二章……(五) 【空追い】
――後ろ髪を引かれる思いで帰路へ戻った。
屋根を降り、その後は取り立てて何事もなく。
加えて誰彼とも出会ったりせずに。数分の後には客間へと帰還をはたしたリンリ。
戸の前で「はぁ……」と。人ならざる女体に転じた己の姿について、ケンタイの死の実感、きっとこれからの前途多難。さまざまな感情の整理ができないまま頭の中で回っていて。なかなか精神的に疲れてしまい肩を落として溜め息を吐く。
「……突っ張り棒、実際に差してあったかぁ」
統巫屋の事情を鑑みる事はしていたので、木戸の溝に差してあった竹刀にはそれ以上言及しない。
正直複雑な心境となるが仕方ない。
竹刀を取り外し、さりとて意味も無く素振りをして具合を確かめてから戸の脇に置いておき。自分が脱出した事実なぞ存在しない風に堂々入室する。
部屋の中は、出て行った状態のままであり。
誰にも脱出から帰還までを感付かれてはいまい。
「ただいま戻りまし……痛ァ――ッ!」
入って早々、張りの良い高声で叫ぶリンリ。
どうやら後ろ手で木戸を閉めたところ、不注意で自分の尻尾を挟んでしまったらしい。
身体を飛び上がらせて潰れた尻尾を引き抜く。
滑稽ながら。しばし、尾を抱えて転げ回った。
普通の人間には想像のつかない痛みだろう。
足の甲を重量物に潰され、その痛みが臀部の先から伝わってくるかのような感覚だ。今までは存在しなかった部位からの鈍い痛みに「うごぉぉぉ」と震える涙声で呻いてしまう。
「俺に、ドジっ娘属性とか付加されてたり……」
いや、そんな概念は無い。たぶん。
悲しきかな。どこか抜けているのは元来からだ。
骨でも折れていたらどうしようと。心なしか挟まれた部分から拉げてしまった尻尾の毛をさすり、リンリは青ざめ涙目。何と無しに割座の体勢で木戸に恨めしげな視線を送っていたところ、
「――何事ですかっ!」
「――!!」
突として戸が引かれ、慌てた声が掛かる。
黒髪でサシギに似た顔付きの見知った女性、サシギの姉の【ソラ】が部屋に飛び込んで来たのだ。
彼女は水の入った桶と手拭いを脇に抱えており、リンリの身の世話に訪れたのだろうと伺えた。
「……っ」
「ぁ……」
顔を見合せ、互いに言い淀む。
おそらく互いの抱える感情は同質のもの。
どのような言葉から掛ければ良いのやら、リンリが少女の姿になった件についてどう扱うかやらだ。
「…………」
「…………」
一月半程度の付き合いは、短くもない。
もう彼女とは、ただの『顔見知り』と他人行儀にできるほど関係は浅くはなくて。リンリの己惚れでなければ、友好的に親しくしてもらっていた。
彼女は迷惑をかけても笑って助けてくれ。勝手に長時間労働をするといった自分本位な立ち振舞いをしてしまうと、ちゃんと叱って正してくれた。
サシギが主に教育係なら、ソラは現場責任者として面倒をみてくれた恩人だ。それ以外にも私的な部分で数え切れないほど世話を焼いてもらったのだ。
女中頭という立場は裏方であるそうで、本人は目立たぬようにしているらしいが。統巫屋の生活では彼女も掛け替えのない存在であったに違いない。
とても世話になった間柄だというのに、今更になって、こんな。こんな『気まずさ』は『味わいたくなかった』なと哀感。喉の奥に熱がこもる。身体が竦む。尻尾が垂れ下がってしまう。
だけど、でも。彼女には問い掛ける事がある。
よって先に口を開いたのは此方だった。
「――さん……」
唾を飲み込み、喉を震わせる。
客観的に見れば、だらしなく、しまりなく開いていた自分の股の間を布上から手で押さえて。リンリは少し絞った声量で彼女の名を呼び掛けた。
「ソラ、さん――」
普段のソラの女中頭としての様子、妹と同じく冗談好きであるが規則を重んじる、優しく真面目で活気の良い、人の事を『ちゃん』付けで呼んできたりする愛嬌もある立派な女性。……そんな普段の様子とはうって代わり、リンリが起立と共に呼名すると彼女は臆したように身じろぐではないか。
気にせず近づき。まず最初に、彼女から身分の保証をする言質を得ようとしたところで、
「――?!」
カコンッ、バシャ! 部屋にそんな音が響く。
ソラが脇に抱えた桶が落ち、床板を濡らした音だ。
片方の足袋を湿らせた彼女は、徐々に後退し。
そうして黒髪を揺らし、即座に背を向けると、
「え、ソラさん……どうして?
いや、あの待って下さい、ちょっと――」
開いたままの木戸の先へ駆けて行ってしまう。
予想だにしていなかった態度を取られた……。
「…………ソラさん」
普段日頃の彼女なら、絶対に有り得ない。
濡らした床を放って、相対した者を置き去りにして無言で走り去って行くとは……。
リンリの『待って』の声は、届いていた。
なのにソラを止めるには至らなかった。何故か。
彼女には、ここを走り去った理由があるのだ。
そんな“理由”に、心当たりが無くはない。
彼女に伸ばした掌を、裏返してみた。
「俺は、どうするべきだ……?」
――自分の細指の先には鋭い爪が生えている。
遠目では女性的な桜色の丸爪のようでいて、先端が鉤爪状になっており、狩猟獣の如きもの。
鋭爪は後々切るけれど。その前に、もし力加減を誤ったのなら、もし配慮が足りなければ、もし失念してしまえば、容易く相手を傷付けうる危険性を孕んでいる。でも、だからといって……。
「決まってるだろ! あの人を追うんだ!
このまま、ソラさんを放っておけない!」
――だからといって、誰かと手を繋げなくなったわけではない。自分は繋いだ縁を離したくはない。一度でも繋ごうと伸ばした手を、相手を傷付けるかもと危惧し諦めて、引っ込めたくはない。
シルシがそうであったように。相手の方にも手を伸ばしてくれない理由があるなら、相手に歩み寄って行きその理由を知っておかねばならない。後々に後悔しないように、後悔させないように。
「――ちゃんと追わないとっ!」
――リンリとは、こんな人間だった筈。
「よし。追おう、あぁ追うぞっ!
ここで追わなきゃ、ソラさんがずっと遠くに行ってしまうような。嫌なイメージが頭に浮かぶ……」
この姿で筋肉野郎などに出会い、ややこしい事になったとしても。まぁその時はその時だ。今ここで何より優先するべきは、様子のおかしかったソラを捕まえて、必要な対話をしておくこと。
「……また妙な胸騒ぎがしてきたし」
そうと決めたなら、早う行動しなければと。
箪笥から乾いた布を取り出して、濡れてしまった床板に被せておく。長めの手拭いをサラシの代わりに胸に巻く。股間にも褌の要領で手拭いを巻き付けておく。箪笥に入っていた女物の羽織を、長襦袢の上に直に身に付ける。これで準備はできただろう。
とはいえ、如何にして追うか。
とっくに走り去ったソラを追うのは困難。
「ソラさんの着物の、お香の匂いを追えば――」
困難か、そうでもない。嗅覚の鋭くなった今の身体ならばそう難しくはないと思えた。リンリの父親はお香が趣味の一つであったから、自然とよく話題に付き合わされていた。だからリンリにもその分野の知識はあるし、嗅ぎ分けられる。
ソラが普段から着物に焚き付けている上質の伽羅のような香木系の匂い。それを辿れば苦労せず追い付けるだろうと見越した――。
◇◇◇
「ハァハァ……、居た……んっ!?」
――ソラを追ってたどり着いたのは、統巫屋の領域でも南側の端といった場所か。まさかこんなにまで遠くに来ていたとは……。確実に匂いを辿らねば途中で見失っていた。門を越えて、田畑を過ぎて、森林を抜けて。たどり着いのは、遠方の美しい山岳がこれまたよく眺められる崖の手前の広場。
ソラは息を切らして、踞っていた。
注意を促す為に立てられている何本もの杭、その杭に巻かれている注連縄。それは外界との境の標で、すなわち先には何も無い断崖がある。
思わず冷や汗が流れる状況であり――。
「――ソラさんッ! こんなところまで来て何やってんですかっ! 危ないですよッ!!」




