一章……(一) 【泡沫】
「――人として逝きたい?」
それは、色の失われた世界に再び彩りを与え、優しく響き渡ってゆく清雅に澄だ声色……。
自らさえ見失ってしまうような深淵の中を、何時までも何処までも、終わり無く彷徨っていた。
混濁とした意識と記憶の波。誰彼の影が墨色で満たされた虚の底で蜷局を巻いている。理解の範疇を逸した光景が過ぎ去り、再び繰り返され。徐々に墜ちて、沈んで、没して逝く。
果たして自らは歩んでいたのか、流れに任せ揺蕩っていたのか。もし進んでいたとしたならば、何処へ向かい。そうして何処まで行けたのだろう。
ふと浮かんだ思考は、しばらく水中の気泡のように漂った後に意味を成さずに四散する。
そんな曖昧で朧気な状態の“彼”に対し「応えて」と続け。何者かが投げ掛けるように訊いた。
「――うぅ……ぅ、くぅ……」
彼はその声に導かれるように。
さながら深淵の茫漠の内。沈み、染められ。
沈み、溶けて。沈み、散って。もう間も無く消滅の間際で。完全に何処かへ消えかけていた意識を辛うじて現へと浮上させるのだ――。
「……? …………ッ?」
――彼が目を開くと、ぼやけた視界。
「――ッ!」
次に、頭痛か。自らの頭の内より、神経系を鷲掴みにされているような耐え難い痛み。
それと呼応するよう、聴覚への苦痛。至近距離で銅鑼でも打ち鳴らされているような。同じく耐えるのがやっとな程に不快な耳鳴りに襲われた。
「――ァ……ぁァッ……!」
彼は何か言葉を口に出そうとする。
けれども自分の意思に反して、口からは乾いた空気が力無く漏れて行くだけに留まる。
喉で発音する程度すら儘ならないらしい。
加えて、口の開閉をしただけで数時間休まず働き積めたような疲労感。更におまけに、全身に鉛でも詰められているかの如く、指の一本たりとも動かす事が叶わないではないか。
これは異常だ。とてもじゃないが、正常な状態であるとは思えぬ。……彼は今この現状、自らの熱っぽい体温を感じられる以外は頭の痛み。それと出所の知れぬどこか漠然とした疲労感や倦怠感といった苦しみ以外、殆どの肉体的感覚を失っていた。
――蓋しくも風病のよう、なむありける。
いいや、正しくそれだ。得心がいった。
――風邪か。それも非常に質の悪い風邪。
苦痛の荒波が過ぎ去って行き。訪れた静寂で「風邪だろう――」思い做し、一呼吸。頭の中「そうだろう」と見当を付けて一度熱い息を吐く。
あぁ事実として、現在の状態は多少なりとも重症化しているのだろうが風邪の時のソレに酷似しているようにも感じられたからだ。
――そうか、風邪ならば仕方ない。
そう自己完結。あるいは現実から目を背け諦念。患ってしまったのならば、もうそれは仕方のない事であり。どうしようもない。よって苦しみから一刻もすぐに逃れる為、早々に目蓋を閉じるとする。
眠りへ委ねれば、苦しみは終いだ。すぐさま安らかな眠りの淵へと戻れることだろう。後は、ゆっくりと視界を閉ざして行くのみ……だった。けれどそんな彼を現に引き留めるよう、再び何者かが澄んだ声で何かを訊いてくるのだ。
「――人として逝きたい?」
夢中で聞こえた時とは違い、
彼のすぐ近くで繰り返された同じ言葉。
「……?」
彼は言葉が発せられた方向に、現状で唯一動かせる状態だった瞳をそっと向けた。
そうすると、小さな輪郭が控えている。
輪郭の正体、言葉の主。始めのうちは未だぼやけてよく解らなかったが……。意識すると徐々に鮮明になる視界で……言葉を発していたのが、床に臥っている自らを横から見下ろす形で方膝をついている一人の“少女”なのだと知った。
「…………ぁあ――」
――それは、目を見張るような非常に美しく可憐な少女だった。おおよそ神がその身姿を愛でる為、天上の神業で直々に手掛けた人形のような。人ならざる特徴を持つものの、本当に愛らしいと思わせる銀色の少女……。少女……彼女は――?
「りんりぃ……人として逝きたい?」
――その少女の呼ぶ【リンリ】という名。
(……り、ん……り?)
その名が、己の名前だったのだろうかと疑問に思う程に彼は壊れてしまっていた。
その自覚が無い事は、彼にとってある意味で救いだったかも知れないけれど。
でも同時に、胸が締め付けられるような錯覚。
錯覚。錯覚か、いいや違う。錯覚なんて無価値なものでは断じてない筈。己と少女との間に有ったのだろう物語、記憶、思い出。己と少女の周りに存在していたのであろう“大切な何か”を見失っている。そんな根拠の無いのに、魂からの確証めいた想像が彼に罪悪感や自己嫌悪を抱かせる。
「人として……逝きたい?」
少女は未だに、彼に視線を向けられている事には気が付いてはいない。
彼女は涙を溢れんばかりに金の瞳に溜めて、ただ彼の片腕を両手で大切そうに握り締めて、ただ同じ言葉を繰り返していた。
そんな少女の姿、いじらしくも悲痛な彼女の様子に胸を痛め、伴う苦痛を押し殺して『持ち直そう』と足掻く。結果として、彼はほんの僅かばかりの自意識を取り戻す事ができた。
「ねぇ、このまま人として、逝きたいの?」
「…………」
――彼には既に、自らに何度もそう訊いてくる彼女。……金の瞳と銀の髪の……頭で揺れる獣の耳や腰で垂れた尻尾を身体に持つ、いと愛らしくも美しい少女。彼女がいったい誰だったのか、そして、投げ掛けられるその“問”の意味すら理解出来なかった。
どうしようもなく、わからないのだ……。
己の、自らの存在に拘り合っていた筈の事柄一切が、その全てが、白く無地の如くに。それらを失ってしまった理由でさえも白紙なのだ……。
――白紙のような状態の己。
本来、自分自身という紙に書き込まれ、描かれていたものは、深淵の墨色と同化し溶け込んだのだろうか。意識が浮上する際に、汚染された己の部分を切り離したのだろうか……。
抽象的で、支離滅裂な考察。
思考は、そこで途方に暮れる。
徐々にまた意識が沈み始めた。
掴みかけた機会は、されど無意義に。
(白紙……はく、し……?)
――しかし偶然の光明か。
何か、何かが。何かが引っかかった。
それも理解出来なかったが。理解出来ないという事実が、堪らなく彼の取り戻した“自意識”を苦しめるのだ。よって「このまま沈むわけにはいかない」という執着が現に生まれ。意識を辛うじて再浮上させる事に繋がる。
至らない己に叱責。奮い立たせる自我。それでも「自分にはまだ足りない」そんな自己嫌悪が欠けていた“意思”を揺り動かして行く。
……それらは、やがて彼の中で一つに折り重なり、束なり、紡がれ。統巫屋に居た、統巫屋で得た“意義”を呼び覚まして行く。ほぼなんにもわからないままだけど……でも十分だ。“一つ”は思い出したから。そう……そうだった。
――彼女の名は、白紙。否、否だ。
――ハクシ。
「…………ッ!!」
……ハッ、と。
彼女に返事をしなければならない。
彼は何故だか解らないが、ただ、それだけを直感的に判断した。だから、感覚も無い自らの身体に可能な限りの力を込めた。
「……!? りんりっ!? りんり!!
其方は今、意識があるのっ?!」
――その結果。
本当に僅かにだが、少女に握り締められている彼の腕の指がぴくりと小さく動いた。それに気が付いた彼女は、驚きを含んだ声と共に耳と尻尾を跳ねさせて反応する。
「ぅ、ぅ、りんりぃ……う゛う゛」
彼女は彼の目が開いているのを見て、その瞬間に感情の抑えでも効かなくなったのか。彼の腕に抱き付き、息をつまらせるようにしてむせび泣いてしまう。
「うッ……うッ、うぅ」
愛おしい者との最期の別れを惜しむような悲痛な顔で泣き続ける少女。
「グッ……うぅん。……りんりぃ!」
そのままにしてしまえば、永遠にさえ泣き続けてしまいそうな雰囲気だった少女。けれど、そう長くは泣いていなかった。彼女は自身の唇を噛んで無理に泣くのを堪える。
――泣いていられなかったから。
「りんりぃッ……あのね……!」
少女は、強い意を決した。といった表情で真っ直ぐ彼を見ると。抑えきれない、堪えきれない涙が自身の頬を濡らして行くのを無視して告げる。
「りんりは――」
続く『言ノ葉』を声として発してしまえば、もう後戻りは出来ない。彼女も彼も。――それは此土の定め、天命から外れる禁忌と成りかねない、罪深き、忌むべき行為に違いない。
だけれど――彼女には関係が無い。
構わない。後悔なんて無い。そう自身の神に、天命に誓えた。故に口を開く。だから彼女は何一つの迷いすら無くその言ノ葉を紡ぐのみ。
「――或いは、人を捨ててまで生きたい?」
――統巫は番を求めたのだ。
◇ 第一章 ◇
――それは、追憶。
「――へぇっ? うおっ?!」
踏み出した片足は空を切り、大地を見失い。
そのまま下へと沈み込む。ただそれだけならば良かったのだが、踏み出した足の方へ身体を傾けていたのが災いして“身体の重心の均衡”を大きく失ってしまう。結果、その者は前のめりになって倒れこんでしまった。
――次の瞬間に、バシャリと水に何か重たいモノが落ちたような音が辺りに響く。
全身にひんやりとした感覚。塞がれていた視界が開いて見えるようになった、幾重もの輪となって広がる透明な波紋。網模様を描き、きらりきらりとする水面の光の反射。それで、直ぐに彼は己の身体が水中に居るのだと理解した。
「ゴボ……ゴボ、ゴボっ?!」
理解したが、理解出来なかった。何故、何処から、どうやって水中に落ちてきたのか?
彼には因果関係が全く解らない。
というよりもだ。直前までの記憶が、まるでその部分だけ濡れてふやけてしまったかのように曖昧であるという事実。
ただ目蓋や頬に残った感覚から、何者かに優しく目隠しのような事をされて「進め」というような指示をされた気がした。そんな……気がしただけかも知れないが。
「ゴボゴボ……かハッ――」
刹那の内にあれこれと思考を巡らしてから、遅れて来た息苦しさを感じて頭が冴える。そこが水中なのだと再認識する彼。
認識すると、途端に心臓の鼓動が早まる。
開いた口から大粒の気泡が立ち上る。
肺に酸素が足りずに、より息苦しさを感じてしまう。とにかく空気が足りない。このままだと“溺死”しかねない。彼は即座にそう判断し、口と鼻を掌で塞ぎ上へと。ただ水面へと急いだ。
「――ハッ! ハァ、ハァ、ゲボ、ゲボっ!
ハァ、ハァハァ。……いや、どこだよココは」
浮上。彼は顔を水面から出し、一度深呼吸をしてから混乱を言葉にする。
「……河だな。……大自然。
は、はぁ、はぁ……大自然と……?」
そこは河だった。
岸に野草の花が咲き乱れていて、遠くには紅葉に染まった葉の木々が繁っている。
視界を岸の反対側に向ければ、そちら側は崖のようになっていて、優しく差し込む日光が崖上の木々の枝葉を通り、河に反射してより一層に周囲の様子を引き立てる。
こんな状況でなければ、見る者を魅了し望郷の念を抱かせる美しい景色。大自然だ。
「そして、どうして……俺は裸なんだ?
コレはもしかして俺、事件に巻き込まれた一般人的な立ち位置か。身ぐるみを剥がされて、薬品か何かで意識を朦朧とされた挙げ句、どこかの森の中に捨てられた系か……?」
その景色を背景に、漠然と。どういう訳か全裸の状態で河に浮かんでいる彼。
「……無いな、無い。と、思いたいが……」
青年の名は【リンリ】と言う。
特徴を言うとすると、特徴が薄い。黒髪、短髪。中肉中背で筋肉も脂肪も控えめで、どちらかというと痩せ気味かという身体つき。
顔からして人は良さそうだが。目元に隈があり、頬も痩せており。その血色も悪めで、やや不健康で窶れたような顔つきをしている。
一言、どこにでもいそうな青年だ。
「――わけがわからないッ!
とにかく、わけがわからない。という事しか解らない以上ッ! よし自己分析完了。えっ、いやいや俺はここからどうすれば……っ?!」
彼は口では現状に動揺しながらも、思考は放棄していない。身体が水に沈まないよう体勢を整え、首を左右に回し、辺りの様子に気を配り。入念に自分の安全を確保しようとしている様子。ある程度は慎重さや冷静さは持つ性格だろうか。まぁそんな青年であった。
「……うおっ! 痛っ……。
あっ、うぐっ、足つッたァ……ッ!」
……改めよう。小心者で、不運で、不器用、どこか抜けている。取り立てて言う事がない。本当に何処にでもいる青年だ。
――これが、全ての始まり。




