猫叉先輩と僕と真夜中の話
人が真夜中に出歩くようになったからと言って、霊の出る時間を繰り延べに出来るかと言うとそんな訳はなく、畢竟出会う確率も高くなる。つまり、霊感も無い僕みたいなのが猫叉先輩の「夜、出歩かないように」という忠告も聞かず、夜中にコンビニに出かけたりすると。
「「「バウウウウウ!!」」」
路地裏でこういうのに絡まれるという事態が僕の身に絶賛開催中だ。吠えるのは頭が三つの犬だ。元の大きさより確実に大きくなっているだろうその犬が、犬歯を剥きだしにして僕を威嚇する。ここで背中を見せて逃げるのはおそらく悪手。無防備な背中をさらすのはマズい。となると、目を見ながら後退するのが得策だろう。
とはいえ。
(どの目を見ればいいんだろう……)
上と右と左の両眼、合計6つのどれが主体なのか、見る限り全く判別がつかない。どれもこちらを向いている気もするので、どれでもいいと言えばそうなんだろうが、実際に目の前にいられたらそんな悠長なことは言ってはいられない。仕方ないので、とりあえず右の方の頭の目を見ながら、後退を始める。
にじり、にじりと下がっていくと、向こうもにじり、にじりと接近してくる。速度的には五十歩百歩。彼我の距離は一向に広がらない。
(確か、この先には三叉路があって、右に曲がってここだったよね……)
地理を思い出しながらじりじりと下がる。間違ってどん詰まりに行ったら最後だ。その前に助けを呼ぶか、と思ったのだけれど、唸る三頭犬を見れば、声をあげたら一気に襲われそうだ、とも思えて、怖くて声が出ない。だから、ただただ下がるのみ。
(そろそろ三叉路……)
と。
衝突。だが壁にしては当たるのが早いし、やけに当たった感触が柔らかい。
その触感の主が言ってくる。
「何してんだ、君」
衝突先は目を逸らせないので見れないが、声に聞きおぼえがある。というか猫叉先生だ。
猫叉先生。猫叉先輩の姉で高校の保健体育の先生。猫叉先輩に比べてボリューム感があり、猫叉先輩が育てばこうなる、とは流石に思えないくらいの発達ぶりだ。それが柔らかい衝突の原因である。そして猫叉先生は僕とは猫叉先輩とのことで関係がある人でもある。
それがこんな所でなにをしているんだ。
僕は三頭犬から視線を逸らさず、返答する。
「あれが、追ってくるんです」
「あれ? ああ、あの犬っころね。やっぱ最近多いね、こういうの」
やれやれといった様子の猫叉先生の言葉に、僕は反応する。
「多い、って、これも憑依の形態なんですか?」
「そうだね。ここんとこ三日に一回くらいは報告があるね。こないだの炎狼程の力を持ってはいないにしても、あちこちでだから対処が中々ね。こっちの側でもやるにはやってるんだが」
「えーと、それはそれとしてですね」
「やっぱ、野犬は何でも食い過ぎだよね。大体犬の変化だからなあ」
「あの、犬、そろそろ、こっちに」
こっちに、と発した次の瞬間、いくつかのことが起こった。
一つ。犬がとうとうその顎を僕に向けて迫ってきたこと。
二つ。僕と猫叉先生の位置が魔法の如く入れ替わったこと。
三つ。犬の顎に猫叉先輩の足がぶち当たったこと。
その結果、三頭犬は「ギャン!」と声を上げて軽く飛んでいくが、着地と同時に態勢を立て直し、逃げる様子を見せずに立ち上がる。
「へえ、やる気のある犬っころだね」
「「「グルルルル……」」」
猫叉先生の言う通り、三頭犬の戦意は些かも衰えていない。むしろ猛り狂っている。
「「「ガウ!」」
三頭犬が吠えると、突如としてその頭が二つ、凄い勢いで伸びてきた。予想外のレンジからの攻撃に、しかし猫叉先生は「へー」と言って容易く避ける。
「ガウ!」
先の攻撃で猫叉先生の態勢が崩れている所に、残っていた頭が急速に伸びる。狙いは、猫叉先生の首筋。危ない!
ガチン!
と、甲高い音が鳴った。猫叉先生の悲鳴が聞こえるかと思ったが、違う。何の音だ?
「狙いとしては全く悪くないんだけどね」
猫叉先生の声がする。その首もと近くに、犬の首。そしてその間には刃がある。いつの間にか抜かれた刀が、その刀身で犬の牙を受け止めているのだ。
「相手の力量を見極められずに攻撃する辺り、働いたとしても所詮犬知恵なんだよね」
猫叉先生は牙を受け止めていた刃を押し込み距離を付けると、素早く刀を引き、そしてその伸びてきた頭をぶっ叩いた。
「ギャン!」
と鳴くと同時に、その頭は消失した。
「「グルルルル……」」
頭が二つになった犬は、尚も威嚇の声を上げ続ける。闘志は依然衰えを見せない。
「残りの頭も、綺麗にぶっ潰してやるかね!」
と気を吐く猫叉先生に、僕は注意を促す。
「いや、殺しちゃうのは流石に寝覚めが悪いですよ、猫叉先生」
猫叉先生は「んだよ」と毒つきながら聞いてくる。
「じゃあ、どうするのがいいんだよ」
「憑依なら気絶で消えるんでしたっけ? だからとりあえず、気絶で収まる範囲でぶっ叩いてはいかがですか?」
僕の提案に、「まあ、穏当だね」と答える猫叉先生。
「峰打ちにしても、ほどほどに、ですよ。相手、犬なんですからね?」
「わーかってるよ。ったく、やり辛いったらないね」
そう言って、猫叉先生は刀を構える。その刀はよく見ると、刃が無い。それでは単なる刀の形をした鉄の棒だ。
「猫叉先生、その刀……」
「あん? まさか、覚えてるのかい?」
「……え?」
覚えているって何を?
混乱する僕を尻目に、猫叉先生は「違うならいいや」と言って、それから二頭犬に突進を掛ける。二頭犬は首を伸ばしてくるが、その手は猫叉先生にはもう通じない。ひらりひらり華麗に回避し、二頭犬に肉薄する。
「せいや!」
首が伸びきって隙だらけの胴体に、猫叉先生の一撃が下から突き刺さる。犬は軽く上に跳ねあげられて、それから地面に落ち、這いつくばった。
「一丁上がり、だ、……ん?」
意識を失ったかに見えた犬は、しかし立ち上がった。頭は一つ、元の犬になっていて、そして足もガクガクしているのに、気丈とすら言える立ち姿である。
「素直に寝とけば、いいのによお!」
「猫叉先生、それ完全に悪役の台詞です」
僕の指摘に猫叉先生は「んだよ」と毒づきながら振り返る。
「他にどう言やいいんだよ! これ以上強く殴ったら、骨が砕けて死んじまうってレベルの入れたのに、起き上がってくるんだぞ!」
猫叉先生の言い分はもっともだ。今の一撃は見ているだけで痛々しい、食らった方が気の毒になるレベルだった。あれで戦意を喪失しないのは既に異常の域である。だが、犬は立ちあがって威嚇している。この戦意の源は?
と。
「ねえちゃ、ストップ」
声が、猫叉先輩の声がした。見れば塀の上に、悠然と佇んでいた。
猫叉先輩は今は私服姿だ。私服は初めてみるが、上下ともに黒で統一されたその姿は、凹凸の少ない、しかし滑らかな肢体と合わさって黒猫の雰囲気を醸し出している。それが月明かりに照らされるのが美しいと思った。
その猫叉先輩に、猫叉先生は聞く。
「妹ちゃん、どういうこと?」
猫叉先輩は塀から降りると猫叉先生への答えを返した。
「その犬、もうちょっと下がれば襲ってはこないよ」
「? なんでそんなことが分かるんだい?」
「いいから、下がって」
猫叉先生と僕は、猫叉先輩に言われた通りに、犬から視線を逸らさないようにしながら下がっていく。すると、しばらく唸っていた犬が、こちらが三叉路を少し行った辺りで唸るのをやめると、唐突に走り去っていった。
「……なんだあいつ。帰ってったぞ」
猫叉先生の言葉に、猫叉先輩は「だろうね」と答える。さらりと答えるので、猫叉先生は更に追及する。
「それが何で分かったんだい、妹よ」
「向こうに、あの犬の住処があるの。そこには子供も」と、猫叉先輩。
「ははあ、成程。あれは子供を守る為の行動だった、って訳か」と猫叉先生。
つまり、僕は誤ってあの犬の警戒する圏内に入ってしまった、から、追い立てられたというわけか。
「でも、それだったら他の人は襲われてないんですか? 結構人の通る所ですよ?」
そう聞く僕に、猫叉先輩は「やれやれ」といった風に動いて返してくる。
「普通の人なら、あそこの不穏な気配、あるいは霊力の歪みを感じ取って本能的に避けて通るよ。君の霊感の無さは、やっぱり相当なものだ」
「はあ、そういうものですか」
僕はそう言って納得する。
「にしても、悪いことしちまったかな。わりと強くぶん殴っちまったし」
「こればっかりは仕方ないよ。不幸な巡り合わせってやつ」
「そーだなー」
そういう会話する猫叉姉妹に、僕は疑問。
「そういえば、なんで猫叉先生も猫叉先輩も、こんな所にいるんですか? パトロールとかですか?」
「うんにゃ。あたしは非番だし。ちょっとコンビニに買い出し。……、妹ちゃんはなんでいるの?」
「財布」
「……。あっ!」
ポケットをまさぐってそれが無いのに気付いた猫叉先生に、猫叉先輩はあきれ顔だ。
「もー、ねえちゃはよくよく気をつけて行動しなよ。なんで買いだしなのに財布忘れるかなあ」
「いやあ、すまんすまん。じゃあ、後は頼むよ」
財布を受け取ると、猫叉先生はそう言ってコンビニの方向に向かって行った。
猫叉先輩は、僕の方へ。そしてお説教をしだした。
「君ね、最近物騒だから、夜に出歩かない方がいいって、あたし言ったよね?」
「そうでしたか?」
「言・っ・た・よ・ね?」
「……そうでしたね」
「なのに、これ?」
「大丈夫かなあ、と」
「大丈夫じゃなかったでしょ?」
「あっ、はい」
「返事だけ良くてもね」
「あんたら二人して何ちちくりあってんだよ。夫婦喧嘩は犬も食わないって言葉知ってるか?」
コンビニに向かっていたはずの猫叉先生が、急に戻ってきていた。その言葉に、猫叉先輩が食らいついた。
「何言ってるの、ねえちゃ! これのどこが夫婦喧嘩だってえの! 全く、馬鹿言わないで!」
必死さが伝わってくる猫叉先輩の言葉に、僕も追随する。
「そうですよ、猫叉先生。そもそも恋人ですらないんですし」
「……」
「……」
あれ、空気がおかしい。何か返答を間違えたりとかか、これ。何か失敗?
すると、猫叉先生がゲラゲラ笑いだした。対する猫叉先輩は憮然とした表情をしている。そして、「もう帰る」と言うだけ言って、突如として姿を消した。
えと。
「僕、何か間違えましたかね」
率直にそう、まだ笑っている猫叉先生に聞く。猫叉先生はそれも楽しいのか、更に笑いのギアを上げて、しばらく笑った後、言った。
「正しいけど正しくなくて、間違ってるけど間違いじゃない。そういう機微の話だね、これは。そこが分かってないと駄目だよ。ってもまあ、解が無い問題でもあるだろうけどさ」
禅問答めいた言葉を投げかけられ、僕は混乱する。何が、正しいとかそういうのじゃなかったのか?
混乱する僕を見た猫叉先生は、今度は溜息を吐く。
「どうにも、君にはもうちょっとしっかりしてもらわんといかんね。あたしは単細胞って自認もしているからあんまり困らないけど、あの子は、妹は色々繊細なのさ。君との関係性、君と周りと自分との関係性とかも、色々考えちゃうのさ。あたしは、適当に好きに生きればいいと思うんだけど、まあその点が姉妹の差ってやつかね。と。言葉が過ぎたか」
そう言って、猫叉先生は帰るそぶりを見せる。このまま帰られると困る。だから僕は口を開いた。
「あの……」
と、口にはしたものの何が言いたいのか分からない。何か言わないと、と思っても、思考は空転する。
それを見て、猫叉先生は仕方ないな、という素振りを見せて、言った。
「夜は長いが、君の家はそう遠くない。せいぜい早めにな?」
「あっ、はい」
僕の不明瞭な部分のある受け答えに、それでも満足したように、猫叉先生は去って行った。
はい、とは答えたものの、何が早めなんだろう。というか、僕一人で放置されてるじゃないか!?
と気づいて慌てる僕。まだコンビニにも行ってないのはこの際良い。またさっきみたいなのに引っかかったら、と思うと、ここは帰るしかないと思える。
でも、帰り道にやっぱりさっきみたいなのが居たら?
常夜灯の下で、僕は立ちすくんでしまった。
その時。
「この辺りには、何もいないよ」
猫叉先輩の声。だが、姿は見えない。
と。
「この辺りには、何もいない。安心しなさい」
「あっ、はい」
猫叉先輩の姿は見えないがその声は聞こえる。どうやら姿を見せないつもりであるらしい。そして、言動からして霊のいない場所をナビをしてくれるらしい。
それなら、と、そのナビを聞きながら僕は歩き出した。
「そこ、真ん中通って」
「はい」
「そこ、看板に近づかないように」
「はい」
ナビによると、この辺りは結構あちこちに霊がいるようだ。
「今まで引っかからなかったのが不思議なくらいだね」
姿は見えない猫叉先輩が、そんな事を言う。
その通りだと、僕も実感した。
そんな危険も、猫叉先輩がいるから回避出来る。ありがたい。
だから、僕は家に着いた時、素直に言った。
「ありがとうございます。助かりました」
「うん」
「それと、今後ともお願いします。至らない所はありますけど、付いていきますんで」
「……うん、分かってる」
少し照れたような響きを声に感じて返事をもらい、僕は家に入った。なんだか、妙な気持ちのまま。
核心部分に進むような進まないような閑話。後もうちょいなんだけど、中々到達出来ないでござるの巻。