一章……(三十四)【決意】
「……あ、あぁ、あ――」
――禍鼠の双眸が、リンリ達を捉えている。
跨がったケンタイを振り落とした禍鼠は、血濡れで死にかけの彼を背後の地面に放置。
次いで。致命には至らずとも、何かしらの方法をもって前足の肉を抉るほどの“無視”もできない危害を己に加えてきた人間達を排除しようとでも考えたのか。舌を出して呼吸を整えると、二人を敵とし狙いを定めてしまったようだ。
鼠は、破れた毛皮が垂れ下がり、断たれた血管を覗かせる抉れた左前足を引き摺りつつ再興。およそ二十間と離れたリンリとチョウカミネにそれなりの速度で真っ直ぐに突っ込んで来た。
逃げても、間に合いはしない。
鼠の姿をした『死』という結果は、もう『十』と数えるまでには到ってしまう。仮にもっと時間が有れば、もっと冷静に物事を捉えられたのであれば、何かしら手段を用意できたのであろうか……?
――とっさに身体を動かして。意識の無い少女の身体に覆い被さり、衝撃に備えるリンリ。
そうして、目蓋を閉じてしまう。
『誰にも手を出させねェよ、絶対になァ!』
ケンタイの言葉が、頭の中で聞こえた。
「――手を……出させねェ……ぞォ……!」
実際に今、ケンタイの言葉が聞こえた。
――まだ、終わっていない。
なら、リンリが諦めてはいけない!
目蓋を開くと、鼠は途中で止まっていた。
違う。止められていた。死にかけボロボロのケンタイが鼠の長い尻尾を掴み、止めてくれていた。
でも巨体の鼠を止めるほどの胆力は、彼にはもう出せてはいない様子。そればかりか、もうまともに立ち上がる事すら出来ていないではないか。腰から下を地面に擦られて、足の通過した土跡に流れる血の道をも残している。
それでもケンタイは、今できる最大限の行動でもって鼠をより警戒させ。鼠の意識を再び自身へと向ける。風前の灯火のような命をさらに削り、リンリ達のところへ行かせまいと踏ん張っているのだ。
「オイオイッ……畜生ゥが。……このオヤジの相手は、まだ終わっちゃ……いねェぞォ……?」
脇で尻尾を掴み、錐でその尾を刺すケンタイ。
時間稼ぎをしてくれている。逃げる時間を。
リンリはチョウカミネを連れて、今このうちに逃げ出さなくてはならない。この場所で、この状況で彼を置いて。どんなに辛くても、自分にはそれしかできないから。彼の命を対価に稼がれる時を、一分一秒でも無駄にしないようにして……。
――本当に、それで良いのか?
――本当に、それしか出来ないのか?
リンリの頭の内で葛藤が起こる。
しかし、しかし。ならどうするというのか?
「……ケンタイ、さん……っ」
禍鼠は首を背後に回すと、尻尾を掴むケンタイの肩から胸にかけて噛みついてしまう。……その牙は、彼に致命的な傷を与えてしまっただろう。
ケンタイは錐で鼠の下顎を刺す。けれど既に拳には力が入らないのだ。弱々しい錐の一刺しは厚い剛毛に阻まれてしまってなんの意味も成さない。
咀嚼されるかの如く。鼠の上下に伸びた牙で噛み砕かれ、地面に何度も何度も繰り返し打ち立てられているケンタイ。もう、彼は……。
「…………」
……ケンタイが動かなくなると。鼠は牙による拘束を緩め、彼を地面にぶつける行動を弱めて。
「――隙ィ、ありだァッ!!」
ケンタイは、最期の力を振り絞ったのか。
なお離さなかった錐を逆手に持ちかえて、口先に齧られたその状態からならば“届く”そこを狙う。
「ンぐッ。ウオォォッ、届けやァ――!!」
――狙い、鼠の眼球を突いた。
それは、親父の信念が勝ち取った一撃。
――事態を動かす、決定的な一撃となった。
確実に。ケンタイは、勝負に勝ったのだ。
――禍鼠は声を上げる。言葉ではとても表せないような絶叫、悲鳴の鳴き声が響き渡ってゆく。
一方のケンタイの身は空中に投げ捨てられ、放物線を描き木々の枝葉を通過した後に、猛り狂った鼠に折られた樹木の鋭利な切株に落ちる。
◇◇◇
――禍鼠の左眼には、錐が刺さっている。
その激痛からか、禍鼠は荒れ狂い。木々の幹に身体を打ち付け。毛皮より黒い血飛沫を撒き散らす。
――嗚呼、そうして。もう一方のケンタイ。
彼は背中から落ち、折れた樹木の切株が刺さり。蔦が絡み付いている。その身体には、幾度も牙に噛まれたことで酷い傷口がいくつも開いていて……磔となった切株を伝い流れる血液は、大地に血溜まりを広げていた。
暴れる鼠が南側への逃走経路に被ってしまい。
安全の為に距離を取って。リンリはチョウカミネを背負ったままで迂回してくれば、位置的に落下したケンタイに近づく事が叶う。すると。彼には、まだ奇跡的に息があるでないか……。
「ケンタイさん、今ならいけます……。
俺達と一緒に逃げましょう。……俺、頑張って、筋肉振り絞って、二人とも背負いますから」
ケンタイは血反吐を溢した。
「ガッァ……ハ……。行けェ……」
彼は据わった目で、濁りかけた瞳で、言う。
「死亡フラグきれいに回収しないで下さい……。
このままケンタイさんが死んだら、展開に何の捻りもないじゃないですか……。そんな物語って、無いですよ。いったいどこにありますか……?」
「あと……、あと、ハァ……頼ンだァ……。
この……親父を、継いでェ、生き……ろよ。
達者で……なぁァ……ガハハ」
もう、此方の声も届いていないのだろう。
「息子より先に、親父が死まないで下さいっ!
いや、普通は逆ですけど。俺に二度も父親を弔えって事ですか……。そんな酷なこと……。俺は嫌ですから。だから、息子の最初で最後のお願いです。生きて帰りましょう、統巫屋に一緒に!」
「鼠ハ……。……オヤジがァ……始末……する。
あれは、危ねェ……。お前さん達を……無事に逃がすには、ここデ……始末しなきゃ、いけねェ……だろな。だからよォ。オヤジは、命を奉る。彼ノ者に、命を捧げてやる……。使従……の……奥の手、だァ」
ケンタイは身体に絡まった蔦を千切ろうと、背中に刺さった切株を引き抜こうと踠く。
そんな些細な行動でも、とうに限界を越えた彼の肉体からは命が零れ、綻びてゆく。
「ケンタイさん。動かないで下さいっ!
もう助からなくなる。嫌だ。嫌です……俺は!」
「最後に、頼む。……ガァッ……オヤジの、身体を……起こしてェ……くれやァ。絡まって……ものを取ってよォ……。背中、抜いて……くれや」
「やめて下さい。まだ応急措置すれば。無理に抜かなければ、助かるかも知れない。ですからっ!」
わかっている。十分に。眼球をやられ激痛で此方に構わず暴れている鼠でも、いつ再び襲ってくるかわからないから。
確実に鼠を始末しておかないと、リンリ達が無事に逃げ出せない可能性があるから……。
だから、彼はまだ闘おうとしている。
そんなこと、認められない。
誰かが、自分の為に犠牲になるくらいなら、
「なら、だったら……。俺は――」
ならば、自分がするべき事は、
『――これは、二択では無い。模範解答も無い。正解も正しさも客観性の中には存在せず、本当の答えはお前自身にしか解らない。お前が出した答えがその場の正解なんだ。世界はその瞬間、お前の主観で“観測されている”物語だと仮定しろ』
何時かの会話。
『――結果、当然に後悔をするだろう。
選択が過ちではないかと疑いもするだろう。しかしお前の選択を、お前自身が意味の無いものにしないために。お前自身が最後まで、その選択を信じてやるんだ! わかったか?』
忘れ難い、大切な会話の記憶。
『――ハクシ様。
俺は、喪失は怖い……それでも。必要に迫られたとしたなら、末に自分の喪失は受け入れる。例えば誰かの命を助けられるなら。足掻いて抗って、他に助けを求めてさ。それでもダメなら、諦めずに活きて、後悔を残さず有意義に死んでやる!』
数日前の自分の決意が、後押しする。
「――そう、だな。よしっ!」
やるべき事は、決まった。
自分の選択に、責任と意義を持つ。
背中からチョウカミネを降ろしておく。
「すいません、ケンタイさん……」
ケンタイに深々と一礼して、言葉を残す。
「……俺は、活きます。
そのバトンを引き継ぎます。違う形でっ!」
深呼吸して、懐から取り出した筒を握り、
「――はァ? オイッ、リンリ……?」
――リンリは、結末へと駆け出した。
◇◇◇
「はぁ、はぁ……」
何も、代わりに死のうとしている訳じゃない。
多少鍛えた程度の『脆弱もやし男』の分際で、禍鼠に直接挑みかかろうとヤケになった訳ではない。
手に掴むのは、シルシに渡しそびれていた発香筒であり。くれた人の言葉を信じれば、鼠への誘引作用で時間稼ぎができる品。
しかし単に時間稼ぎを重ねても効果は薄い。不明な理由で、統巫屋の領内に鼠が入り込んでいる状況なのだから。この状況では、安全だと言い張れる『逃げ場』など無いに等しい。誘引作用が切れてから、自分達の匂いを辿った鼠が統巫屋まで追ってきてしまう最悪の危険性がある故に。
であるなら、別の方法を取らなければ。
要領も容量も足りない、へたばった脳を回し、即席でも最大の結果に繋がる方法を探す。
リンリが視線を巡らせると。邂逅した際と同程度の距離、それほど遠くない場所で、いまだに暴れ狂っている鼠の姿。そこから視線をずらし、
「……ん」
注連縄が巻かれた木々が目に入った。
『一応だが。領域と外の境界には、視認できるように目立つ縄を張ってある。だから……絶対にその先に出ちゃだめだからね? 死んじゃうから』
また、何時かの会話が頭を過る。
「これだ……!」
リンリは一部の縄を手解き。崖ぎりぎりの位置で囲いの形に組み合わせる。そこは領域の『西北西』端部分、崖の上であって。鼠をここに誘き寄せることができるのであれば「いける」かも、と。
――握った発香筒の紐を引いた。
「――ほら、こっちだ化け鼠っ!
ケンタイさんの敵、俺が次の相手になってやる!」




