習慣
叔父が事故で死んだ。
まだ二十歳になったばかりの私にとって、その事実は受け入れがたいものであり、それなりに大きな衝撃を私に与えるものだった。
私の母のお兄さんだった。56歳。まだまだ人生を謳歌できる歳だ。それほど親しいわけではなかった。それでも年に何度かは顔を合わせていたし、その時には優しく接してくれた。それに何よりも親族なのだ。血が繋がっているのだ。
私にとっておじいちゃん以来の葬式だった。おじいちゃんの葬式は、まだ中学生だった私にとって、なんだかテレビでドラマを観ているかのような気分だった。葬式の後の親族の集まりは、なんだか宴会のようだった。
しかし、今回は少し意味合いが違っていた。母とほとんど変わらぬ叔父の死であり、まだ訪れるべきではない時に訪れた死なのだ。
私にとって、初めての悲しい、間近な死だったのだ。
叔父が亡くなってから、私のいくつかの習慣が途切れた。
毎週楽しみにしていた、イケメン俳優が出ているテレビドラマを観るのを止めた。そのイケメン俳優は悪くはないのだけれど、ドラマの内容が陳腐に思えてきたのだ。どうして母親を亡くした過去を持つ主人公が、あんなに楽しく事件を解決していけるのだ?私は叔父を亡くしただけでこんなに悲しいのに。
ダイエットを止めた。叔父はもっと生きてたかったはずだ。もっと食べたかったはずだ。叔父が死んだのに、どうして見た目のことなんか気にしなくちゃいけないの?だから化粧も必要以上にはしなくなった。
彼氏とのセックスを止めた。したくないわけじゃない。でもなんだか罪悪感があった。
そうやってしばらく過ごした。何かを楽しむたびに罪悪感が私を包んだ。誰に頼まれたわけじゃない。でも何だか自分を縛っておかないとダメな気がした。
大学ではたくさんの人が笑っている。私はここしばらくうまく笑えないでいる。別に笑いをこらえているんじゃないけれど、脳裏に叔父の死がちらつくのだ。皆はどうやって人の死を受け入れているのだろう?
私の友達に父親を早くに亡くした子がいる。彼女は明るい。彼女は父親が死んでから、どれくらいで笑えるようになったんだろう?自分に笑ってもいいんだと思えるようになったんだろう?
私は最近そんなことばかり考えていた。それでも大学では友達と話す。もちろん、叔父が死んだからって友達と話さないわけにはいかないし、もちろん話したいのだ。そして少しずつではあったが自然に笑えるようになってきた。叔父の死がちらつくこともなくなってきた。法事があるたび、宴会の様相を呈してきた。親戚達は「死」との距離の測り方がうまいようだ。
私は友達に誘われて遊園地に行ってみた。ただただ楽しかった。遊園地を楽しむことと、叔父の死は全く関係がないのだ。
それでも彼氏とセックスはしなかった。うまく理由をつけて断ってきた。でもいつまでもそうするわけにはいかないのはわかっていた。それに私自身、彼を求めているのだ。
観るのを止めたドラマを観てみた。しばらく観ていなかったせいもあるのか、おもしろくなくなっていた。でもドラマを観ることは、別に何ともなかった。ダイエットも再会することにした。しかし一度止めてみると、ダイエットという行為自体が何だかバカらしく思えた。でも少しは体重を管理しようと思う。
そうやって習慣を取り戻していった。誰かが「何事も時間が解決する」と言っていたが、そういうものなのかもしれない。でも自分の親が死んだら?と思うとゾっとする時もある。またうまく習慣を取り戻すことができるのだろうか?時に身を任せていればいいのだろうか?
彼氏にデートを誘われた。
デートをしている時から、彼氏が私としたがっていることは何となくわかった。私自身はそれほどその気ではなかった。それは叔父の死と全く関係なく。私はとりあえず彼氏の手をとった。
「お腹すいた。ご飯食べいこ」