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10の短編

雨に濡れた硝子の感情

BLとまでは言いませんが、女性向けなのは確かだと思います。

 ベランダの、季節外れの朝顔が雨に濡れていた。

 青は哀しみの色。でも、一志が悲しむのは茶色。萎んだ花を見たとき。

 男のくせに、落ち着くのだと言って花を愛でる。

 その気持ちは友矢にはわからない。でも、嫌いじゃなかった。

「枯れ始めてる」

 窓辺から無表情にそれを見下ろしていた友矢は、舌打ちして家を出た。

 傘も持たない背中。雨は不安定に粒の大きさを変えながら、ゆっくりと後を追ってきた。

 寒い。当たり前だ。黒のシャツはぐしょ濡れ。ジーンズも少し重たくなってきた。腕、肌に浮いた水滴を払おうとは思わなかった。面倒くさい。

 足が重い。普通に歩いているはずなのに、流れる景色が遅い。

 別に、どこに行きたいわけでもなかった。ただ、部屋にいて考えるだけなのは性に合わなかった。

 自棄だ。わかってる。イラつく。仕方ない。

 雨の濡れた匂いが体に纏わりつく。

 毛先から顎へ、肩から指先へ、滴が伝う。

 車の行き交う大通り。人目を気にしたわけではなかったが、ふと人気のない横道に逸れた。

「……」

 顔を上げて飛び込んできた光景は、在りし日の記憶と大きく変わっていた。だが一瞬にしてそこがどこだか思い当たって、友矢はため息をついた。

(偶然にしちゃあ、できすぎてるよな)

 舌打ちした。今度は自分に腹が立った。

 そこは幼い頃、兄であった一志とよく通った商店街だった。十年くらい前に近所に大手スーパーが建ってから、全く足を向けていなかった場所だった。案の定、ほとんどの店のシャッターは閉まっていた。

 思い出は、もうここにはない。

「廃れてる」

 時を経て脆くなった、その古びた様を冷めた目で見ていた友矢の視界に、白犬の姿が映った。店先に置かれた自転車の後輪につながれて、微動だにせず静かに眠っている。

 足を投げ出した無防備すぎるその格好。友矢は一瞬息を詰めた。しかし犬の腹が規則正しく上下し、時々耳がピクピクと動いたのを認めて、そっと息をついた。

 そして、口元に苦笑いを浮かべる。

「――こりゃ、一志の影響だな」

 自分とは正反対な性格。彼は、何に対しても優しかった。

 高校に入学した途端、勝手に一人暮らしを決めて家を出た三歳上の兄。突然のことで当惑する自分に、父は静かすぎる声で言った。

 あいつはお前の本当の兄ではない、と。


 いつの間にか、足は一志との思い出を辿っていた。

 一緒に通った小学校。久しぶりに見た正門には、黄色い風船でアーチが設置されていた。

 時期的に、今日は音楽会なのだろう。

「……俺と違って楽しそうだったよな」

 友矢は運動会が好きだった。体を自由に動かすほうが楽しかった。だから、内気な音楽会なんて気分が下がってやっていられなかった。何度その日は休もうかと思ったことだろう。でも決して欠席しなかったのは、一志の存在があったからだった。

 耳を澄ませば彼の歌声が、もしくはあの綺麗なピアノの音色が聴こえてくるような気がしたが、実際にはただ雨音が地に沈んだだけだった。


 友矢は一志が好きだった。それは、彼と血がつながっていないとわかった後でも変わらなかった。

 友矢は一志との関係を欲した。兄でないなら、せめて友人でありたかった。

 大学生になって一人暮らしを始めた友矢は、やっと月に数回、一志と会えるようになった。互いの部屋を行き交い、離れていた時間を埋めるように話をした。

 しかし一ヶ月前、とうとう二人は口論の末、互いに連絡を絶った。

「俺たちは価値観がまるで違う」

 雨の止んだ空を見上げ、友矢は目を細めた。

 くっきりと視界が澄んで、周囲の色がいつもより艶やかに見える。

 灰色の雲の明暗。直に、その隙間から太陽が顔を覗かせることだろう。

「光を待つ世界……」

 ふと浮かんだ言葉を口にして、友矢は微かに苦笑した。

(一志ならこう表現するんだろうな)

 今のような天気を見て、以前、彼は言った。

 怖いほど美しい、と……。


「雨は世界を洗い、存在するすべてのものを裸にする。雨が止んで、陽光が雲間から差すまでの間が一番生々しい。澄んだ空気が何の抵抗もなく肌をなでるから、僕は畏縮するんだ。世界は綺麗だと思うけれどとても怖い。自分の中でその美しさを肯定できても、僕はまだ受け入れることに躊躇いを感じている――」


 聞き惚れてしまいそうな、凛とした声。

 まだ薄暗い空を眺めながら、一志は言った。

 正直言ってその美的感覚は友矢にはわからなかったが、そこに込められた想いと自分に向けられたその背に、彼の弱さを見た気がした。

 広い窓辺に立つ、白いワイシャツ。傍らには漆黒のピアノ。

 観賞植物は彼の趣味。数は少ないが、その花の彩りが部屋を明るくする唯一の暖色。

 たった一枚だけ飾られてある、絵画の価値なんて友矢にはわからない。

 白を基調とした簡素な部屋。無駄なものは一切ない。

 部屋の中央で黒のソファにもたれながら、友矢はじっとその背を見ていた。

 窓の外に光が差したとき、その光が一志の後ろに薄い影を横たわらせたとき、ふと思った。

 まるで、硝子のような男だと。

 光を受けて輝くけれど、彼自身は光を発しない。何色にも染まらない。

 あまりにも白すぎる。

 ピアニストとして輝くときの強烈な存在感が嘘のような、希薄な背中。

 声をかければ届く距離なのに、なぜだか遠くに感じた。

 透明な硝子。

 一志はその中に、心を隠している。


『僕には家族なんていらない。元々なかったんだ。必要ない。つながりなんて欲しくない。友人なんてまっぴらごめんだ。皆、僕の音楽家としての価値にしか興味ない。僕はただ、誰にも頼らずに一人で生きたかっただけなのに――どうして皆、僕を掻き乱すんだ! 友矢、おまえだって……いずれ離れてく。悲しむくらいなら、最初からないほうがいい!』

『……ずるいやつだ、あんたは』

 一ヶ月前、本音が出た。

 口にするのが怖かった、互いに隠していた感情。

 一志は昔からそうだった。誰にでも優しくするくせに、絶対に心は見せなかった。誰も、自分の内に入ることは許さなかった。そのくせ、そんな言葉を吐きながらも一志は相手を求めていた。いつもそばで彼を見ていた、友矢だからこそわかる。わかるからこそ、腹が立って仕方なかった。なんでそんなに弱いんだと。なんで自分からは何も言わないんだと。何かを求める感情くらい、出したっていいのに。家族だからこそ、友人だからこそ、気持ちを伝えて欲しいのに。

 でも、一志は叫ぶ。

『僕たちは本当の家族じゃない。友人にもなりきれない。こんな関係、そう長くは続かない!』

 ビクついた目で友矢を睨む。潤んだ瞳で、必死に言外で何かを訴える。

『おまえが一番、僕を掻き乱すんだ! 他人ならどうにかやりすごすことができるのに、おまえだけが……』

 一志は他人を枠に当てはめる。友人なら友人、知人なら知人。カテゴリーに合う適当な自分を表に出す。必要最低限のコミュニケーション。自分が傷つかないように、期待しないように、まるでアンドロイドのように決められた表情を作る。

 中学のとき、義母、一志の実母が亡くなってからは、特にそれが目立つようになった。

 でも最も近しい存在だから、友矢の前では一志の仮面も崩れた。

 だがそれは逆に、友矢が他の誰よりも一志を傷つける存在であることを意味していた。

『……だったら、どうしろって言うんだ』

 耐えられなくなって、友矢は一志に背中を向けた。

『そんなに一人がいいなら、俺はもうここには来ねぇよ』

 背に視線を感じながら吐き捨てた、己の意思と反する言葉。

 でももう、それでいいと思った。もうそれで構わないと。

「思ったはずなのに、な」

 あの、幼い頃に見せたやわらかな笑顔が、今でも時々見せるその微笑が、完全に消えてしまうような気がするから……

 結局、自分にはできないのだ。

 ほっとけないと、思ってしまう。

 水溜りに足を取られないように歩きながら、友矢はため息をついた。

 もう意地を張るのをやめにした。

 どちらかが動かなければならなかった。動いて、少しでも距離を縮めて、また距離を測って遠退いたりして、不器用なりにも関係を維持しなければならなかった。

 繰り返し、毎回同じことを繰り返しながらも、たとえ平行線であっても離れないと――離れたくないんだと、互いを求めることが必要だから。

 きっと、家族であっても友人であっても、関係を築くとはそういうことだと思うから。

「……そういえば、喧嘩して最初に謝るのはいつも俺だよな」

 情けない気分になり、友矢は軽く舌打ちした。

 一志の顔が目裏に浮かぶ。会いに行ったらどんな顔するかなんて、容易に想像できる。何を言われるかも、わかる。

 おまえは馬鹿だ。

 風邪引くぞ。

 どうして来たんだ。

 でもそう言いながら、きっと笑ってる。

(俺が動くのを待ってる、そんなずるさ。腹立つけど、必要としてくれてるってことだろ?)

 何でもできてしまう兄。何でも話せてしまう友人。

 でも、どこか「兄弟」でも「友人」でもない微妙な関係。

 そのつながりに、付けるべき名はない。

 互いを結ぶ糸が切れなければそれでいい。

 たとえどれだけ細くても、このつながりだけは、絶ちたくなかった。


 電線から滴が落ちた。

 一志のアパートに着く頃にはもう、頭上には青空が煌いていた。


 喜怒哀楽。

 あの透明な硝子に映る感情。

 その色は花のように、いつも目を逸らすことを許さない。


「どうして来たんだ」

 玄関先で友矢にタオルを手渡しながら、一志はわざわざそんな言葉を口にした。

「電話でもいいだろう?」

 確かにそうだった。でも――

 友矢は髪を拭く手を一度止めて、じっとその目を見つめた。

 廊下との段差のために、少しだけ一志のほうが目線は上だった。

 白肌に映える、とても深く、吸い込まれそうな黒の瞳。

 無意識に、友矢はその瞳に手を伸ばしかけていた。

 だがその前に、先に一志が指を伸ばして、濡れた髪をすくいとった。

 友矢は目を細める。

「あんたは電話に出ない。……わかってるくせに。目が笑ってるぜ?」

「……ああ、顔に出てたのか」

 一志は残念そうに呟いて、やわらかく微笑んだ。

 温かみのある笑顔だった。

「改めて思ったよ。友矢がいないと僕の調子は狂う。……おまえを待ってた。ちゃんと話し合いたい。いいだろう?」

 友矢は苦笑した。

(謝りたいって、素直に言えばいいのに)


 今回もまた、最初に折れるのはやはり自分だと思った。




読んでいただき、ありがとうございました!


ちょっぴり挑戦した作品でもあるので、

感想がありましたら書いてください。お願いします。

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― 新着の感想 ―
[一言] タイトルに惹かれて、読ませていただきました。 雰囲気が好きです。 全体的に儚い感じで、雨や、枯れてく花のような繊細なイメージが背景に浮かびました。 人間関係も伝わってきます。 一志ならこうす…
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