一章……(三十二)【血溜】
「……ケンタイさん?」
「――統巫屋によォ、後ろを見ずに走れェ!!」
喉の張り裂けんばかりに声を放ったケンタイ。
とはいえ、皆、反射的に行動には移せない。
子供達もリンリも「――何故?」と顔を見合せ、頭を傾げてしまうばかりで。
状況を理解できないままで、互いが見える距離に散らばっていたケンタイ以外の全員がリンリを中心として集まってしまった。
――迫り来る何物かへの暇。
猶予は僅かな言々を交わす程度か……。
遠くへ顔を向けて、舌打ちをするケンタイ。
「オイッ、酷ェ臭いじゃねェか……ン」
「すいません、鼻がつまってて……ん――」
彼は右腕の副木を引きちぎり、その腕を大きく回して具合を確かめると。やってきた痛みを堪えるような声を出してから、深い森林が広がる北方へゆっくりと慎重な動作で進んで行く。
「――いや。酷い『臭い』ってソレは……」
先へ進んで行く彼が発した言葉によって、事前に知る事のできた情報を想起。すると、顔を青ざめさせてリンリは何かを察してしまい、
「オヤジは間違っちゃいねェだろ。
匂鼠の臭いだなこりゃよォ。クソ懐かしいもんじゃねェか……。統巫屋の在るような山の高いとこには居ねェ鼠だかんなァ。つーこったよォ、お前さん“この意味”が解っかァ?」
続いた言葉で、確証に近いものを得た。
「おい。皆、もし何かあっても……帰れるな?
統巫屋までの帰り道は、ちゃんと覚えてるか?」
「兄ちゃん、大丈夫だ。
こっからならオイラ達、一人でも帰れるぞ!」
「うん。平気だよー!」
「いつも、きてるから」
「……よし。じゃ、いったん帰ろうか?
大人に『鼠、非常事態』と報せるんだ。頼む」
男の子と頷き合って指示。リンリは帰り道である南方に子供達を向かせてから、皆の背を押した。
手を取り、走り出す子供達三人。皆、山育ちだからかリンリが全力で走るよりも速度がある。自分の鈍間な足に、彼らが歩調を合わせて遅れてしまわぬよう考えて先に行かせた。
統巫屋に一報が伝われば、騒ぎになるだろう。
そうすれば、ここにハクシが戻るまでは、皆は守りを固められる。例え杞憂で終わるとしても。
「『誤報』で済めば良いんだけど――」
――呟きに意味は無い。
最早確定した事象は、言ノ葉程度で覆る事など有りはしない。或いは行動次第で誤差を招くが、誤差は誤差の域を出ない。どのような場合も大局を揺さぶる為には物事の要を穿つ対価がいる。しかし今を生きる者に、未来を見据えた対価など、どうして払えるものか。それに必要な前提は、既に通過しているのだから。過程はどうであれ、結果は不確定であれ。それは至ってしまう。どれほど残酷でも悲惨でも。そのようにして世の理は動く故に。
リンリは、自分も逃げ出す前に。懐に入れたままであった『持ち物』を確認しておく……。
……借りたままの物品に。
……筒状の物品が“二つ”か。
そうしていると、ガサガサと。森林の先より、木々やその枝葉の擦れるような音が立ち始める。
なお吹いてくる風。弱い風が揺らしているとは到底思えない程に強く揺れ動く、背の高い木々。
針り詰めた雰囲気。極度に緊張し、可能な限り研ぎ澄ました感覚によって体感の時が引き延ばされてしまう。とても億劫、と錯覚する時の流れ。
風で揺れる草の音。踏みしめられる草の音。
木々は枝葉をざわつかせ、幹をくねらせる。
生暖かい風が、やや強さを増し頬を撫でた。
――そうして、鼠は躍り出たのだ。
信じ難き、鼠との遭遇。鼠の『群れ』が現れるかと思えば誤り。木の幹を倒し、単独の巨体。
「――オイオイッ、オイッ!!
なんてこったァ! 鼠というか、化け熊みてェなもんじゃねェか。こんなもん伝えられてねェぞ。クソッふざけんなよォカラス女ァァ!!」
ケンタイは吠え、
リンリは尻餅をつく。
「――うわぁぁ!? 車サイズの鼠ってぇ?!
あ、おい戻ってくるなっ!! は、早く行ってくれ。ほら、皆、早く逃げろっ!!」
子供達は一度だけ振り返り、リンリの滑稽な様子を見て引き返してきてくれようとしたが。その行動を本人から拒まれたことで、心配そうな表情のまま身を翻すと三人共に林に逃げ込んだ。
森林から姿を現したのは、大熊と見紛うばかりの褐色の化け鼠。禍淵、凡世覆軍の鼠の親玉。本来は絶対に有り得ない筈の、この場の者達との邂逅。
禍鼠は、全身の毛皮の至るところよりどす黒い液体を滲ませておる。何処かで何者かに傷を負わされた様子だ。その口から粘度の高い赤い液体を洩らして鼻先をひくつかせた。
禍鼠はよろめき、臀部を地につけ座る。前足で傷の付いた鼻先と伸びる髯を洗う仕草をしつつ周囲の状況を捉え、そこでもっとも近辺のケンタイの姿を認識してしまったらしい。
普通の鼠のような高く短い鳴き声ではなく。低く悍ましいうなり声を漏らして、四足で身を屈めた。それは威嚇か。人間が殴りかかってくるにしても、死んだフリを始めるにしても、逃走するにしたって。少しでも動きがあれば、威嚇は攻撃へと移行するであろう。
禍鼠との距離としては、おおよそケンタイから三十間(約50メートル)。リンリからすると三十五間は離れているだろうか。
この距離が、いざ此方に鼠が向かって来た際にどれほどの猶予を与えてくれるだろう……?
ひとまずは、だ。もう子供達三人は、もと来た南側の林に入って姿を隠した後なので。よくある『子供を庇って重症』の危険性は潰した。
いや、潰し切れてはいない。リンリがその『庇われる』立場となる可能性も考慮すべきか。
「厄介だなァ、オイ。手負いだなありゃ。
こりゃよォ、奴さん誰彼に構わず、動くもんなら襲ってくんだろ。ありゃよォ」
呑気に頭を掻くケンタイ。
「そんな……。ケンタイさんッ。
なら、あれ放置したら……統巫屋の皆は……?」
よろよろと立ち上がり、震える膝を叩いて足を動かそうと難儀しながら訊いてみるリンリ。
「動けねェなら、お前さんは無理に動くな。刺激すんじゃねェぞ。ンでよ。統巫屋にはココミが居ンだろがよ。クソ餓鬼みてぇなババァだが情は確かだ。あのババァなら守り通すだろ。なら心配なんてまるでいらん世話だァ。そいでもって……まぁアレだ。奴さんは、ここでオヤジが始末してやる。誰にも手を出させねェよ、絶対になァ!」
「…………」
なんと言い表せば良いやら。
とても、これから『死にそうな人』の台詞だ。
この状況で冗談でなく、それを言葉にして良いのかとリンリは口を開けたり閉めたりして迷う。
加えて、死にそうな要素だらけだ。リンリはケンタイのことを父親や師匠のような存在だと定義しているし、先ほど彼は唐突な昔話とかをしていたようだし、不穏な習わしなんてしてしまった。更に、彼は怪我で身体が万全ではなく。お荷物のリンリまで近くにいる状況。ここぞとばかりに、死にそう。
「お前さん、そこに落ちてる網を拾ってくれや。
武器って言い張るにゃ、粗末な棒切れだがよォ。何も無いよりかはマシだろ。さすがのオヤジでも片腕で猛獣と力比べなんてできねェからなァ!」
「……あの、えーと。勝算は」
「オイオイ、下らねェことほざくんじゃねぇぞ。
そんなもん、やってみなきゃわかんねェだろが!」
「ケンタイさん。それは、そうですけど……」
「だからよォ、なんだ。この後、オヤジに“もしも”の事があったとしたら……。そん時は、お前さん。後は『頼んだ』って話だ。オイッわかったかよ、クソオヤジのケンタイの一人息子よォ!!」
リンリは涙が出そうになって、しかし自分の父親を自称してくる親父の前だからと我慢する。
ここで泣いてしまい、彼の背中を涙越しに送ってしまうともう終わり。彼の死ぬ運命が確定的な形となってしまう。そう、理由のない直感めいたものが脳裏にチラつくのだ。故に、笑った。
「あぁ、もう。死ぬキャラ要素の欲張りセット。
ははっ格好つけて逝こうとするのは無しですよ! 敢えて言葉にします。俺はフラグを立てます。フラグは立てまくれば反転しますからね! よし、これが終わったらもう一度さっきの昔話を聞かせて下さい。俺に二度目の父親の死を経験させないで下さい! 自称息子との約束ですから!」
懐から、筒状の物品。お手製の文房具。鞘に納めてあった長めの錐を抜き、武器を要求したケンタイに渡してみたリンリ。
折れたシルシの角がもったいないからと、鋭利に削ってみて、抦を付けてみたスゴい品だ。日常のお勤めでよくお世話になっている。形状からして武器にも転用できる。これならば、今は居なきシルシの形見ならば、ケンタイを護ってくれるであろうと信じる事ができた。
「なんだこりゃ……オイッ、こいつはシルシの」
「気のせいです。これ使って下さい!
絶対確実に、死んだりしないで下さいよ!」
「世に絶対はねェ。意気込みで『絶対』ってのは構わんがなァ、『絶対死ぬな』ってのは守れねェかも知れねェだろがッ。オヤジを困らすなよオイ。死んだら、そん時は堪忍って奴だな……!!」
「――それでも、ですから!」
――リンリの周りでは昔から“余計な時”だけ。本当に余計な時だけ、言葉に“言霊”が宿る。それが、ここではせめて。良い方に宿ってくれと願う。
◇◇◇
――禍鼠の左眼には、錐が刺さっている。
その激痛からか、禍鼠は荒れ狂い。木々の幹に身体を打ち付け。毛皮より黒い血飛沫を撒き散らす。
――嗚呼、そうして。もう一方のケンタイ。
彼は背中から落ち、折れた樹木の切株が刺さり。蔦が絡み付いている。その身体には、牙に噛まれたことで穴が幾つも開いていて……磔となった切株を伝い流れる血液は、大地に血溜まりを広げていた。




