一章……(二十一)【筋肉】
――突如として襖が開かれて、
「――オヤジが邪魔すんぞォ!」
騒がしい登場をするオヤジ。
リンリの自室へ侵入してくるオヤジ。
強面巨漢の来訪者がやって来たようだ。
彼の「ドシン! ドシン!」とした歩行の震動。
強い震動が伝わって来て、自分の筋肉が震える。
痛い。すごく痛い。かなり痛い。尋常ではなく。
「……ぐぁぁぁ」
そうする事しかできずに、呻くのみ。
「オイオイッ……。
お前さん、日課の“朝昼晩耐久肉体改造洗脳込みの筋肉増強極限鍛錬(入門編)”に顔出さねェと思ったら。
筋肉痛で動けねえとかいう話じゃねか、オイ!」
リンリは布団の上から微動だにせず、
「こ、ん、に、ち、は……。ぁっ、ぐわぁぁぁ」
小さな声を発して。呻き、悲鳴を垂れ流す。
挨拶の一言でさえ、喉を震わすだけで、全身が激痛と共に軋むというのは笑えない。
……どうしてこんな事になったか。それは、筋肉の限界を超過してしまったとしか……。
「筋肉痛か。オヤジにゃ、そこまでクソ酷ぇ筋肉痛とか信じられなかったが……。何だよ。実際見に来てみたらこの有り様。こりゃ傑作じゃねぇかよォ!」
ケンタイはリンリの惨状を見るや、
「ガハハハッ!」と爆笑してきた。泣きたくなる。
それで彼は爆笑して、手を叩いて、身体を継続的に震動させるのは止めて欲しい。床板を通して震動が伝わってくるからマズイ。今のリンリでは、些細な震動に晒されるだけで体力を奪われる。
「……ぐぁぁぁ」
「ガハハハッ!」
リンリのその様子を見たケンタイが、たまらずにまた爆笑をしてしまい。彼の爆笑によって発生する再度の震動。さながら継続的に痛ぶられる拷問体験。まるで苦しみの連鎖は終わらないではないか。悪循環に苛まれ、無限地獄に囚われた。
「…………タス、ケテ。……タス、ケ……」
「ガハハハッ……ガッ。腹が……オイッ。
ハァ、ハァ。オヤジの腹筋が壊れるぞォ!」
最終的に、リンリの脆い精神が崩壊間近。
対するケンタイの腹筋も内より崩壊間近。というところでぎりぎりに収拾が付いた。よかった。今回もリンリは生き残ることができたのだ。
「――ハァ、聞いたぞ。お前さん、サシギと呑気に空中散歩してそうなっちまったらしいなァ……?
多少の運動の負荷は、まぁ筋肉の友だが。身体を壊すような運動は誉められねェな。テメェの“筋肉指数”を考えてから行動しねぇとよォ!」
「……ノーぅ」
否定。それと“筋肉指数”とはどんな数値だ!
戦闘力的な数値か? そんな生々しい数値嫌だ。
……何も呑気にしてはいない。運動でもない。
涙ぐんで、必死にサシギの足に掴まっていた。
半刻にも満たない間だったけれど、落ちないように全身の筋肉を総動員して掴まっていたのだ。
高所からの統巫屋は、良い眺めだった……。
「……まぁなんだ。今回は、別に責められるような事をしたわけじゃねェ。お前さんが悲しい程に、女心を良く理解してなかっただけだなァ……。男なら誰でも覚えは有る失敗だ。サシギの方も反省した顔で『やりすぎた』と肩を落としてやがったぞ!」
……女心を理解? 昨日の、サシギとの一件。
ケンタイは、事の顛末を知っているようだ。
「サシギは『自らが恥ずかしくて、みっともなくて。気が立ってやった。反省も後悔もしている』要約するとそんな事を言ってやがったぞォ!」
サシギとは昨日以降、顔を合わせられていないリンリなのだが。彼女が怒ってないようで何より。それよりも、自分のことでサシギが気に病んでしまっていないかが問題。案じてしまう。
――しかし、リンリには意外だ。
「オイ、意外そうな顔してんじゃねェか?」
怖い顔で、ケンタイはニヤリと笑う。
「お前さん、わかり易いなオイ。
昨日の“感情に任せて振る舞った”サシギが。テメェの行いを反省して悶えてるサシギが。あれか。お前さんにとって意外っー顔だなァ……オイ」
リンリは図星を指されてしまった。
「――使従としてのサシギ、だけじゃねェ。
この際だ。お前さんには、昨日覗いちまったらしいアイツの姿を。個人としてのアイツについても是非とも知ってやって欲しいってなァ。このクソオヤジが伝えに来たのは、そういうこったな!」
要件は、そういうこった、らしい。
「お前さんも、サシギを尊敬してるだろ。
実際この統巫屋で、アイツを尊敬してねェヤツは誰一人も居ねェんだ。だからこそ、アイツはたまには羽根を伸ばさないとなんねぇのさ!」
「…………」
「家族は、一派は、集団ってのはよォ。
立派なヤツが居たとして、周囲がその立派なヤツ相手に尊敬を抱くだけじゃ、まだ不完全なもんだァ。立派なヤツは、他人に弱さや内面を晒け出せるようになって一人前。どんな立派なヤツも頼られる一方、抱え込む一方じゃいずれ疲れちまうだろ……?
オヤジの理念だが、そういうこったなァ」
リンリを叱ってくれた言葉と、同じ理念。
「…………しょ、う、ち、しま」
リンリは動かない身体で、目線だけで頷いた。
「お前さんは、サシギの部下だ。
けどもよォ。部下であって、アイツの気の置けない理解者にも成って欲しいってのが本心だな。お前さんが良ければ、成ってくれ。サシギにはそんな存在が得難いだろうからよォ!」
「…………か、のう、な。……かぎり、で、なら」
「お前さんには、“割り増し”で期待してんだ。
最近のシルシは明るくなった。やかましい程に、年相応に、生き生きしてやがる。シルシの変化は、お前さんのせいだとオヤジは踏んでんだよ! お前さんがアイツに影響を与えたんだろ……? 礼を言わなきゃなんねェな。ありがとよォ!」
「……と、ん、でも、ない」
「あのクソ餓鬼。あいや、シルシと付き合えるお前さんなら、サシギとも上手くやれるだろゥ。テメェの成長と共に。お前さんは、ここの皆から掛け替えのない存在に成ってやれ。そうすれば、統巫屋じたいに認められるんじゃあねェか……?」
「…………」
もう、まったく。ケンタイは統巫屋の保護者かなにかだろうか。本当になんなんだこの強面巨漢は。彼に対して、リンリは頭が上がらない。ケンタイは確実に強面の似合わない、気さくで、面白く優しい。身体も懐もでっかい、素晴らしい人格者だ。
鍛練、肉体作りの勧誘。
筋肉をつけるのを相手に半ば強制してくる、彼の暑苦しさはちょっと……ご勘弁願いたいものだけれど。それを差し引いても。リンリはこの頃、彼を父親や師匠のように感じてしまっている……。
「よし、今日はこの辺りで暇すんぞ。
リンリ、お前さんが回復したら、また日課“朝昼晩耐久肉体改造洗脳込みの筋肉増強極限鍛錬(基礎編)”やってやっからなァ覚悟しとけよオイ!」
入門編と基礎編に何か違いが有るのだろうか?
リンリに拒否権は無いのだろうか?
脳まで筋肉にされそうで怖い。
「……ぁあ、……ぐわぁぁぁ」
ケンタイは豪快に笑うと、一度リンリの肩を揺すってから、のっしのっしと去って行った。
まだまだ此れから、リンリは彼より学ぶ事は多そうである。自分は「生きてる限り、学んでやる」のだと意気込む。勿論、筋肉に関する事柄は勘弁ではあるが……。
本日もなんだかんだで格好いい人物だった。
「――オイッ、そういや」
「…………は、い……?」
と、まとめた所で……帰ってきた。
「お前さんの筋肉は、今。その身体が動かねェまでに深刻に破壊されて……。それまでよりも、強靭な筋肉に生まれ変わろうとしてる最中。破壊されれば再生するのは世の真理。打ち砕かれたってェ立ち上がらなきゃなんねェのが人生。今度こそ大切なもんを壊さねェようにって丈夫に作り直す。人はそう成長してきた。オヤジにも覚えはある。筋肉は皆にそれを教えてくれんのさ。より強くなって再生とは喜ばしい事じゃねェかァ? だがよォ。その為には、上質な筋肉を作り直すべく上質な材料が必要なのは当然のこった。解っか?
――だから、取っとけ!」
帰ってきたケンタイは、筋肉について短くも非常に熱苦しく言葉を語り。何やら自身の履いている袴の中をゴソゴソと弄ると、
「……これ。……デ、ジャブ」
“袴の中”をゴソゴソと弄ると!?
「――新~鮮~な~卵~ォ!」
「ぇえ……」
既視感を伴う登場方法。
「――新鮮な卵だァ。
親鳥の産みたてを拝借して、茹でた卵ォ!」
袴から、殻に包まれた卵を取り出して。
リンリの枕元に「ドスン!」と置いた。
「ぉ…………ぐぁぁぁ」
枕がズレて。呻き、悲鳴を垂れ流すリンリ。
ケンタイはニヤリとして、行ってしまう。
股間の辺りから取り出してなかったか?
股間の辺りに入ってなかったか?
殻に入っているので大丈夫か?
◇◇◇
……それから、三日後。
「――筋肉ゥ、もうリンリは万全かァ?
じゃねェや。お前さん、もう筋肉は万全かァ?」
「――どういう間違え方ですかそれ。
俺本人じゃなくて筋肉に話しかけないで下さい!」
「ガハハハッ!」
朝の体操が終わり、筋肉野郎共は解散。
その場に残ったケンタイが、腹筋運動をしながらリンリに話し掛けてきた。
――リンリが朝起きると、昨日まで残っていた筋肉痛がさっぱりと治まっており。これでようやく、統巫屋でのお勤めに戻れそうであった。
朝起きたら、まずやることは決まっている。
日課の“朝昼晩肉体改造洗脳込みの筋肉増強極限鍛錬(初級編)”に参加しなくてはならない。
さぁ参加しなくてはならない。
早く参加しなくてはならない。
絶対に参加しなくてはならない。
少しでも長く参加しなくてはならない。
少しでも多く参加しなくてはならない。
何故、どうして参加しなくてはならない……?
……とにかく。参加しなくてはならないのだ。
頭で疑問を抱きかけるが、理性よりも筋肉が優先されてしまい。極限鍛練の会場に向かってしまった。
いつの間にか、もう後戻りできない程に洗脳込みの部分を植え付けられてしまったという自覚は、無い。その自覚が無い事は、リンリにとってある意味で救いだったかも知れないが……。
「……筋肉。……筋肉。……筋肉が夢に……」
とりあえず。洗脳された原因は、リンリが筋肉痛で臥せっている間に延々と。部屋の外から聞こえてくるケンタイの“身体を鍛える事の大切さ”の怒声を子守唄にしたからかと思われる……。
リンリの自室のすぐ裏手にある屋敷の広場で、朝昼夕の定時に筋肉野郎共による極限鍛練が行われており。昼間に寝ていると、強制的に筋肉について睡眠学習させられてしまうという姑息な罠が仕掛けられていた。
……まぁ、リンリが洗脳されたまま筋肉野郎になったとしても誰も困らない。どうでも良い話。
「――ケンタイさん。
サシギさんが昨日、見舞いに来てくれて。その時にしっかり和解できましたよ。まぁもともと仲違いしてたというわけじゃなかったですが……」
続いて背筋運動を始めたケンタイに、その後の出来事を伝える。些細な会話だ。
「そりゃ良かったじゃねェか。
……あ、オイオイ待てよ。サシギが見舞いに来たのかよ。お前さん。あれだ。念の為に確認するけどよォ。渡したアレは忘れずに食って、さっさと処理したんだろうなァ……?」
反復運動を始めたケンタイは、顔を歪める。
「…………? あぁ、あの茹で卵ですか。
美味しくいただきましたけど……なにか?
でも、何の卵ですかアレは? 殻からして鶏の卵じゃないですよね。ちょっと俺、素人お菓子職人としての興味があります。すごくクリーミィで、黄味が大きくて特徴的な卵でした――」
ケンタイは自身の頭の後ろを掻いて、
「――言ってなかったか? サシギの卵だァ!」
さらっと。とんでもなく衝撃発言をするのだ。
「――――」
ケンタイの発言に、リンリの時間が止まった。
脳の情報処理が間に合わない。あんまりな衝撃で口が半開きとなってしまい、呆ける。ごくごく最近こんなことがあったような錯覚に襲われる。
「――は?」
深呼吸して持ち直し。油の足りない機械人形のように頭を動かし、彼の方を向くリンリ。
「『産んでしまった』と。
卵の存在を恥ずかしがるサシギが、いつも黙って保管すんだよなオイ。そんな“出所不明”の卵が見付かったんで。オヤジが処理を頼まれたんだがよォ。もったいないからなァ……茹で卵にしてみて、筋肉痛で栄養を必要としているお前さんに渡した次第だァ!」
…………おいおい。
「出所不明じゃ、ないぞ……それ」
この世界の人間が卵生というわけではない。
リンリは『最近、集落で赤子が産まれた』と話を聴いた覚えがあったから。
鳥に姿を変えるから。サシギは卵を産んでしまう体質なのだろうかと、予想。それに加え、彼女本人は産卵を恥ずかしがっているらしい……。
この上なく厄介な問題だろう。それは。
「――出所を知ってんのはよォ、このオヤジだけ。
ならよ。出所不明で構やしねェだろ?」
「――それ、食べちゃいけないヤツでは?」
絶対、食べちゃいけないヤツ。
とっくに消化吸収されてしまってるけど。
「食わねェなら、どう処理するって話だろ?
捨てちまうのは親鳥に申し訳ねェ。食い物を粗末にすんのは、もったいないだろうがァ!」
もったいない精神は、良い。
でも、ご自身で責任をもって食べて欲しい。
「……サシギさん、そういえば……。
俺の部屋の屑籠を掃除してくれて。なんか妙な顔をしていたような気がするんですが……。あの屑籠に卵の殻を捨ててましたよ俺……。サシギさん、気が付いてると思いますよアレ……」
どうりで。屑籠を眺めた後に、サシギは無表情で部屋から去って行ったわけだ。足取りもフラフラしていたし。「疲れているのか?」ともリンリが思った違和感の正体が今更に判明してしまったぞ。
「まいったなァ、そりゃよォ!」
「まいった、まいった」そう言われても困る。
参っているのはリンリの方だから。
「うっわー。知らなきゃ良かったぞぉ!!
ケンタイさん。俺は今回に限っては完全に悪くないですが、サシギさんとまた気まずい感じになるのは避けられないじゃないですかコレっ?!」
「……オイオイッ、そりゃアレじゃねェか」
ケンタイは神妙な顔で、リンリの肩を叩く。
「――堪忍なっ、てよォ!」
ぐっと拳を握って見せ。彼は走って行った。
無責任。肝心なところで無責任なオヤジだ!
「オヤジは、これからよォ。日々のお勤めの時間以外は鍛練の山籠りするからな。お前さん、サシギに伝えておいてくれねェか? ――じゃあなァ!」
「え、ズルい。ケンタイさん。え、えぇー!?」
――どうして、どうして。素晴らしい人格者という印象のまま終わってくれなかったのか。ケンタイの人物評が何十段階かリンリの中で下落してしまうというもの。最後にとんでもない厄介事を押し付けられてしまったものだ……。
――後の【卵事件】である。
食べてしまった卵については、リンリとサシギの間に一悶着あったが……。長くなるので。まぁ別の機会に語るとしようか……。
ケンタイにも、考えはあったようだし……。
無論、リンリは酷い目にあったものの……。




