一章……(四) 【羽衣】
――気が付くと水中。
何故か裸姿で川に流されていて、おまけに片足を痙ってしまい、流されるまま滝に落ち、しまいに滝壺で溺れかけた。そんな風に、災難続きだったリンリ。
だが、過程はどうあれだ。
リンリが“ハクシ”という少女と出会えたのは実に幸運であった。でなければ、濡れた身体にムチを打って当てもなく大自然の中を彷徨い歩く羽目になっていただろう。
食料はもちろん無く。それどころか荷物や衣服さえも無く。山道等を進む心得や識も持っていない素人の素人。おまけに不摂生から体力も万全ではない。そんな人間が挑むには、それは無謀過ぎる戦いである。
仮に運良く人に出会ったり、人が住んでいる場所にたどり着けたとしても……。
悲しきかな、今のリンリの裸姿では不審者として警戒されてしまい、陸な扱いを受けられなかっただろう事は言うに及ばない。
口利きをしてくれる、こちらの境遇を理解した案内人の存在はとても望ましい。
――だから、ハクシというあの少女には感謝しなければ。彼女がどんな存在だったとしても、だ。リンリはそんな風に思いながら「我は先に上がって衣を着てくる」と言って、一足早く岸に上がって行ったハクシの小さな背中を遠目に眺めていた。……具体的には、その背中でゆらゆら揺れる尻尾を眺めていた。
「尻尾、付いてるな……やはり本物だ」
――確りと、銀色のフサフサの尻尾が彼女の臀部、尾骨の辺りから生えているのを確認した。あれは本物に間違いない。はからずも些細な目の保養となってしまった。
それから、獣っぽい身体の特徴は瞳や耳や尻尾だけかと思ったが。彼女は背中側の肩甲骨の下くらいから臀部にかけて、柔らかそうな毛皮に包まれているのだと知る。
リンリは【ケイトウドウフ】【トウフ】というのは彼女の肩書のようなものと解釈したが。その人外的な特徴を『賜った』のが【トウフ】だという彼女の自己紹介から、【トウフ】とは、人間とは別の【トウフ】という種族……? といった線も考えられる。そういえば普通の人間の存在も、彼女との会話の中で明示されていた。
ここは、領域。【トウフ】のような“特別な存在”が入れる場所だとも。つまり、
「つまり、豆腐のゲシュタルト崩壊だ」
現状、考えてもしかたない。得られた情報を頭の中で組み立てた結果、脳内の豆腐という概念が崩れただけに終わる。まったく役にたたない脳だ。
「豆腐って、なんだっけ……?」
むなしい呟きが聞こえたのか、彼女がこちらをちらりと振り向いた。
リンリは視線をズラす。思考しながら、もう少しだけ優雅に揺れる尻尾を眺めていたかったが。
流石に何時までも年頃の少女の着付けを眺め続けているというのも良心が咎めた。岸の反対の滝壺側を向いて、痙った足の脹ら脛を揉みながら待つ事にした。
「うん。我の着付けは済んだ。待たせてしまった。其方も岸に上がると良い。……構わないから」
暫く経つと、ハクシが離れた場所に居るリンリへと大きめの声でそう伝えてきた。
一言返事を返し。リンリは振り返って「漸く陸に上がれる」と、岸へ向かい歩き出す。
「あれ……? どこへ行った?」
リンリが岸に上がると、ハクシの姿が何時の間にか消えてしまっていた。本当にほんの一瞬で姿が消えてしまったのだ。
「ハクシ様……? ハクシさん? おーい」
はてさて。彼女は何処に行ったのかと探すと、岸にいくつか転がっている大岩の影から“ぴょこん”と獣の耳が生えてくる。
「いや、なぜ隠れるんだ?」
そして次に、白くて小さな腕が綺麗な布を握って遠慮がちに出てきた。
「我は失念していた。やむを得ぬな、これを其方の腰にでも巻いて。良い? そうしたら……ぁ、そうしてから、我に声を掛けてね?」
腕の主はそんな事を言ってくる。
「あぁ……俺に配慮が無かったな。悪い」
どうやらハクシは、直接に男性の陰部を見るのが恥ずかしかったらしい。
リンリも勿論好きで年頃の異性に見せ付けてはいないし、実際に水中ではハクシに気を配ってずっと両手で隠していたのだが。ここまでの彼女の反応が薄いので、岸に上がる時に隠してはいなかった。
落ち着ける場所へ案内をしてもらえるとの事で気が緩み、リンリの彼女へ対する配慮が疎かになっていたのは事実。ナニかを股の間でぶらぶら揺らして水から上がってきたのだから。
だが正直、岸に上がる前にでも「隠せ」と伝えて欲しかった所でもある。ハクシの腕がぷるぷると震えているのを見ると、実は直視しないように、意識しないようにと彼女なりに我慢でもしてくれていたのかも知れない。失礼だが可愛らしい話であり、また申し訳なくもある。
「ありがとう。これ、借りるな?」
リンリはソレを受け取って、広げる。渡された物は金の刺繍で装飾されている純白の艶々した肌触りをした肩掛けのようだった。
素人目でも非常に高級そうな一品だと解る。だけれど、リンリの掌から水分を吸うと、その部分が薄く透けた。とても吸水性が良いようで、直ぐ布全体が“向こう側”が見えるほど“薄く透けて”しまった。
「……そ、そうか。貸してくれて感謝する……んだけども。あー、無いよりはマシだろうけど。コレ見方によっちゃ全裸より変態度がアップしないか? スケスケ褌野郎とかド変態だろ」
が、仕方なく、実際に巻いてみた。
やはり、透けている。寧ろ、全裸男から完全な不審者に昇格……否、降格している。なまじ布が良い為に、かえって悲惨な見た目である。
「……あの、やっぱコレ。キツイって」
「ん? 終わった、の……か?」
ハクシは初めてリンリに声を掛けた時以上に、おそるおそる岩影から顔を出してくる。
のそーりと出てきた顔は真っ赤。リンリと視線が合い、ハクシはゆっくりと視線を下に降ろして行き…………。
「――ぁぅ、其方っ!! 透けているっ!!
男の人のが、ま、丸見えだけどっ!?」
ハクシは叫んだ。
「あぁ、丸見えだよ……な」
少々理不尽なハクシの叫びに、呆れながら呟くリンリであった。
◇◇◇
「あぁほら、その辺に浮かんでた大きな葉っぱを布とソレの間に挟んだから、もう大丈夫だっ!
ほらほら、透けてないっ! 安心してくれ!」
「最初からそうしてぇ……」
「悪かったよ。でもさ、自分で濡れるとスケスケになる布を渡してきたんだろうに。単に俺は『巻け』と言われた指示に従っただけだから。……とか責任転嫁の言い訳をするリンリさんであった」
「うぅ……ぁぅ……」
ハクシは伸縮性が高い羽衣のような物にくるまって身体を小さくし、涙声で文句を言ってくる。だが、リンリの言葉に何も反論を返せないのか、小さく唸るだけでそれ以降は何も言わなかった。……どうも、透ける布は素で渡してしまったご様子。
「そうだなぁ……。
物を借りる身で言うのも厚かましいのだけど、どうせなら羽衣を貸してくれた方が良かったんじゃないか? 濡れても大丈夫だったし、布面積もあるしさ」
「……なっ?! なんと!?
其方は、我の羽衣を剥ぎ取るとか言い出すのか? 何と恐ろしいことを。我に落ち度があったとはいえ……あんまりだよぅ!」
「えーと……悪かった。いまいち意味がよくわからないけど、酷い事を言ったのなら悪かった! とりあえず謝罪する、申し訳ない!」
「謝罪は必要無いが、覚えておくのだ。
良いか? 羽衣は統巫の証故に。……とれないの!」
「えぇ、取れないの……?」
「とれないのっ!」
「そうなのか!?
ソレ身体にくっついてるのかっ?!」
「そういうわけではない……けど」
では、彼女専用装備として納得するとする。
「ぁ……もぅ」
「ははっ」
疲れたように彼女は耳を倒し、その口先を小さく尖らせた。いじらしい姿だ。
リンリは敢えて触れなかったが、ハクシの中途半端に厳粛な喋り方や“我”という一人称。
仰々しい口上。人外の特徴。以上から、彼女が……【トウフ】がどんな存在なのかを秤兼ねていた。だけれど今現在の彼女を見ると、そんな事どうでもよくなってしまうのだから不思議だ。既にリンリには、ハクシが仰々しい言葉を使って背伸びをしている……年相応の、獣の耳と尻尾をつけた可愛らしい少女にしか見えなくなった。
――故に、リンリが小さい子供をあやすように、又は小動物を愛でるように、羽衣のような物の上からハクシを撫でてしまったのにも特に理由は無い。




