5時までね
冷え切ったコーヒーに口をつける。深い茶色は薄暗い店内では黒と変わりなく見えた。持ってきた煙草はとうに吸い尽くしてしまった。帰ればいいのに、私はどうしても帰れないでいる。
カップをソーサーに戻して、横目でちらりとソファを見る。ふわふわのブランケットに身を包んだ男はのんきに口を開けて寝ていた。聞こえないほどのため息をついて、煙草の箱に手を伸ばしてから舌打ちをした。吸い尽くしてしまったと分かっているのに無意識というのは怖いものだ。もう一度横目で男を見てこぼれたため息はこの状況のせいか、それとも自身に呆れているためか。
どこで間違えたのか、今となっては分からない。知り合いに連れて行かれたバーの店主は物腰のやわらかい男で、こういった店で働いている人にありがちなそこそこ整った見目をしていた。職場から近いこともあり週に何度か通うようになれば、親しくなるのはすぐだった。仕事の愚痴や趣味の話をして、最近節約のためにお弁当を作ってるって話をして写真を見せて、それで
「えーめっちゃおいしそう。僕にも作ってよ」
この一言で恋に落ちてしまったのだ。恋だなんて! 30手前にもなってばかばかしい。そう一笑に付せればよかったのだけど、男性経験の少ない私はこういうことに耐性がなかった。冷静になれと囁く理性が仕事をしているのが唯一の救いではある。
けれどお弁当の記録用にと作ったSNSのアカウントをフォローされて、毎回いいねを押されて、店に行くたび「いつ作ってくれるの?」だなんて首を傾げて笑顔を見せられては、まるで彼にお弁当を作らないのが悪いことのように思えてしまった。
「でも本当に作ってこられたら嫌でしょ」
「えーそんなことないけどな。今日のもめっちゃおいしそうだったし。てか嫌だったら僕から言ったりしなくない?」
困ったように眉を下げて笑う彼が、自然な手つきで私の煙草に火をつけてくれた。ほんとこういうとこ、と自身に呆れる私はいるものの、嬉しくなっているのもまた事実ではあった。ばかばかしいと思いながら、お弁当を作るたびに脳裏によぎるのは彼の困ったような笑い顔。ああもう、本当に。頭を抱えたって制御できるわけなかった。
食材をいつもより少し多く買って、余ったから、なんて見え透いた嘘をついて、丁寧にランチクロスで包んだお弁当を差し出して。お礼にって、明日休みでしょって、始発出るまでおしゃべりしようよって、趣味でやっているドリップコーヒーをサービスしてくれて。あーあ、本当ばかみたい。飲み干したコーヒーは苦すぎた。
今日はもう予約もないから閉めちゃおうと言って、いつもより早めに閉店された店内はひどく居心地が悪い。彼の趣味が表れている、そこここに置かれたインテリアが私を嘲るようですらある。分かってるわよ。私が彼になんとも思われていないなんて、私自身が一番よく分かっている。だってきっと私のことを少しでも意識してくれているなら、途中でこうやって寝落ちしたりなんかしない。
だというのに、恋に浮かれた頭は都合のいいことばかり思い浮かんでしまう。気を張らなくていいから寝ちゃうんだよ、私と2人きりになるためにわざわざ店を閉めたんだよ、疲れてるのに時間を割いてくれてるんだよ。そうだったらよかったのに。
「ねえ、ちょっと」
最後のため息をついて彼を揺り起こす。この仕草さえまるで恋人同士みたい、だなんて自惚れてみたりして。
「ん……どうしたの、もう5時……?」
「ううん、まだだけど。私も眠いからもうタクシーで帰ろうかなって。チェックちょうだい」
「えー……始発待ったらいいじゃん、一緒に寝よ」
寝起きのかすれた声にどきっとなんてしてやらない。引かれた手を取ってなんかやらない。ブランケットごと私を包む腕なんて振り払ってやる。そう、思うのに。
彼のシャツに染みついた甘い煙草の香り、私より少し高い体温、耳元で静かに鳴る鼓動。そのどれもが私を引き留めるには十分だった。十分すぎるくらいだ。あふれそうになる涙をごまかして目蓋を降ろす。
5時までね。呟いた言葉が誰のためのものだったのか、私にはもう分からなかった。




