
肩の羽衣は、持ち主へ飛来した刃に数度切られて布切れも同然で。鋭い爪や牙を以ってしても金属までは断ち切れやしないし。大半の身体の自由が奪われてしまい、思うよう力が入らない。辛うじて動かせるのは耳と首と掌に尻尾や足首くらいだろうか。まともな抵抗すらできない。いいや、最初から抵抗一つできていなかった。一弾指の間で完全に追い詰められた……。唸るしかできない。
「人の身体に……ハァ、こんなことしてッ!
縛られる体験なんて、したくなかったぞ」
がるると、尻尾を立て。
獣のように唸るリンリの言葉に被せ、
「あらあら。あっけないですわよ? 統巫としての力も使わぬまま、僅かな打ち合いでこれとは。だから最初に降参なさいと伝えましたのに」
中空より声がかけられた。
「ご了承を。あたくしは最も効率的であり、最も合理的な手段を取っているだけですわ。……個人的な趣味嗜好と思われるのは心外でしてよ。貴女を痛め付けるのは本意ではございませんの。さぁさ、もう降参してくださるかしら?」
闘諍の儀を結んだ相手、ヒノアサメ。
彼女は宙に浮かした刀を足場にして、地上からは手の出せない高度より見下ろしている。
「それかそれか。できるというなら、はい。試しに此方へ石でも投げてみますか? どうぞやってみてくださいな。貴女を一瞥したところではその程度が関の山でしょ。無駄。触れる事すらできやしない。無駄と迂遠は好みません。そうやって足掻き、不必要に消耗する意味はございませんわ」
若干だけ鎖の圧が緩められる。
言葉通り一度掻き立て、心を折る算段か。
「……投石か……でも」
仮に投石などをしたとして、刀一本に阻まれ効果がないだろうと予想が付く。安全圏から無数の刀剣を操り、相手には付け入る隙は与えず、広範囲から同時に攻めてくる様は、まさに多勢に無勢。
「俺は……んぅう゛……んぐぅ……ッ!」
リンリが乗らなかったからだろう。
鎖が一段と強く締め付けてきた。
「――ぁ、うあ゛っ!! がぁあッ!!」
客観視すれば。リンリは鎖に巻かれ束縛され、周囲にはその鎖の固着具となるように打ち込まれた何本もの刀が刺さっており。刀には徐々に外方向へと力が掛かり、鎖が引かれる事で圧迫が増してゆく。更に外縁を囲い、宙に浮く無数の刃先が向けられ保持されている状況であり。ヒノアサメがやろうと思えば――いつだって殺れる。ここからどうにか挽回しようにも絶望的に過ぎるではないか。
「ハァ……ハァ……!」
おまけに鎖の圧迫が増すほどに、
「ダメだ。目が回る。身体に……力も……。
なんで……この鎖か? この刀が?」
身体の調子が悪化の一途を辿る。
「貴女も一度は聞いた事がお有りでしょ?
彼ノ者を害する禁忌。常住必滅の祭祀具を」
「ぁ……うん?」
「はい、ご推察の通り。その鎖と刀達は、とある霊山より採掘した鉄鋼で精錬された特別なもの。かの霊山と成った彼ノ者が軀、他の神々を厭忌した禍神墜ちの伝説の通りにね。統巫の身に宿った神性を捉え、神権を裂き、神格を削ぐ、忌み憚るべき禁制品。咎人により拵えられし祭具。でもでも、物とは使いよう。あたくしにとってはとても扱いが難しくあり、とても有用な品々ですわ」
「なるほど……ハァ、ちょいズルくないか?」
丁寧に解説され思わず呟いてしまうリンリ。
神様の力を宿し、司る存在である統巫……今のリンリにとって弱点を突く武具。そんな物品が存在しているのかと頭を抱えたくなり、身体の不調子から実在と効果を受け止めるしかできない。
「……貴女には勝ち目が無かったの。
勝算、そんな不確定なものを与えるわけがないではありませんか。統制十六奉位なんて相手が悪いと貴女も理解しつつ、置かれた状況を弁えて枝を抜いたのでしょう。故にこそ敬意を払っていますわ。一方で何もせず屈服されるのは統巫としての屈辱、せめての抵抗をしたい意思も尊重しますわ。でもでも無意味なのよ。でしょ?」
「……無意味、か――」
「――そうよ。ご理解を頂けたならばね。
そろそろ折れてくださいな。そのまま地面に手を付けて、深く伏せての降参を。そうしたらば従属の首輪を付けて差し上げましょう。無駄なやり取りはお終いですわ。貴女はもうここまでですので」
リンリは目蓋を閉じて、首を横に振る。
「――否だ!!」
折っていた膝に力を込め、起き上がり、
「いつだって無意味で、不条理。現実はままならないものだったけど。皆のおかげで変われて、生きる意味を悟った。だから今、振り返れば――」
鎖を全力で引き。一足踏む弛みを作る。
「――何一つも無意味じゃないと誇れる。
無意味であってたまるか! 俺は困難に陥っても、前を向いて進んで生き抜いた。だから俺をここで終わらせはしない。叶うなら、まだ共に居ると。皆と過ごしたいって。約束を番い、誓ったんだよ! これからも託されたもの、背負ったものを中途で諦めて無意味になんてしない! 道中ばで、もう後悔は重ねたりはしない……!! 大切なものを二度と取りこぼさないようにだッ!!」
稚拙な言葉だとしても、大きく吠える。吠えて、落とした小刀の柄を踏み、蹴り上げた。
「俺は、統巫。いいや――何だって良い」
既にリンリは答えを伝え、繋がっている。
責任を持って。覚悟を持って。己が内と。
「化狐と見做され、罠に掛かった狐……。
逃げ出す事はできず、群れの仲間も居ない。自由を奪われ、牙も爪も狩人には届かず。吠え、何するものぞ。擬死で意表でも突くのかしら?」
「狐の牙と爪を、狩人に届かせてやる。
化け狐ならば相手を化かす術くらいあると。そう思わせて警戒させれば、届くかも知れない!」
「困りましたわ。そこから、まさかまだ噛み付いてくる気なのでしょうか? どのように? あたくしの見立てでは、どうも貴女は『己に対する認識』や『他者が受ける認知』を狂わせ欺く類いの統巫に過ぎませんわ。種が割れれば無力で、権能も十全に発揮できなくなるはず」
空中の小刀を掴んで、構えたリンリ。
心根に響く、彼ノ者への感応と順応。
為し、成し、生せる限度とあらまし。
「認識認知を……欺く……。なら、そうだ。
本来なら居ない筈の、異成り立ち世の者。此土の理から、命達の法則から外れた、何某か。己が誰かも曖昧なままで生きて来た、何者かに成りたかった男の成れの果て。これが俺なら」
「意味の解らないことを。で、届くのかしら?
何をなされば、あたくしに届くというの?」
「いいさ。男でも女でも。未熟でも稚拙でも。人でも獣でも。理想でも現実でも。自分を騙し、必要なら受け入れて許容し。為すべき事を為す。俺は我として、誰彼の合間を揺蕩ってやる!」
リンリの周囲で、光の粒子が明減する。
「あらあら、そ。今更に力を使うおつもり?
では見定めさせていただきますわよ」
「ならば必定だ。この一場に限り!
俺は自分のことを『白紙』と定める……!」
――想起。何かを儚み、愁い、偲ぶ。
己とは異なる己の跡。悉に知らぬ残映。
否だ。『彼女』の事はよく知っている――。
『……其方は、そうなんだね?
りんりぃ、ならね……ずっと緒にいて』
――記憶の中。朧気な『彼女』が舞っていた。
彼女と自分が出逢った懐かしき何時ぞやの滝、その滝の水飛沫と水霧を背景にして。
日輪が射し込む手前、遠方の山岳山相が朱色に染まりつつある際、彼女は負けじと輝いていた。
『りんり、良いか。我の姿を、そして我が言ノ葉を心に刻み……うん。覚えててね? 忘れないでくれているうちは、我は其方を見失わないから』
舞を一端止め、そう告げてきた彼女は、
『――――』
舞の振り付けの中で、言ノ葉を紡いで唄う。
意味は理解叶わなくも、流麗な唄であり。
そしてどうにも、もの悲しい旋律の唄。
「『――揺籃の御守り、虚ろな籠。斯くして独り、語り継ぐ。落葉予て、重ねて絆し。独り、火取り、比と廻に彼土観。独言遺し、陽渡祓い……』」
記憶に習い、言ノ葉を紡いで行く。
「『何時。佚、溢、逸……?
嗚呼、月日割り、偽り、何時終る? ひとりのこり、ひとりのこし、ひとをのこし、ひとみのこし、ひとにのこし、いつおわる。いつおれる。いつまでおられるヒトシレズ。嗚呼、所懐無情なりし、ヒトバシラ。無常無仰なりし、ヒトノサガ……』」
リンリだった者の、忘我の吟詠。
「……我は何某、定めるなかれ。定めは虚構、詮方なきこと。元より全て空虚、絵空事。嘘、偽、欺瞞の徒。虚色の天。虚実の理。掉尾の虚。さらば我が身を定めるなぞ以ての外。由無し些事。即ち我は、幽かに揺らぐ隣火の如く――!!」
仕切り直しの、白い炎が空間を薙ぐ。
闘諍の火蓋は、そこより真に切られたのだ。




