二章……(三) 【水難の質】
――これは、晴天の艱難だ。
股の間に手を添えて、身を屈める少女。
彼女は苦悶の表情を浮かべて、荒い息を吐く。
先程までは問題なかったというのに。
気が付いてしまうと、そこで嚆矢が射られる。
生理現象。現状は『尿意』という奴だが、時と場所を弁えずに踏み込んで来るから困りもの。大抵は『よりにもよって』な期に襲い来る。
「服を……まず、服を、着ないとぉ……ぉ」
まさか。最近ようやく自覚し始めた『水難の質』が不徳などにより悪化し、体内環境にまで及んだという事ではあるまいか。だとすると非常に恐ろしい。
まぁ深い理由はなく、寝起きだからだろうが。
とにもかくにも。このままでは正真正銘の失禁少女に、でなく失禁野郎になってしまいかねない。冗談じゃない。なんとしても阻止しなければいけない。
これが男性の身体であれば、泌尿器に突起部分が存在するだけ猶予は長いし。奥の手として、突起を掴んで締め上げる事で、水分の決壊を物理的に食い止める荒業も有るというのに……。
「……冗談じゃなく、マズイ……漏れそう」
リンリは下らない思考で気を紛らわしながら、脱げてしまっていた長襦袢を着付け直した。
悲しい事に尻尾の通し方が解らず、尻尾が動く度に臀部の布を捲り上げてしまう。加えて、一枚布な下着の着用も出来ずに、とりあえず腰に巻いただけの『穿いていない』みっともない装いである。
――鏡面を見遣れば、これは酷い。獣耳と尻尾のある銀髪の見目麗しい少女が、自分の股の間を押さえて、衣類の着崩れたあられもない姿で赤面蒼白しつつ内股で震え唸っていて。客観的に自分自身の姿を顧みると、これ以上に無く不様な醜態を曝している。もう体裁も何も気にせず咽び泣きたくなる。
中身が成人男性の少女の醜態なぞ、一体全体誰彼に需要があるというのか。此土が仮に物語の類いであるならば、狂った作者に物申したい。
案外もしかしたら一定の需要があるのかも知れないが、本人としては絶対に御免こうむる。
登場人物の性別が、後天的に転換してしまう物語はありふれているが、その当事者が抱えるであろう“苦悩や恐怖”の感情に対して、リンリは魅力を一片足りとも見出だす事はできない――。
朝起きたら性が転換していた、なんて絵空事。
そんな奇譚に個人的な趣味嗜好の関心があり、魅力を感じる人間というのは、果たして世界のどこかには存在するのだろうか――?
「着れた……ぐちゃぐちゃだけども」
そうこうしている間に、支度を済ませる。
乱れた衣類を整え、尻尾の動きを律して、髪を鋤いておき、最低限の姿を取り繕うリンリ。
「はぁ……我慢だ、トイレまで、なんとかっ!」
かといって、その程度の取り繕いに意味は無い。この姿を目撃されれば不意の気恥さで、リンリの脆弱な心が死んでしまう可能性がある。そうなると脱力して放心して最悪は失禁まで伴う危険性あり。
だから、厠の往復路では「誰にも出逢いませんように」そう願い掛けておき。出口の木戸へ急ぐ。
脳内に仕舞った見取り図を広げるリンリ。
客間から最寄りの厠までは、そこまで離れてはいない。記憶の通りなら、廊下を突き当たりまで進み、一度だけ曲がって再び進み、履き物をして離れの小屋へ向かえば良い。そこが目的地の厠だ。……離れていないが、近くもないのが難点であるが。
けれどまぁ、急いで向かうしかあるまい。
戸を引き、全速力の出立だ――。
「あれっ?! あれ、どうしてっ?!
何だと。嘘だろ、扉が開かないぃっ――!?」
――と、予想外の事態。
出入口の木製の片引戸が開かない。
がたん、がたんと。妙な抵抗で動かない。
客間には外側からの施錠なんてできないし。手応え的に考えると『錠』というよりも、もっと直接的な障害で開かないようにされているような……。
例えば、そうだ。向こう側の戸の溝に“突っ張り棒”でもありそうな手応えが返ってくる。これではお手上げだ。引けども引けども動いてはくれない。
「開かない……。開か、ない……どうしよう」
もしや故あり。自分の身が軟禁でもされているのではと、要らぬ不安が頭を過ぎるリンリ。
いっそのこと、もう「蹴破ろうか?」と手っ取り早い方法を口に出すが、思い止まる。
「いや、そりゃダメだろ。お世話になってる場所で器物損壊は俺的にちょっと禁じ手だ。それにそんなことすると反動とか衝撃やらで漏れる。うん漏れる……漏れるぅっ!」
涙声で見回し、手段の模索に注力する。
第一に退室を急がねばと。そこで室内に射し込む晴天の陽光がリンリの視界にちらつく。
「よし。扉がダメなら、窓はどうだっ……!」
部屋には少し開いた障子窓があり、窓を全開にして頑張れば行けるかと判断。男性だと肩幅で通れないとしても、華奢な今の身体なら通れるか?
内股でゆっくり移動し、障子窓を開く。
すると窓の外縁に居た、とぼけた顔と対面。
「烏か……? 羽休め中に悪いな、ちょっぴり窓縁を退いてくれ。急を要する事態だからっ」
尚もとぼけた顔の烏は、退いてくれたりせず。頭を傾けて不思議そうにしている。その黒い真ん丸な瞳の中には、端麗さを損なってはいないが、けれど凄まじい表情の狐娘が映っている。
放っておいても退いてくれなさそうな為、リンリは烏を両手で持ち上げて空に向かって投げた。烏は不服そうに一鳴きするも、構ってはいられない。
「えーと大丈夫だ、この窓の幅なら通れる……。
平気だ。ノープログレム。問題は無いだろっ!」
手を掛けて、踏み込みの一歩。
華奢で身軽になった身体で、リンリは易々と窓を乗り越えて庭に出……られなかった――。
何故か。何故なら、
「――尻が……引っ掛かるとは……ひっぐ」
そのような有り様で。
男性の身体よりも少し膨らんだ臀部。尾骨から伸びる豊かな尻尾の付け根。そんな身体的要素を加味していれば、臀部が窓に引っ掛かかり動けなくなる最悪の状況へは発展しなかったのに。
丸出しの下半身を室内に残したままで、上半身だけ中庭へと乗り出したリンリの頭に戻ってきた烏が止まり、まるで嘲弄するかのよう「アホー」と鳴いてから飛んで行ってしまう。
「あぁそうだよ『アホ』で悪かったなっ!
こりゃ比喩じゃなく泣きたいぞ……ひっぐ」
体勢から、押すも引くも叶わない。
「ふーぅ! うーぅ! 何故に抜けないぃ!」
窓の外縁を支えとして両腕で力むも、しっかりとハマっていて抜けられない。
「ひっぐ……ひっぐっ、もう限界だ……あ!」
腰を振り、臀部を振り、足をばたつかせ。
その時、奇跡的に長襦袢が脱げかけて弛み、ハマっていた箇所に隙間が空く。一度そうなれば、滑るかのように。生理衝動の限界目前で窓縁を抜けた。
重力に従い、頭から落下したリンリは、猫じみた柔軟な受け身を取る事ができて着地。
けれど、じわりと沸く下腹部。
穿いていない下から、太腿にかけての水が一筋。
ぽたりぽたりと地面に水滴が落ちる。
「くぅぅ、かくなる上は……!」
ここは幸い、中庭には誰一人も居なくて。
客間から見えるこの中庭の景色は、四季折々の花や低木が植えられ。自然の彩り豊かに整えてあり。
「――そこしかないっ!」
もう数秒も猶予が無いので、最寄りの身を隠せる場所への退避。中庭端の低木茂みに飛び込んだ。
その後、静寂が過ぎて。数秒ほど。
「…………ぁ」
茂みの内より、囁くような水音が立つ。
すでに冬場であり、低い気温で湯気が昇る。
その周囲の砂利が、心なしか湿りを帯びる。
「……ぁ……ひどい辱しめ……だぁ」
茂みより、震える小声が発せられた。
何をしてしまったかは、言うに及ばず。下腹部の水気の残った泌尿器を、生えていた葉っぱで拭き取ったリンリは茂みからそっと顔を出す。上気した顔色と表情。今味わったこれまでとは異なる感覚の解放感に胸を撫で下ろし目を細める。
一難去った安堵と併せて、自分自身の肉体だとしても少女の身体でしてしまった行為に背徳感やら罪悪感。男ではなくなったことへの実感、そこに含まれる喪失感や寂寥感に染められる。
「セーフだが、色々とアウト……だ」
どちらかというと、間に合わなかった。
「ハハ……」
乾いた笑いが滲み出すリンリ。
いつまでも立ち尽くしそうな様子であったが、
「うぐぅっ、こんな。こんな恥ずかしいの。
俺はいつか、慣れられるのだろうか……はぁ」
それでも牙を食いしばり、茂みから歩み出る。
統巫屋で成長したリンリは、前のように簡単に茫然自失で支離滅裂で自暴自棄になったりはしない。変容した姿を受け入れると決めたのだし。
「……とりあえず。申し訳ありません。
庭師の人に、心からの謝罪をしておきます!」
粗相をした低木茂みに一礼して、
「そいで、そうだな……。
俺の身に起こったことは勿論だし。禍軍襲来から統巫屋がどうなったか。禍鼠が領域内に入って来た理由も“あの人”に問い質して訊かないといけない!」
表情を引き締め、頭から今の一件を消去。
リンリはその変わり果てた姿で、新たに“これからやるべき事”を定めたのであった。言わば新生の一日目。これより艱難の多き一日目が始まる。




