一章……(三十三)【死合】
身を屈め、此方へ威嚇している禍鼠。
相対するケンタイは、
「んンッ! ヴォォォオッ――!!」
さながら獣の咆哮。
空気を震わせる雄叫びを上げ、威圧して返す。
禍鼠の注意がケンタイに向いている内に、リンリは最寄りの草の影に身体を納めて、這うように移動し彼から徐々に距離を取って行く。
それを後目に確かめると、ケンタイは重々しい足取りで鼠へと向かい。踏み出すのだ。
――賽は投げられ、火蓋は切られてしまった。
戦端が開かれたのだ。よって、禍鼠が動き出す。
「――ンでけェのに、速ェぞオイッ!!」
三十間はあった距離は、すぐに縮まる。
鼠の巨体、その隆々と張った後足を以てして大地を蹴るやいなや、もう一瞬のこと。瞬きの間でケンタイは距離を詰められてしまうではないか――。
「突進かァ? いンや……牙を剥いてよォ――」
しかし年の功か、彼は静かに見極めて。
ケンタイは受け取った錐を右手に握り。腰を低く落とすと、その須臾の先。
迫った鼠の鋭い上下の牙、人間を丸飲みできそうな大きさの獣の口先が何も無い空間を通過する。
「――オヤジは、噛んでも旨かねェぞォ!!
年期入った渋味くらいすっかも知れんがなァ!」
その横っ面に、斜め下方から拳が突き刺さった。
紙一重の回避で鼠の虚を突き。肩と腰を捻り、片足を身体の後方へ引き。軸足に力を込めたケンタイはその全身に留めた勢いのまま起立する事で、左の拳で強力な一撃を見舞いしたのだ。
拳は重く、確実に鼠の頭蓋を揺らしただろう。
鼠は受けた攻撃に、身体を跳ねさせて仰け反る。
その隙を見逃さず。後足をすかさず足払い。
鼠は体勢を崩して、ほんの暫し大地に伏せた。
ケンタイは錐を口で咥え、助走を付けてから鼠の前足を蹴り下し、弾みで上に飛躍。
前足の付け根を左腕で掴み、身体を振り子のようにしてその反動で更に上へ登る。そうして無駄のない一連の動作で鼠の肩に跨がった。
――ケンタイは咥えていた錐を左手に掴み。
逆手に持ち直すと、大きく振りかぶり。
そうして、
「――ン化け鼠ってもよォ、生物であるなら。
その種の急所は変わりゃしねェだろォ?」
錐の先を、鼠の左首筋に貫刺した。
急所への一突き。己の背に跨がった者を振り落とそうとして暴れていた鼠の動きが、ぴたり止まる。
「……ケンタイさん。やった、か?」
移動中の草の隙間から状況を見て、無意識からそうなって欲しい願望を口ばしるリンリ。
そう『言ってしまうと』大概『やれて』ない。
余計なことを言ったと、口を閉ざした。
「オイオイッ、厚くて固ってェ毛皮だなァオイ。
たっぷり肉も蓄えてやがる。そうかい。錐じゃ毛皮を抜けても急所まで傷付けらんねェてか?」
――実際。殺れて、いない。
禍鼠の持つ毛皮、表皮、脂肪、筋肉。
普通の鼠をはるかに逸した巨貌は、その全身を包む剛毛、脂肪、筋肉といった。構成する肉体要素までもが強靭に変貌しているらしい。
せいぜいが半尺(※約15センチメートル)程度の長さしかない桐では、肉体の鎧に阻まれてしまい。禍鼠の急所までは届かないのだ。
「構わん。物事はそう易々とはいかねェもんさ。
ならあれだな。脳天を狙っても良いが……脳まで刺さるか解らねェし、不安定なとこで振り落とされたら仕舞い。外側から傷付けるのが難しいとくりゃよゥあれか。二の矢で、こういうのはどうだァ?」
ケンタイは跨がったまま、上半身の包帯の上に身に付けていた羽織を脱ぐ。そうしてどうするかと思うと。その羽織を捻ることで縄のようにし、錐を楔として羽織の一方を毛皮に打ち固定。
固定した箇所から、羽織の縄を左腕で伸ばし。
輪の形を拵えると、時機を見計らってから縄を空中に投げる。すると、うまくかかった。
尚暴れる鼠の首の動きを逆に利用して、鼠の首に羽織の縄を巻き付かせたのだ。
「――オヤジの生き様、刻んでくれやァ……」
ケンタイはリンリの隠れた辺りの草を見る。
酷く恐ろしく、優しい形相で「ガハハハ」笑った。
それが意味するものは、己を削る苦肉の策。
「――オヤジが絞め落とすのが先かァ、オヤジが力尽きちまうのが先かァ。一勝負だ鼠さんよォ。
規則もへったくれもねェ、命を賭した生存の為の競争だァ! 心躍れよこん畜生ゥが! さァおっ始めんぞ。オヤジとの至極単純な楽しい力比べといこうじゃねェかよ!!」
縄を固定していた錐を抜き、再び口で咥え。
ケンタイは片足で鼠の背中を蹴る体勢で後方へ身体を反らし、両腕で縄を強く強く引き寄せ始めた。
鼠を絞め落とす。おそらく有効であろう。
そんな行為をすれば、彼自身の身体がどうなってしまうかを……度外視さえすれば、有効。
「――ぐッオオオォォッ……ァァ!!」
喉を鳴らし、鬼の形相のケンタイ。
目は充血し、鼻から血を流し、額に井の形。
咥えられた錐の抦がきりきりと鳴る。
ケンタイが巻く包帯が赤く染まり出す。
それは鼠の血液が付着したのとは別に、彼自身の傷口が開いたのに加え、跨がった鼠から受ける必死の抵抗によるもの。
ケンタイは頭から、口から、腕から、胸からも。随所から命に関わるほどの流血をし始めた。確実に彼の肉体は、深刻なまでに壊れてきている。
――禍鼠は転げまわって暴れておるのだ。
喉や首筋や延の随、主要な部位が凄まじい胆力で絞められているのだ。苦しみは尋常ではなかろう。
これは流石に堪らず、己がより傷付くのも厭わずに身体を地面や木の幹に転がせて叩き付ける。そう速やかに背中の人間を落とそうと試み。しかし尽く人間を退けるに至ってはいない。どうして人間は離れてはくれないのか、鼠には理解できない。
「――ンァア、ぐオォォォ……!!」
彼の筋肉が血管を浮き上がらせ、鬱血するほどに張り詰めている。身体から湯気を立ち上らせる。
地面や木の幹にぶつけられ、押し潰されて、擦られる。しかしそれでも。縄を掴んだ拳を、硬く握った拳を離すことは絶対にしない。
……先に限界が訪れたのは鼠か。
絞められてから、堪えず暴れていた事で酸素が足りなくなったのであろう。鼠の動作は徐々に緩慢になっていた……。
鼠は痙攣するかのように身体を震わせ、僅かでも喉の気道を確保しようと本能からか大きく口を開くと天を向き、後足で立ち上がるではないか。
これは。これで、ようやく、
――大きな“隙”だろう。
「――よし。チョウカミネさん、今だっ!」
ふにふにした鰭の臀部を持つ少女。
その彼女を抱えて、成り行きを固唾を呑んで見守っていたリンリは『鼠の隙』に合図を出した。
なにも逃げ、隠れていただけではない。
大切な親父が死にかけている間に、リンリは自分にできる事をしていたのだ。
ケンタイと禍鼠が相対する際、偶然にも気が付いていたのだ。北側の深林から、鼠を追ってきたように血だらけで這う少女の姿を。
距離があって何だかよく理解できなかったが。
懐に入っていた“借りたままの”シルシの遠眼鏡を覗いてみればそれが『統巫』の少女だと判別できた。
後は、鼠とケンタイに接近し過ぎないように大回りで少女に近付き。抱き起こして介抱。曰く『余力が無い』らしい彼女が、鼠に有効な一撃を当てられるという距離まで連れて来た。
今は弱っており。彼ノ者の力を『あまり維持できない』し、それと目が『ぼやける』し、ついでに『丁重にあつかえ』という少女の要求に応え。代わりに鼠の隙を探していただけだが。
リンリは少女、潤統導巫チョウカミネに遠眼鏡を覗かせる。彼女は震える手で小刀を構えた。
「ん……褒めて遣わす。よくやった。
……邪魔がはいった。……予想外の。
しかしこれで、もう憂いなし。決着だ――」
彼女の力だろう。構えられた小刀に周囲の霞が引き寄せられて行き、形を持つ。霞は空中を漂う幾つもの小さな飛沫となる。
「――其は、普く理の遵奉……。循環し、潤滑し、千を育み万に営みをもたらす純澄清浄なる無色の母の落とし子なり……。彼ノ者……その力を賜り担う存在。潤を統べ導く巫、潤統導巫……チョウカミネ……いくよっ!」
彼女の唱歌のような口上を経て。飛沫は纏まり水玉となり、更に更に纏まり螺旋状の矛を形作る。
小刀が振られ。追従するよう風切りの鋭い音を響かせ、水の矛が射たれて――。
「――うぁァアッ!!」
「むっ、……んッむッ!!」
……射たれは、したのに。逸れた。
チョウカミネを抱えたリンリが、何処からか襲ってきた衝撃で転倒し。射たれた矛は、逸れた。
リンリが視線を動かし衝撃の正体を探せば、いつぞやのトゲトゲの付いた鞠玉の如き生物の姿。つまりこの生物の縄張りにでも踏み込んでいたのだろうか。あぁ『運がない』と嘆く他無い。
未だに毬玉は二人に敵意があるかのように跳ねていたが、チョウカミネが頭をぶつけ意識を手放す刹那で小刀を投げ、命中させると破裂してしまい。奇妙なことに塵一つ残さず靄に溶けるよう消滅する。
「チョウカミネさんっ!」
呼吸はしているが。頭をぶつけた彼女は無理に動かさない方が良いかも知れない。リンリはすぐ胸やら大切なところやらを見ないよう配慮しながら、彼女を傾けて回復体位にし、
「――はっ! 鼠とケンタイさんは?」
はっと振り返った。
「そん、な……」
矛は当たりはしたものの……。
鼠の前足を深く抉り、羽織の綱を引きちぎり、
役目を終えたように空中に四散した後であった。
「……あ、あぁ、あ――」
つまり。ケンタイが振り落とされた後。
危害を加えた此方に、鼠が狙いを移した後。
これはもう“どうしようもない状態”に陥った後。




