一章……(三十六)【決戦】
――走り、走り、走りッ!
一心不乱に一人独走。
――走る、走る、走るッ!
ただただ一生懸命に。
――走れ、走れ、走れッ!!
一進一退の競い比べ。
「――ハァ、ハァ……!」
一切合切を賭け進み行く。駆け抜く為に。
一殺多生ではないけれど、皆を守る為に。
「ん……ハァ、ハァ……ッ!」
脇目も振らず走る。速歩、刻み、急ぎ足で。
どれくらい進んだか。何処まで進んだのか。
駈ける。駆ける。命を賭けて、歩を止めず。
「――ハァ、ハァ、ぐっ……!」
筒より昇る白煙。
誘引の煙が、深靄の中に朧気な軌跡を描く。
振り向くなかれ。
軌跡を辿り来るぞ。褐色の波が迫っておる。
前途を見据えろ。
宛ら何処かの笛吹き男。鼠を連れて一目散。
もしも仮に、
筒を放り出せば、楽になるけど。
でも駄目だ、
それは出来ない。してならない。
だって既に、
もう覚悟は決めたから。
もう決意を抱いたから。
故に我行く、
崖を伝い、北へ行く。
守る為に、北へ行く。
「ハァ、ハァ……。なんとか、ぎりぎりで追い付かれないな。走って、さえいれば……ハァ!」
木の根を飛び越え、
落ち葉を踏み締め、
枝葉林をかき分け、
「まだしばらくは保つ……な、ハァ……ハァ。
呼吸を整えて、体力を温存して。少しでも、多く長く走り続けるんだ。まだいける。自分を信じて、どうにかハクシ達の所まで行っ――」
――ブツリッ、と。
――そこで草履の花緒が切れた。
いっそ草履は脱いでおけば良かったのか。しかし気が回らなかった。あぁでも仮に慣れない獣道を裸足で進んでいたとしたら速度は出ず、ここまでの道程で鼠達に追い付かれていたかも知れない。
そう一瞬の間で心慮が過ぎて行き。色々と悔いたとしても『既に遅し』と割り切るリンリ。
思考の傍ら、現実は非情であって。捻っており痛む足を、利き足の方に縺れさせて大転倒していた。
「――うわっ! がは……ッ!!」
ごろごろと。視界で天地の入れ替わり。
湿った落ち葉の敷物に転がってしまう。
手放してしまった筒も転がってしまう。
「……く……そぉ! ……ハァ、ハァ」
発香筒に手を伸ばそうとして、届かない。
手が震える。目の焦点が合わない。心音以外の音が聞き取れない。胸が張り裂けそうだ。走るのを止めたせいか、極度の興奮と集中の状態が途切れ、押し留めていた疲労と痛みの関が決壊してしまったように一気に襲ってきた。
「……肝心な時に、俺は……いつも駄目だな」
そんな事を言いたくないのに、口から弱音。
まるで風船に穴が空いたような、感情の吹き出し。
「諦めても良いかな……。俺なりに、頑張った」
昂らせた感情を押し退け、本心からの吐露。
熱する為の燃料が漏れ出すよう、感情が落ち込む。
「違う。動け……動かなきゃ……。俺は、まだ」
身体も感情も制御がままならない。
これが俗に穢不慣と呼ばれる病なのだろう。そういえば怪しい記憶の混濁にも襲われたばかり。精神が瓦解するような感覚やら、呆然自失で不可解な意識の浮き沈みやらもあった。これは明白。聞き及んでいた症状と合致する。
となると、もう現状の否定はできず。気が付かぬフリも叶わない。外界に出てから早くも、自分は不治の病を“発症”してしまっているのだ。
「まだ、まだ……なのに。それ、なのにッ!」
そうだからといって、諦めたくない。
もう『あまり生きられない』事と、ここで『諦めて死を受け入れる』事は等しくはないから。リンリはまだ、まだ足掻く。足掻き続ける。足掻き続けたいのだ「なのに」どうして、身体がまともに動こうとしないではないか。
走ってきた方向に瞳を向けると。焦点の合わぬ視界でも、深靄越しにでも褐色の波が迫っているのが視認できた。もともと“付かず離れずの距離”だった故に、転倒すれば追い付かれるのは当然だ。すでに鼠の群れは、目と鼻の先まで迫っている。
「――あぁ、もう、駄目なのか……?」
残酷な結果……。最期の言葉が漏れた。
リンリが褐色の波に飲み込まれるまで、そう長い時間はかからないだろう。どこにも抗う為の手段が無い。指折り数える暇もなく餌食となる。
そう理解してしまうと。体感上の時間が引き延ばされ、また走馬灯だか白昼夢だかが頭を巡った。
『――俺、無理してました。
今も無理してます。これからも、きっと無理していきます! 本当はとても大丈夫なんかじゃない! 俺の精神は綿毛以下の強度しかありませんから。
でも俺が困難に当たったら、そんな時は『 』って言えるようにするので……』
『――俺は強くは無いからさ、強く変わることもできないからさ。俺がもしピンチに陥ったら、躓いて転びそうになった、その時が来たとしたら。……キミも俺を『 』くれ。今はそうやってお願いしておくよ……』
――とっさに掬い上げた記憶の断片。
――そうだった。統巫屋に訪れ、統巫屋で得て、学べた。大切な事柄があった筈だ。
それが欠けていたから、リンリは精神的に未完成で大人に成れなかったものであり。それを諭されたから、己を省みてここまで歩いてこられた。それこそ自分という人間の『白紙』を埋める重要な言葉であった筈。いざという時に、それを言えるかどうかが人間の強さであるそうで、
「誰か――」
大丈夫だ。思い出せる。たった一言。
これは辞世の句というわけではない。
ここに“居た”自分という人間の追憶。
終わるとしても、言っておかねばと。
故に口を開いて、息を吐くよう言う。
「――助けて……」
……リンリは、己の最期の言葉を覆した。
言葉が端を発したように木々がさざめく。
深靄を吹き飛ばす勢いでもって、鼠の波とは異なる方向より接近せし、小さき影の主。
鼠の波に飲み込まれる。僅か刹那の猶予、
「ふはー。やーと見つけた~!」
着物の振袖を揺らめかせて、降り立つ声。
リンリの眼前に小さな人影が落ちてきた。
長めのおかっぱのような黒髪に、幼さないながらも整った……日本人形を連想させる童女。
「ココミ、ちゃん……?」
――ココミ。何故、ここに?
彼女は着物に付着した葉や埃を払い、後ろ髪を結っていた簪をスッと抜き取ってから振り向く。
「そうだよ、ココミ。やくそくしたから、しかたなく来てあげたよ。よく生きてたねー!」
――約束、したから。来てくれたと。
「お兄ちゃん、安全そうな上に投げるね。こんなじょうきょーだから、文句は言わないでよ~?」
「……えっと『上に投げる』ってのは」
何処からか落ちてきたココミは振り向いて、そうやって簡明に述べると。彼女は直ぐに行動。うつ伏せの体勢であったリンリの腹に腕を通して、やや難儀しつつ抱えるように持ち上げる。
到達した鼠の先陣を踏み潰し。童女の小さな身体をその場で一回転させ、遠心力で斜め上にリンリを投げ放った。
「んうわっ――うぐッ!」
予想していなかったココミの登場に戸惑っているうちに投げられて、リンリは腹部を強打。
どうやら、側に生えていた高い木の、地上から九尺はあろう位置の太枝に引っ掛けられたらしい。
ココミによって救われた。だが、彼女本人の身はいったいどうする。リンリは太枝から落ちないように首を傾けて、身代わりのよう地上に残されてしまった童女へできる限りの声を飛ばした。
「――ココミちゃん、キミはっ!?」
できる事なら、ココミを引き上げられないかと。
下方へと震える手を伸ばして、リンリは止まる。
何故なら、とっくに手遅れ。彼女の姿は隠されてしまっており。今の今まで居た地上は最早、厄災鼠達の褐色の毛皮という波面の下へ沈んでいたから。
――ココミの身に纏っていた着物の生地が、無数の凶牙による激流でバラバラに裂かれて、厄災の波打ち渦で散っていた。それではとても『無事で済む』という想像ができない。もしや、そうか。リンリの代わりに、彼女は犠牲になったのだ。
「……俺の、為に?」
ケンタイに続き、ココミまでもが犠牲に。
「…………いや」
そう思いきや、褐色の波が一部分のみ丸形に割れるではないか。そこに彼女の姿。無傷とはいかなくとも、いくつかの細かな切創外傷で済んだ様子の彼女は身を小さくして伏せていた。
着物や下着を裂かれて、衣類といえばボロ布が僅かに身体に残るだけ。ほとんど裸姿の童女が、両手両足を大地につけて構え。獣の如く「グルルル」と喉を鳴らし、不愉快そうに唸っている。
鼠達は強力な誘引の煙に惹き付けられも。なお少しは働く本能からココミを警戒し、彼女に触れないよう僅かに空間を開けたという事か。
――斯様な場に赴いて来たのだ。幼い見目ながら使従という位に就いていたココミは案の定、ただの『毒舌童女ちゃん』ではなかったらしい。
「――グルル。あはは、群れたネズミふぜいが、よくもやってくれた。ゆるさない。嫌いじゃなかった筋肉だるまと。おもしろくてばかげてる、あたしの獲物に手を出すなんて。ココミのなわばりにふみこむなんて……久しぶりに血が沸いた」
童女に相応しくない、声と形相。
重苦しく芯のある低音で、唸り声混じりの牙を研ぐような言葉を響かせるココミ。
「ココミちゃん、身体が……」
言い進める程に、ココミの黒髪が脱色されたよう白く染まり。言い終わる頃には、帯状に黒い髪を残して彼女は白髪となってしまった。
時を同じくして。人間の丸耳が尖り、髪と同色の毛が生えて獣の耳となっている。
「そうか、サシギさんみたいに……キミも」
次いで構えるココミの両手両足の皮膚が、白い野性的な毛に包まれて行き。両手は掌の形をそのままに肉球のある鋭い黒爪の生えたものに。両足は踵が伸びた四足獣の形に変化する。
それら仕上げとばかりに彼女の腰又周りや胸周りまでも白の獣毛が覆い、臀部より猫科のものに近い縞々の尻尾が揺れながら現れると、彼女の“人ならざる”存在への化身は完了した様子であった。
「あたしは、けいとうどうふの使従、ココミ。
前身は失せて久しく。言葉の意を求めて久しく。数代の友を看取り、さまざまな命を見送り、今日まで在り続けてきた。もういい潮時だ。いつか時代は代わり、次代が立つのが人の定なら。ここでココミの全てを対価にでもしてあげる。彼の土地よ、彼ノ者よ、あたしの命をお好きな分だけ奉る。厄災を退ける力を貸したもーう! グルルルッ」
ココミは言葉を捧げながら構えを保ち。深靄に紛れる巨体の姿を捉えたのか。身体を強張らせる。
ココミは正面を向いたままで、背中越し、リンリに届く声量で言葉を送ってきた。
「厄災をまき散らすことになっても。ココミはココミとして、あのでっかいのを……ゆるさない。でものろしはあげてきたし、ハクシお姉ちゃん達との距離も近いから……安心していーよ。どっちにしたって、ネズミはおかたずけしておくね?」
彼女の言ノ葉がまるで子守唄のように、
「お兄ちゃんは、十分に頑張った。厄災を追い出して、一人でよくここまで連れてきたね。ココミがほめるなんてめったにないけど。でも、ほめてあげる。お兄ちゃんは、土地にえらばれるに足る器をもっていると、ココミは認めてあげる」
リンリの意識は現から沈み始めて、
「あはは。だから、お兄ちゃん。あの筋肉だるまか、あたしを『継ぎたい』って望んでいいと思う。たいかをはらってでも『いきたい』って願うなら、土地は応えてくれるよ。きっとねー。それじゃあーお兄ちゃん。さよなら!」
精魂尽き果てて、目蓋を閉じた。
――鼠達の波に少しだけ遅れて、前足を引き摺って深靄より現れる禍鼠の親玉。ココミは人の姿を完全に捨て去って、一匹で向かって行った。




