一章……(六) 【使従】
――豆腐屋。ではなく、トウフヤ。
巨大な豆腐にしか見えなくなった、白く四角い外観の建物はともかく。
広がる素晴らしい景色に見惚れ、暫くの間ぼーとした夢心地で立ち竦んでいたリンリ。
まだまだ若者故に、景観などの風情や趣にいまいち興味が薄い彼をそれほどまでに引きつけたのだから絶勝だろう。
「――あ、調度良い所に居た。ケンタイ!」
「ん、ハクシ……?」
そんなリンリの横で、ハクシは景色の中で何かを発見したようで大きく声を上げた。どうしたのかと尋ねようとしたリンリだが、そのまま彼女は尻尾を振りながら緩やかな傾斜になっていた前方の坂を小走りで下って行ってしまう。
「倦怠、ケンタイ……? 調度良い所に……居た? たぶん、誰かの事だよな?」
はて、何処に向かっているのか? 調度良いケンタイとは? そう思って、ハクシの向かう方向の先に視線を向けてみる。注視すると、
「……あれは人、だな?」
目前の坂を下りて直ぐ近場の畑に、周りの景色と同化するような地味な色をした人影を発見できた。方向的に間違いないだろう。
どうも、ハクシはその人影に向かって進んでいるらしい。彼が“ケンタイ”だろうか?
「……えーと、ハクシに付いて行った方が良いだろうか? ここで待ってて第三者に出会ったりした場合、不審者扱いは堪えるよなぁ」
異文化交流か。ハクシ以外の誰かに接触するのは、未だこのトウフヤと言う場所を詳しく把握していないリンリにとって、正直、気が進まない部分もある。
「これは、付いて行くべきかな……」
が……結局は対面する事になるのだ。このままここで待機していても仕方がない。そうやって簡単に判断し、リンリはハクシを追って坂を下りる事にした。しかし、
「うっ……」
無様なこと。たいして進みもしないうちに小さく呻いてしまう。
緩やかな坂を下りているだけというのに、膝や足の関節からじりじりとした傷みが襲ってくるのだ。それに全身の寒気と倦怠感さえ感じる。更にふらつく。
「くッ、おっと……」
実に危ない状態だ。どうにも景色を見ながら身体を一度休ませたのが、返って裏目に出てしまったらしい。自身の体温が感じられず、視界が白黒になり、糸が切れたように身体が言う事をきかない。
「――りんりっ!?」
たまたま後ろを見たハクシが、リンリの具合に気が付いて坂を引き返してきてくれた。
「姿が見えた我の使従の一人を呼ぼうとしただけだから。別に、其方は坂の上で待っていれば良かったものを……大丈夫?」
「…………ハクシ、そう……か――」
リンリは「そう言ってから行ってくれ」と呟きそうになったが、ハクシの耳を垂らして心配そうにする顔を見て言葉を呑み込む。
「……肩を貸すね?」
「あぁ……申しわけない。でも、ははっ、まだ平気だ。流石に、こんな格好でハクシに肩を貸してもらうのは気が引ける……からな」
「ならば、はい。せめて、手は貸すね?」
ハクシは肩の替わりに掌をリンリに伸ばしてくれた。リンリは悪いと思いながらも、断る理由も見付からずにその掌を掴む事にする。ひんやりとした、それでいて優しい温もりを併せ持つ掌だった。
「はぁ……」
……ただ客観的に、自分よりも年下だろう、しかも出会ったばかりの少女に世話を焼かれていると思うと……どうにも複雑な気分になってしまうリンリ。案内してくれる彼女に配慮する筈が……この体たらくである。なさけない。
――そうしてハクシに手を引かれ、リンリは景色の中に見えた“人影”に向かって坂を下って行く。一歩一歩と近付くにつれて、自分達が向かう先に居る人影がどんな人物なのかはっきりしてきた。
「……ハクシ? あの人がケンタイ、さん?」
「是。そう。其方に紹介する。ほら、我の、系統導巫の使従の一人であるケンタイ!」
【トウフ】や【ケイトウドウフ】とは本当に一体どのような存在なのか……。
「……ほう。シジュウのケンタイさんか。因みにそのシジュウって、ハクシの使用人とか従者的な人っていう認識で合ってるかな?」
「一概にそれだけではないけど、其方のその認識で問題ない。……と、思うよ? 或いは眷属と言い換えても良いけど」
「……そうか。眷属……ねぇ?」
リンリが確認したところ、ケイトウドウフには従者のような存在が居るらしい。『或いは眷属』という言い回しは引っ掛けるが、まぁ聞き流す事にする。本当に彼女は高貴な存在のようだ。そして、そのシジュウの彼……。
もう大声で叫ばなくても十分に声が届くだろう距離に、自分達に背を向けて農作業をしている人物――ケンタイ。膝を折って中腰で作物の手入れをしている彼には、ハクシのような獣の耳や尻尾等の人外の特徴が見当たらなかった。リンリが見た感じだと、彼は自分と同じ普通の人間だと思う。ただし、
「あの、ハクシさん……? 後ろ姿だけでも、何て言うかあの人、すごい威圧感を感じるんだけども……。なんだかここまでと世界観が違う存在だろ。ムキムキのマッシブだし入れ墨だし、殺伐とした世界の住人じゃないか?」
「うん、威圧感? ……そう?」
――身に付けている黒味を帯びた赤黄色の衣服、その上からでも解る程の突起した筋肉。平均的な背丈をしているリンリを、中腰の状態でも少しだけ上回る程の高い身長。短めに整えられた角刈りに近い黒い髪。衣服から出ている首や腕に、でかでかと彫られた紋様や複雑な絵の入れ墨。
……背中からだけでもそれなりに威圧感を与えてくる彼の特徴から、先入観で人を判断するのは良くない事とは思いつつも内心で怯んでしまうリンリ。
「案ずるな。ケンタイは見た目こそ怖そうなおじさんだけど、実際は気さくな人だから! 気さくで、面白くて、優しい……自称狂戦士!」
「気さくで、面白くて、優しい……ね。そこまでは良いけど……自称、ん何だって? 俺はツッコまないぞ! 体調が悪くてボケにツッコめないぞ! ともかく、ケンタイさんに声掛けるのはちょっと待ってくれ……今、心の準備を」
狂戦士を自称する筋肉の彼。獣耳尻尾付き全裸少女ハクシとの邂逅と比べると、数百倍は気を張る必要があるリンリである。
「――ねっ、ケンタイっ!!」
「……あ」
坂を下り切り、ある程度彼に近付くと。ハクシはリンリが心構えをするより早くケンタイに声を掛けてしまった。
「あン、何だよ?」
ハクシに声を掛けられた彼は、俯いていた首をゆっくりとした動作で持ち上げた。
「ハクシだな? オイオイ、また“枝”が変な場所に置きっぱなしだったと言ってサシギが探していたぞ……んァ?」
それから、そう口にしながら手に持っていた桶を地面に置き。同じくゆったりとした動作で振り返る……。
「――ハクシ? おいッ、ソイツは誰だァ?」
その瞬間。彼の、ケンタイの猛獣を思わせる目が、ハクシに手を引かれているリンリを射るように見つめてきた。が、睨まれているわけではない。あからさまな警戒等もされていないようで、一先ずは安心するリンリだが……やはり怖そうなおじさんである。
「どうも……始めまして。はは……」
そんな風に臆してしまったが、取りあえず彼に会釈をしておくリンリ。
「ケンタイ、この者はりんり。我が、いつもの滝で水浴みをしようとしたらね――」
ハクシがケンタイの目の前まで行って、事のあらましを伝え始めた。リンリはその様子を眺めながら、自分がこの後どうなるのか。どう行動するべきなのかを考え込んでいた。
「……あ、れ……?」
――だが、直に限界がきたのか、徐々にリンリの意識に靄が掛かる。ハクシに心配を掛けまいと無理をしていたが、もう駄目だ。
途端に現実感が曖昧となり、世界が回る。
視界の光景が色褪せて行く。
次にリンリが目覚めた時には、或いはこれがただの夢になっているかも知れない。それならば、それで良い。寧ろ、こんな突拍子もない体験など夢であって当たり前だ。そうか……これはきっと……。日常生活に疲れたリンリの観た……一夜のただの夢。泡沫の夢だろう。
ただ……心残りは、せっかく出会った美しく、可愛らしいハクシという少女と……もう少しだけ……触れ合っていたかった。そのまま、トウフヤという非現実的な世界でゆっくりとするのも悪くなかったかも知れない。そんな定まらない思考に埋まって行くように、
リンリの意識は――闇に落ちた。




