二章……(九) 【渇望と片翼】
――まだ彼女は、生きているかも知れない。
そう望みを託して重い身体を動かす……。
「……どう……なった……?」
いつぞやの自分も後方不注意な事故で急勾配を転がり落ちたが、生きていたのだから。ならば希望を捨てられない。きっと彼女だって、と――。
ぼんやり、ふらふら、よろよろと。四つん這いで進んでいって崖の下を覗き込むリンリ。
崖下に見えたのは、ほぼ垂直に切り立った岩肌が露出した斜面の後に、樹木の枝葉が地面を隠してしまうほどに青々と繁っている景色のみ。地上までどれだけの距離があるかも解らないほどに。
墜ちたソラと、それから彼女を追い降下していったもう一人の行方は確認できはしなかった。
「ここから落ちるなんて、俺にはできない。
すごく怖かったでしょうに……ソラさん」
けれど高度からして普通では助からない。
よしんば助かっても岩肌での大怪我は免れない。
「俺の、せいだ。なんて――」
言葉を飲み。一度、口を噤む。
「――俺が言ったら、いけないんだろうな。
ソラさんは……主を裏切り、統巫屋に仇なしてしまった自分自身が許せなくて、抱いた様々な罪の意識を清算して、彼女なりの『けじめ』を付けるために落ちたんだ。なのに俺がまたソラさんの行動によって軽々しく自責なんかを嘆いたら、あの人をもっと悲しませることになる。よな……」
リンリは堪える。ソラの思いも推し量り。
過去『命を絶った父親』に落胆し軽蔑し、それ以上に何もできなかった自分自身を憎んで責め続けて数年、立ち直れないまま数年、精神的にも肉体的にも追い詰められてしまったりしたが。けれどもう分別を付けられる。二の舞にはしない。
統巫屋と集落の在り方、そこで生じた歪み。
とても難しくあり、知らない事も多過ぎて彼女と同じ視点では物事を観れないけれど。
なればこそ。この地と、この地で出逢い関わった人達を大切に思う余所者らしく、それら複雑な事情を取っ払った明瞭な視点で言ってやる。
「皆が、後を引くに決まってる!
後に皆が悲しむと、理解してただろうに!」
悲しいことに語彙が足りないが。
自分の父親との別れの際、棺前でも言った。
自尽は、愚かしい。後の事や、遺された者達の事を考えない『自分勝手』で『無責任』な行い。しかしソラの人格と取捨を軽蔑なんてできやしない。
「罪なんて、きっとここの誰も責めない。
皆はただ悲しむだけですよ、ソラさんのこと」
あまり長い付き合いでなくとも解っている。
彼女はその器量、責任感、人間性、どれをとっても素晴らしい女性であったと。もし厄災鼠がやってこなければ、もし囁きというものが聞こえなければ、これからも変わらずに皆の憧れの女中頭として過ごしていけたんだろう。だからそれが褒められた行動ではなくても、身投げをしてしまった彼女という人間を侮蔑したりしない。きっと誰一人も。
「間違ってる、なんて。言えません。
ただ俺は、他の選択をして欲しかったです」
言葉を崖下へと送り、堪える。
自分を誤魔化して堪える。とはいえども、
「俺は……どうすれば……良かった?
俺じゃあ、どうしようも……なかった?」
堪えていたが、これが堪えきれるものか。
誰も居ないなら自責の念を許して欲しい。
気が済むまで、そっと心内で叫ばせろと。
自責の念を孕んだ言葉を、自分に宛てる。
自問自答。そうした末に答えられたのは、
「たとえば。俺が、もっと――」
己が無力感。過ぎてしまった後の祭りで。
何かが足りていれば、ソラの手を掴めたのかも知れないという可能性と。だからどうした、もう彼女は落ちてしまった後なんだという諦め。リンリが関わらなくても、統巫屋が『厄災鼠に侵入される』という被害を受けた以上どうあっても彼女は同じ流れで自尽を選択したと想像がつく。それでもリンリが関わった事で、僅かでも彼女を思い留まらせられるだけの機会と猶予が有ったというのに。
あぁ絶対に助けると誓ったのに。ふがいなくて。情けなくてしかたない。今のリンリの精神性では『見殺しにした』とまでは自分を卑下したり嫌悪したりはしないが、でも土壇場でソラの内面に寄り添えなかった自分に忸怩たる思い、ただただ統巫屋の皆やサシギに顔向けができない。
自責の念でもう歩みを止めたりはしない。
自分を蔑ろにはしないと誓ったから。だから彼女の犠牲を背負い、心に傷を残しても。リンリはこれからも生きて行くのだ――。
「――俺は……っ!」
地面に爪の跡を引き、拳を固く握り。
その拳に感情を乗せて強く振り下ろした。
――虚空より、寂しげに鈴の音が鳴り出す。
それは幻聴か、そうでなければ何様の仕業か。
熱も、存在感も無い、白い火の粉が舞う。
羽衣が淡く輝き、小刀が包みの中で熱を帯びる。
――囁きが、聞こえた。リンリの内より。
しかしながら『応える』ことは望まれてはいない。己自身でどう『答える』のかと伺っているだけ。人の身である事を喪って、何様かに銀色の毛皮を被らされた一匹の無力な獣の身が、己が本質に目を向けぬまま只人であり続けようとするのか。はたまた、獣でも人でもない何様かに連なる存在として成り、無力をよしとせずに何かを成すか。さて、
「大きな力なんて、いらないから……。
俺に過ぎた力なんて、望まないから。大切なものを大切な場所を失わないよう、誰かの手を離さないで守れるくらいの。厄災なんて追い払えるくらいの。もう後悔を重ねないだけの力が欲しい――!」
間を置かずにリンリは答えていた。
責任を持って。覚悟を持って。己が内へ。
もう本当に。次こそは、失わないように。
終わりを見据えて走り出すも、何故か繋がったその命で。手の届く範囲で最善を選択でき、それを手繰り寄せられるだけの自分を渇望した――。
◇◇◇
――周囲はもう静まり返っている。
鈴成となった火の粉は、朧気に霧散していた。
「…………」
どれくらいそのまま固まっていたか。
感情の整理もままならなず、少し途方に暮れ。それ以外に何もできない状態のリンリの背後。空中から現れて着地でもしたかのよう、一度だけ軽く草本を踏む音が鳴ると、声が掛けられる。
「――ごきげんよう」
リンリが声の主の方を向けば。件の策定の折り、それ以来の邂逅となる黒い片翼を持つ女性。
「お久しぶり。で間違ってはいないかしら?
あの時とは、ずいぶんとまぁお姿が異なっていらっしゃるからぁ……あたくし自信がなくて。性別さえ違いますし。あの時は単に、女中頭さんと共に控える若い御付きの方なのだと大して気にはしておりませんでしたが。まさか統巫であるとはねぇ」
「……統巫――」
「これは困りました。えぇ困りましたわね。
事を荒立てずに。あくまでも監視で留めるつもりでしたのに、もぅ。こんな奥まった場所に来て何をするかと思いきや、女中頭さんを利用され、あたくしの方が誘い出されてしまいましたわ」
場違いな高くふわふわとした声色と、のんびり間延びした口調。やや胡散臭くある喋り方。
肩にかかる長さの黒髪を後方で結い。髪から覗く耳は尖っており。両耳の上から、黒い飾り羽根が扇状に広がって頭部の装飾のようになっていて。右肩から黒い片翼が生え。左腕が片翼の対をなすかのように、人の腕と鳥の翼が合わさった成り。それから右腕が、鉤爪と鱗のある鳥の脚の如きもの。その身体には橙色の羽衣を纏っている異形の女性。
「――はッ! ソラさんは?
あの人は、どうなった……んですか?」
「貴女にはもう関係の無いことでなくて?
それか或いは、そうね。あのまま女中頭さんが死んでくれていた方が、都合が良かったかしら?」
「は? 死んだほうが、良かった?」
「あらあら。だって貴女が女中頭さんを本心から救おうとしたのでしたらね、あたくしが出るまでもなかったでしょうに。造作も無かった。違わなくて? 貴女は落ちる彼女を、その羽衣でしっかりと捕まえれば良かっただけですのに。何故か、そうね。まるで羽衣を上手く動かせなかったように。さりげなく手を抜き、彼女を救わなかったの」
「俺は助けたかった。あれは本当に……!
というか俺は、統巫じゃな……」
彼女は肩の翼を羽ばたかせ、言葉を遮る。
「まぁ。どうでもよいでしょう、今はね。今は貴女が実際のところ禍巫、化狐娘なのかどうかを確かめねばなりませんわ。っと、あらあら。いけない、いけない。疑わし過ぎるとはいえ、まだ断定してはいませんし、本人を前にしてそうお呼びするのはさすがに失礼でしたわね。貴女がいったいどのような統巫かは存じ上げませんが。先ずしっかりと、はい。礼節をもって此方から名乗りましょう」
「……どうでもいい、だと?」
感情を逆撫でするような言葉の数々に、リンリは子鹿のように震える足で立ち上がって。尻尾の毛を逆立て、彼女に険しい顔で向き。目を細める。
対して。リンリの様子を眺めて鼻を鳴らし。
張り付けた笑顔から、猛禽類の如く鋭い視線。
片翼の彼女は小刀を鞘から抜き、名乗った。
「――其の片翼は、有り方を示し。片翼は、在り方を定める。己が身を指針に。三本の脚は天の啓、地で御言宣、末を人に托す。これ天地人の理なり。故に託しましょう、来るべき定の前途を。択一しましょう、迷い多き旅路の最是を。たとえ無辜の人々を啄く事になろうとも。真に正しい務めであると信じて往く。あたくしは統制十六奉位が統巫の一柱、東北東奉位示芯、託統導巫のヒノアサメですわ」
【◆託統導巫◆】
片翼の女性。改め、託統導巫のヒノアサメ。
彼女は小刀を前に構えると、強く言い放つ。
「貴女も名乗りなさい。故あり名乗れぬならば、枝を構えなさい。ええ勿論。当然に統巫ならその意味はおわかりですわよねぇ? 詮ずるところ、あたくしは貴女に諍裁和を挑みますわ。お互いの総てで交えましょう。さぁて女中頭さんを『見殺し』にした貴女の正体、見極めて差し上げます!」
「――――ッ!」
「白銀色の狐姫よ。自らの身は潔白であり、そこに嘘偽り無く。疚しいところなどない! 恥じるところなどない! 何よりも貴女を信じた、女中頭ソラの志に報いるというのならば。さぁ構えなさいな! 烏狐の相搏。一意専心にて力戦奮闘。闘諍の儀を結ぶと致しましょう!!」
「わかった。構えてやる――」




