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二章……(二)  【鏡面の誰某】


 ――まさしく青天(せいてん)霹靂(へきれき)だろう。


 高く張りのある美声。少女(じぶん)の叫び声に驚き、リンリは即座に口を閉ざす。勿論、こんな現況で(だれか)でもやって来てしまったら堪らないからだ。

 鏡面の彼女を見遣(みや)ってみると、狼狽(ろうばい)の感情を汲んだ尻尾の毛が、寝巻(ねまき)として身につけている襦袢(じゅはん)のような衣を持ち上げ、身体の後ろで逆立っていた。


 少女は唇をわなわなとさせ開閉を繰り返す。


「…………っ」


 頬に手を当てて、流し目で視線を逸らした。


 リンリは、ただただ(おのの)くばかりで。

 しかし、ならば現況(これ)が『夢である可能性』に(すが)るしか有るまいと頷く。とりあえずの後ずさり。鏡前から尻這いをして後退し、可能なだけ距離を取ったところで箪笥(たんす)に背中をぶつけた。その拍子に後頭部も強打してしまい呻く。


「……んぐっ、痛っぅ……!」


 ――なるほど、現実なのか。


 痛みを伴う古典的な方法で、これが現実であるとの証明を果たした。元より、夢を夢であると認識できる器用な人間でなかったのは自明だが。


 なにを慄然(りつぜん)としているのか。濃厚な死を思わせる禍鼠(バケネズミ)と対峙した後なのだから、この程度「朝飯前だろう、そうだろう」と自己暗示の言葉を呟く。

 痛む後頭部を擦り、鏡への再接近だ。仮に夢でないなら見間違いでありますようにと、不安や恐怖で小刻みに震える手で鏡の縁を掴むリンリ。


 そろりと覗き込む。すると、


 ずずずと顔を出した少女と、目が合った。

数秒は見詰め合い、共にいたたまれぬ表情。


「うぐぐ。やっぱり俺だぁ……」


 鏡面の内は、先程から相も変わらず少女(じぶん)の姿。

 慣れ親しんだ貧弱もやし男(リンリ)の顔では無い。


「……原型を留めていないぞっ!!」


 鏡縁を指でなぞり、少女(じぶん)をまじまじと観察する。

 悲しいことに、やはり語彙が足りておらず陳腐(ちんぷ)な表現しかできないが。どうにも現実感の薄い、見る者を心惹かせる容姿の少女であった。

 彼女(これ)が創作世界上の人物というならば、リンリの個人的な好みの範疇なものであるが……。


「これは若返ってるのか……?」


 次いで、気になった。


 大人の女性というよりか、やはり少女だ。

 その容姿からして齢のほどは十六、十七程度といったところか。その金銀の特有な色彩のせいもあるだろうが、童顔小顔であり年齢が解り辛い。あの系統導巫様をもう数年ほど成長させ、目元を鋭めにし、表情に影をさしたりすれば、まぁなかなか似ているやも……。あぁいや、簡単に二、三巡ほど歳の離れた『姉妹』のようだと例えれば良いか。

 因みに実年齢は二十と少しで。肉体として本当に若返っているのか、若く見えるだけかは不明。


「身長も、ちょいと縮んでいるような……」


 ――加えて、彼女(じぶん)は普通の人間ではなし。


「――ファンタジーな姿だことで」


 頭上の獣の耳に触れる。

 他者から身体を擽られている気分だ。指から抜け出すように意識しないまま耳を動かせてしまった。


 更に尻尾の毛に触れる。

知らない身体の部位からの感覚に息を呑んだ。


 光の加減で青みを含ます白銀色の体毛。

 喩えるとするなら。深々と積もった雪原を、澄んだ真冬の玉桂(たまかつら)が照らし飾っているような銀。麗やかな白銀色に彩られた、狐を思わせる豊かな毛皮の尻尾や獣耳を持った身体。


 次に一級の琥珀(コハク)を思わせる金の虹彩(こうさい)の瞳。

 縦に伸びた瞳孔は狩猟を行う獣のもの。虹彩は反面で人のもの。獣と人の特徴が調和し、厳かで神聖な印象を与えてくる。

 そして瞳全体での雰囲気は冴え冴えとし、濁り淀みはなく。それでいて、どこか消え入りそうに儚げな光を灯しており。春の払暁(ふつぎょう)の空に顔を覗かせた旭光(きょっこう)の如き、静穏で温かな耀きを放っていて。


 瞳の縁を(あや)なす長い睫毛(まつげ)と切れ長の眼元は、端麗(たんれい)さと共にたおやかな高貴さをも感じさせた。

 影のある表情も、特有の風采と合わさり、不思議なほどに似合い調和していて。さながら俗世のケガレを知らぬふりをし純粋無垢であろうとする少女、あるいは、内に何かを秘める思慮深く聡明そうな少女という印象を添える。


 系統導巫様に近しい特徴の一匹の狐娘だ。

 尻尾や獣耳は意識すれば自在に動くし、指に力を掛けると鋭利な爪が僅かだけ先に伸びる。

 木材の香り、土の香り、焦げ臭さ、何処かの匂いまで嗅ぎ分けられる。ついでに鼻炎が落ち着いていて良好だ。犬科らしき特徴があるだけあり、この身体は鼻が利くらしい。

 聴力は、今はちょっと解らない。視力は、もともと悪くは無かったので前と変わらない。獣っぽい瞳でも色彩の見え方は人間と同じであり安心。


 一通りに確認し、心に魔が差した。

 あどけない顔で、初々しき仕草で、


「わたしは、おリンちゃん……?」


 尾を大きく振り、丸めた掌を掲げ言ってみた。


「だにゃん……いや、コンっ!」


 試しにやってみて、凍り付くリンリ。


「自分で言って、心に深刻なダメージを受けた」


 もう二度とやらない。


 外面の姿としては、こんなものか。


 次に、無くなった喉仏の辺りを撫でてみる。


「あー、あーあ。うぁ声優さんみたいな声だ」


 自分でよく聴く為に発した声。それなりに成長した女性の凛とした張りを内含した綺麗な声色だ。


 高く透き通った声色を紡ぐ、小さな唇。

 口を開くと、不釣り合いに尖った犬歯。八重歯ではなく、硬肉を容易く噛み千切れるであろう獣の牙が生えている。とはいえ、少女の小さな顎と口では肉をムシャムシャするのは難しいであろうが。


 口を半開きで、唇に指を触れさせて、上目遣い。

ふしだらな顔をしていたものだ。恥ずかしい。

 リンリは客観的な事実に首を振って喚く。


「違うんだ。違う、違う。

つまらないカミングアウトすると、獣娘キャラは特有の所作が愛らしくて好きではあるが。あと猫耳メイドカフェとか入った経験も有るけども。自分自身がそれに成りたいわけじゃなくてぇ……」


 少女の神秘性すら感じさせる容貌で、麗しい銀髪をかきむしり、グシャグシャにする。


「これじゃあ誰も、俺って解らないだろう……。

俺が俺だって、解らない……俺自身も……」


 喉から「クーン」と鳴き声が洩れた。


 ――どこを取っても、人ならざる存在。

人とも獣ともいえぬ曖昧な姿の少女だこと……。


 自分が自分以外の誰某(たれそれ)に成っているという事実は重い。よくある『起きたら美少女』なんて創作物では使い古された展開であるが、現実で自分の身体で体験することになるとは夢にも思わなかった。苦い記憶だが『ハズレくじ』で仕方なく女装させられた経験はあっても、美少女本体に成りたいと思った事は無い。


「はは、は……はぁ――」


 苦虫を噛み潰した顔で、渇いた笑いを浮かべ。

 そんな声も変わり果てていて、溜め息。


 普段の思慮分別を欠き。何を思ったか、そこでリンリは寝巻の細帯を緩めてしまった。

 別に『裸になろう、裸を見よう』という、創作物ではお約束だろう手順を取ろうとかの意図は、肝がとても小さいリンリには無くて。

 たまたま普段の習慣である、起床後の着付けの手つきをしてしまったというだけ――。


 ――だけ、なのだけど。結果は同じく、


「――あ」


 寝巻の長襦袢には尻尾を通す孔があり、いざ緩めると脱げてしまうのだ。リンリがそんな構造を知る由も無く。垂れ下がった尻尾の動きで衣が引かれ、途端に(あらわ)になる柔肌(やわはだ)。加えて腰に巻かれていた下着さえも同時に落ちて、全身の色白できめ細かな肌を露出させてしまう。


 ――生まれたままの姿を(さら)す、銀色の少女。


 華奢(きゃしゃ)であり。健康的な痩せ形の体型。まるで無いわけではないが、肉付きは控えめ。

 髪や耳や尻尾以外にも、腰回りや背中側にもすべやかな美しい銀の毛皮が覆っている。


 彼女はきょとんとして、ゆっくり(うつむ)く。

 視線を落とし。性徴の主たる部分を直接確認。

 形良き程よく膨らんだ茶碗大の双丘を、及び、頂点に位置する桜色の桜桃(おうとう)を瞳に納める。

 間を置かずに、魔が差してか。細く繊細(せんさい)な指でもって桜桃を摘まんでみて、でも実感が足りずに、丘そのものを五本の指で()(しだ)いてしまい失敗。口から「んぁっ」走った未知の感覚に我慢ならず、いじらしげで官能な声を上げた。


「これは……マズイ……んっ!」


 双丘というか、果実というか、乳房(ちぶさ)を揉んだだけで再び身体中に知らない感覚が駆け巡った。

 獣耳(あたま)の先から尻尾(あし)の先までが総毛立ち、熱を帯びてしまい、若干の発汗と涙腺の緩みに見舞われる。性的な刺激だろうか。これが異性的な(女性の)自分を慰める行為に他ならぬのは、義務の教育で得た知識から理解できてしまう。


「止めろ、止めろ! なにやってるんだ俺は!

この世界が十八禁になるだろっ!」


 よもや、自分の肉体で経験するとは思わなんだ。


 胸に伸びていた手首を握り締め、強く離す。


 牙を噛み、ギリリと鳴らした。


 鏡はもう、敢えて見返しはしない。

股の間の様子を、乳房越しに涙目で睨むリンリ。


「――無いか。あぁ、無ぃ……そんなぁ」


 下を向けば、突然の残酷な訣別(何もないこと)を視認。


 そこには男性的な性徴というか、陰部というか、亀の頭というか、突起物というか、凸主張というか、急所というか、砲身というか、筍というか、刀というか、竿というか、象さんというか、相棒というか、猥褻物というか、そんな類いの物体は、生まれた時から存在なぞして無かったかのように消失していた……。

 ただ女性的な、主張しない峡谷。細やかな泌尿器が存在しているだけであって――。


 ――とてつもない衝撃だ。


 一人の男として産まれ、過ごし、成長した。

 いつか父親のように誰かの為になる職に着き、普通に誰かを好きになって、共に家庭を作って、子供が産まれて、忙しい日々が過ぎ、子供が独立して、いい歳になり働けなくなり、日向ぼっこでもしながら健やかに老いて一生を終える。取るに足りないけど満ち足りた平凡な人生を歩むと思っていた……。

 ……なのにこれか。先の一件【禍群襲来】でどうやら死にはしなかったが、何の因果か自分という男の喪失は必定であったらしい。


「どうして、こんな……?」


 股の間を撫でて息を詰まらせるリンリ。


 掌の感触は嘘偽りでないと。身体が証明。

 

 溢れ出た涙は、哀愁の心に染まり流れた。


「でも、俺は……。生きてる……」


 とはいえ、どんな形であれ自分は生きている。

偶然でも必然でも、運命でも選択の結果でも、代償や失ったナニかがあるにしたって、駆け抜けて勝ち取ったこの生命を蔑ろにはしていけない。


「こんなに、嬉しいことも……ない。ひぐっ」


 まだ、続けられるのだ。皆との日常を。


「あぁ、そういえば――」


 そうだったと。記憶の中で自分に対し、語りかけ問いかけ続けていた系統導巫様の姿を想起する。

 強面巨漢が最期に『己を継げ』と叫んだ。

 鼠から自分を逃がし、着物を散らした童女も同様の意味合いを持つ言葉を遺してくれた。


「やっぱり俺は、死にたくなくて……」


 そのまま死んでしまう結末を認めらず。

 縋る思いで彼女の言葉に頷いた事を……壊れていた頭なりに記憶している。彼女の言ノ葉の意味も知らないままに、何かに頷き、約束をした。


 思うに、この姿は使従の皆に近しい存在。

使従、彼女の眷属の如き存在ではないのかと。


「……それで、この姿で、生かされたとか?」


 寝起きのアレは、寝惚けていただけとして。

 精神的にも肉体的にも、あの穢不慣(イヌモノミテキ)の悪影響は鳴りを潜めている。不思議ととても調子が良いのだ。そればかりか、この此土(せかい)で過ごした時間の中でも、今が全盛の体調とさえ断言できるだろう。

 一度それが発症まで行けば、自分にとっての『不治の病』と伺っていた筈が、ともすれば『完治』しているのではないかと期待するまでに良好。


「ナニかを代償に、約束して、こうなった?」


 想像の域を出ぬが、遠からずな見解では?

 曰く『統巫との約定は、それ即ち神様との契約』だから『意図しなくとも。場合によっては、その者の命や在り方、感情さえも支配しかねない』と。


 ではこれは、身から出た錆。因果応報。呪い。

いや違う。断じて違う。そんな言い方は良くない。自分の選択の結果で、二人の契約の結果であると推測。そうならばこれは祝福、恩恵だ。あの優しい神様の与えてくれたもの。悲観する理由がどこにあろう。


「……なら、最初は『ありがとう』だな」


 だとしたら、哀愁に暮れていてはいけない。


 両手を回し、自分の身体を優しく抱きしめる。


 いと愛おしげに、柔らかな全身を撫でてみる。


「もし女の子になるか、死ぬかっていったら。俺は迷わず『可愛い女の子になる』の選択するよ」


 ――良いとも。人間の男としての全てを失い、総てが変容しようとも、構うものか。与えられた命を可能な限りで精一杯に再燃すると誓う。与えられた分以上に誰かを守れるようにすると誓う。与えてくれた人達にどれだけだって恩返しすると誓う。リンリは誓う。


「親父。俺は、まだ生きるから……!

だから。まだ、そっちには行けないから……」


 父親に断っておく。


 本当の父親と、自称オヤジ。二人の父親に。


「でも。これから俺は、どうすれば――」


 続けて、今後への憂いを溢れさせた。


 そうしたところで、リンリは突然に表情をひきつらせてしまう。掌で股の間を強く圧迫する。


「――うぅ。こ、これは……?」


 生きているからこそ、しかたない生理現象。


「取り急ぎ、トイレに行きたくなってきた……」


 ようするに、廁に行きたくなった。


 

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