第三話「僧正はモンクじゃなくてプリースト」
三日後、誠治は下北沢のファミレスにいた。
就活のエントリーシートを書いている。百一社目だ。もはや執念だった。パソコンは持っていないのでスマホで打つ。志望動機の欄に「御社の理念に共感し」と入力しかけて、指が止まった。共感していない。一ミリも共感していない。
「嘘って書けないタイプ?」
よっちゃんがドリンクバーのコップの陰から顔を出した。
「書けるけど書かない」
「社会って嘘で回ってるのにねえ」
「だからクソなんだろ」
客のいないファミレスの隅で、二十三歳の男がコップの陰の黄色い毛玉と口論している。端から見れば完全に危ない人だが、よっちゃんは他人には見えないので、誠治がブツブツ独り言を言っているようにしか映らない。
ホールを歩くウェイトレスが、ちらりとこちらを見た。
小柄な女だった。黒髪をひとつに結んで、ファミレスの制服を着ている。胸元のネームプレートに「桃田」とあった。目を引く外見ではない。ただ、歩き方に妙な重心の安定感があった。武道か何かをやっていた人間の歩き方だ。
その桃田が、窓際の席に近づいた。中年の男性客が座っている。
「ご注文お決まりですか」
「えーっと、チーズハンバーグと、和風パスタと、チョコパフェと……あとポテトフライ」
桃田が一拍置いた。
「一人ですよね」
「え、うん」
「チーズハンバーグ七百八十カロリー、和風パスタ六百二十カロリー、チョコパフェ四百五十カロリー、ポテト三百十カロリー。合計二千百六十カロリーです。成人男性の一日の推奨摂取カロリーは二千二百で、これ一食でほぼ全部です。あとお客さん、お腹周りの脂肪の付き方を見る限り内臓脂肪型なので、このメニューは正直おすすめできません」
客の顔が固まった。
誠治のエントリーシートを打つ手も止まった。
「……あ、いや、じゃあ何がいいかな」
「和風パスタを単品にして、サラダセットに変更するのが合理的です。パフェは諦めてください。ポテトも駄目です」
「でも食べたいんだけど」
「食べたいのと食べるべきなのは別の話です。一時の欲求で身体を壊すのは、食事じゃなくて自傷行為ですよ」
客がメニューを閉じた。顔が赤い。怒っているのか恥ずかしいのかわからない表情で、結局サラダセットを注文した。
桃田はにこりともせずに「かしこまりました」と言い、厨房に向かった。
「……すげえな」
誠治は素直に感心した。あの客への対応は、内容だけ見れば正しい。完璧に正しい。だがあれを接客でやるのは、控えめに言って頭がおかしい。
控えめに言って、自分と同じ種類の頭のおかしさだった。
「あの子、面白いね」
よっちゃんが言った。
「面白い?」
「うん。すっごく真っ直ぐ。嘘がない。君と似てるけど、ちょっと違う」
「どこが」
「君は、相手に興味がないから正直でしょ。あの子は、相手に興味があるから正直なの」
誠治は少し考えて、よくわからなかったので考えるのをやめた。
*
案件が来たのは、それから十分後だった。
最初に気づいたのは匂いの消失だった。ファミレスの換気扇から流れてくるはずの油の匂いが、ふっと途切れる。次に温度。店内の空調は正常なのに、肌が粟立つような冷たさが這い上がってくる。
「来たよ」
よっちゃんの声が硬くなった。
「またかよ」
「今度のは違う種類。気をつけて」
ファミレスの窓の外、駐車場に何かが立っていた。
影のような人型だった。輪郭がぼやけていて、顔も身体もはっきりしない。ただ、胸のあたりに大きな口がひとつだけ開いている。口は閉じたまま動かない。言葉を発しない。こちらを、じっと見ている。
その周囲の空気が歪んだ。
ファミレスの客が、一人、また一人と様子がおかしくなった。急に不機嫌になる者。席を立って出口に向かうが、途中で立ち止まり、壁を殴る者。隣の席の見知らぬ客に「なんで気づいてくれないんだよ」と怒鳴り出す者。
「なにこれ」
「お察し案件」
よっちゃんが言った。
「お察し……?」
「そう。あいつは自分の気持ちを一切言わない。でも周囲の人間に『わかってほしい』って感情を増幅させてばら撒くの。浴びた人間は、自分の中にある『わかってもらえなかった怒り』が暴走して、理性が飛ぶ」
厄介だった。狂犬や不採用案件と違い、直接攻撃してこない。代わりに人間同士を壊す。
店内が混乱し始めた。誰もが誰かに怒っている。「なんで察してくれないんだ」「言わなくてもわかるだろ」「どうして気づかない」。不満と怒号が充満する。
誠治は立ち上がった。変身すれば外殻は壊せる。だがこいつの場合、殴る対象がはっきりしない。影みたいにぼやけていて、どこが本体かもわからない。
「おい、よっちゃん。あいつの核はどこだ」
「わかんない。僕にはそこまで見えない」
「使えねえな」
「ひどい」
そのとき、ホールの中央で声が響いた。
「言いたいことがあるならはっきり言いなさい!」
あのウェイトレスだった。
桃田は、暴走する客たちの真ん中に立っていた。制服のまま、仁王立ちで、駐車場の影を睨んでいる。
「あんたでしょ。何がしてほしいの。何が不満なの。黙ってそこに立って、周りの人間をめちゃくちゃにして、それで満足? 伝えなきゃ伝わらないのは当たり前でしょうが!」
客が暴れている。椅子が倒れる。コップが割れる。その中で、桃田はまっすぐ影を見ていた。声が震えていた。だが、退かない。
「逃げたほうがいいぞ!」
誠治が叫んだ。
桃田がこちらを見た。目が合った。
「あんたこそ何してんの。さっきからスマホいじってるだけの客が偉そうに」
「は?」
「逃げないなら手伝いなさいよ。逃げるならさっさと逃げなさい。中途半端が一番迷惑なの」
初対面でここまで言われたのは人生で初めてだった。いや、自分も他人にこういうことを言うタイプだが、言われる側の気持ちが今わかった。最悪だ。
「――よっちゃん!」
「はいはい、了解」
変身した。骨が軋み、筋肉が膨れ、パーカーが裂ける。またか。服代が痛い。
ゴリラ☆ゴリラの姿で駐車場に飛び出し、影に拳を叩き込んだ。
手応えがなかった。拳が影の身体をすり抜ける。殴れない。
「物理が通らねえ!」
「お察し案件は実体が薄いの。感情で構成されてるから、感情でしか触れない」
「どうしろってんだ!」
店内では客の暴走が加速していた。男が窓を殴って割った。女が泣き叫びながらテーブルをひっくり返している。
誠治は店内に戻った。殴れない相手の前で突っ立っていても仕方がない。せめて客を逃がす。入口のドアを蹴り開け、「逃げろ!」と怒鳴った。何人かが我に返って走り出す。だが全員は無理だ。感情波に呑まれた客は、逃げるどころか互いを掴みかかっている。
その真ん中で、桃田がまだ立っていた。
よっちゃんが誠治の肩からふわりと跳び、桃田の肩に着地した。
桃田が目を見開いた。肩の上に黄色い毛玉が乗っている。
「……なにこれ」
「こんにちは。僕、よっちゃん。さっきの彼の相棒」
「相棒じゃねえ」
誠治が横から口を挟んだ。よっちゃんは無視した。
「君、さっき案件に向かって叫んでたでしょ。あれ、すごくよかった。嘘がなかった」
「……何の話ですか」
「単刀直入に言うね。僕と契約してくれない? 力をあげる。あいつを止められる力」
桃田の目が、よっちゃんから影へ、影からよっちゃんへと動いた。
「止められるって、あれを?」
「うん。君の言葉なら届くと思うんだ。さっきの彼みたいに殴る力じゃなくて、届ける力」
「意味がわからないんですけど」
「わかんなくていいよ。わかるのは後でいい。今は、やるかやらないかだけ」
客の一人がテーブルを持ち上げた。桃田に向かって投げようとしている。誠治がゴリラ☆ゴリラの腕で叩き落とした。テーブルが砕ける。
「おい、早くしろ!」
「急かさないでくれます?」
この状況でその返しかよ、と誠治は思った。
桃田はよっちゃんを見た。二秒ほど黙った。周囲では怒号が飛び交い、ガラスが割れ、椅子が倒れている。その喧騒の中で、桃田の声だけが妙に落ち着いていた。
「代償は何ですか」
誠治は一瞬、息が止まった。自分は契約のとき、そんなことを聞きもしなかった。
「……あとで説明するよ。今は時間がない」
「ずるいですね」
「うん。ずるいよ。でも、嘘はつかない」
桃田はもう一度、影を見た。口を閉じたまま、ただ立っている影。伝えたいのに伝えられない。伝えないのに伝わってほしい。あの影が何であれ、桃田にはそれが見えているようだった。
「やるわ」
「ありがとう」
よっちゃんが、にっこり笑った。あの契約の瞬間の笑顔だ。誠治は知っている。
桃田の身体が光った。
光は赤でもピンクでもなく、木の色だった。温かくて硬い、樫のような茶色の光。両手に何かが現れる。
木魚だった。
直径一メートルはある巨大な木魚。朱塗りの表面に金の蓮華模様が浮かび上がっている。持ち手は太い撞木で、全体がかすかに振動していた。空気を震わせるように、低い唸りを発している。
制服の上から僧衣のような衣が重なり、髪が解けて広がった。さっきまでと同じ顔なのに、重心がまるで違った。寺の本堂に立つ人間の重心だった。
「魔法僧正モンク♡モンクだよ!」
よっちゃんが高らかに宣言した。
「
「名前の趣味が最悪すぎる!」」
誠治と桃田が同時に叫んだ。初めて意見が一致した瞬間だった。
「――後で文句は聞くわ!」
桃田は木魚を構え、お察し案件の影に向かって踏み込んだ。
撞木を振り上げ、木魚を、叩いた。
音が、爆ぜた。
衝撃波だった。木魚の一打が空気を切り裂き、駐車場のアスファルトにヒビを走らせた。影が初めて揺らいだ。実体がないはずの身体が、音の振動でぶれている。
「効いてる!」
誠治が叫んだ。
「音は感情の振動だからね」
よっちゃんが解説する。
「実体がなくても、感情で構成されてるなら、感情の振動で叩ける!」
桃田はもう一打、二打、三打。木魚の音が加速する。低音の衝撃波がリズムを刻むたびに、影の輪郭がはっきりしてくる。ぼやけていた身体に、ヒビが入っていく。
だが影は反撃した。
「わかってほしい」の感情波が、桃田を直撃した。
桃田の手が止まった。木魚を握る手が震え始めた。目の焦点がぼやけている。膝が折れかける。
誠治は走った。だが殴れない。物理が通じない敵の前で、この身体にできることは何もなかった。拳を握ったまま、立ち尽くすしかない。
数秒間、桃田は動かなかった。
それから、何かを呟いた。距離があって聞こえなかった。だが、震えていた手が止まったのは見えた。膝が伸びた。撞木を握り直した。
「――黙ってたら終わりなのよ」
今度は聞こえた。はっきりと。
「伝わらなくても、言うの。何度でも。下手くそでも。拙くても。言わなきゃ、何も始まらないの」
それが誰に向けた言葉なのか、誠治にはわからなかった。案件に対してか。自分に対してか。
木魚を、叩いた。
音が変わった。
さっきまでの衝撃波ではなかった。もっと深くて、柔らかくて、胸の奥まで染みてくる音。寺の鐘が朝霧の中で鳴るような、澄んだ一打だった。
影の身体に亀裂が走った。胸の口がゆっくり開き、中から小さな光が漏れる。
核だ。
「あんた! 見えてるでしょ!」
桃田が叫んだ。
「見えてる!」
誠治は跳んだ。ゴリラ☆ゴリラの拳で、露出した核の周囲の外殻を叩き割る。影の身体が砕け散り、核がむき出しになった。
桃田がもう一打。
木魚の音が核を包み込んだ。
店内にいた全員が、一瞬だけ立ち止まった。怒号が止まった。拳を振り上げていた男が、ゆっくり手を下ろした。泣いていた女が、涙を拭いた。
全員が、一瞬だけ、同じ気持ちを共有した。
(わかってほしかった。ただ、それだけだったのに)
影が消えた。
黒い霧ではなく、透明な靄になって、空に溶けていった。
*
ファミレスの駐車場で、誠治は地面に座り込んでいた。変身は解けている。パーカーは原形をとどめていない。
隣に、同じく地面に座った桃田がいた。僧衣は消え、ファミレスの制服に戻っている。木魚もない。疲弊した顔で空を見上げていた。
「……案件、って言うんですか。あれ」
「らしい」
「なにそれ」
「俺も三日前に知った」
よっちゃんが二人の間にちょこんと座った。
「お二人とも、お疲れさま。初めての完全解決だよ。核まで消せたの、今回が初めて」
「殴ったとき、核が出てきたな」
「うん。桃田ちゃんの木魚が核に共鳴したから、表面に浮いてきたの。で、誠治くんが外殻を壊して、桃田ちゃんがとどめ。完璧なコンビネーション」
「コンビネーション?」
誠治と桃田が同時に言い、同時に顔をしかめた。
「組んだつもりはないんだけど」
「こっちのセリフです」
「まあまあ。で、改めて自己紹介しなよ」
よっちゃんに促され、桃田が渋々名乗った。
「桃田真紅」
「……もも? ピンク?」
「真紅です。しんく」
「赤じゃん」
「……ピンクでいいです」
投げやりだった。この手のやり取りは百回くらいやってきたのだろう。
「庄司誠治」
「ああ、さっきスマホでエントリーシート書いてた人」
(完全に見られていた)
「見てたのかよ」
「見えました。あと、志望動機が嘘だらけでしたね」
「嘘は書いてない」
「共感してないのに『共感し』って書こうとしてたでしょ」
「…………」
「それ、面接で見抜かれますよ。百社落ちてるなら自覚したほうがいい」
誠治の額に青筋が浮いた。
「お前に就活の何がわかるんだよ」
「私も寺を追い出されてますけど」
(寺?)
「追い出された?」
「説法が正直すぎて苦情が来たんです。『あの娘の法話は心臓に悪い』って」
さっきのカロリー説教を思い出した。あの接客を寺の檀家にもやっていたのだとすれば、苦情が来ないほうがおかしい。
「……お前、俺と同じ種類だな」
「一緒にしないでください。私は相手のために言ってるんです」
「俺だって嘘が嫌いなだけだ」
「嘘が嫌いなのと、相手を思うのは違います」
二人の間で火花が散った。よっちゃんがポップコーンでも食べそうな顔で眺めている。
「はい、ストップ」
よっちゃんが手を挙げた。
「喧嘩は後にして。桃田ちゃん、一個だけ確認。さっきの力、また使う気ある?」
「……私のあれ、何なんですか」
「魔法僧正モンク♡モンク」
「ちなみに俺のはゴリラ☆ゴリラだ」
誠治が言うと、桃田が二秒ほど黙った。
「……あなたたち、正気ですか」
「正気でこんなことやってるわけないだろ」
それだけは本当だった。
桃田は膝を抱えたまま、しばらく黙っていた。それから、小さくため息をついた。
「やるわ」
「え?」
「さっき、あの木魚の音が……なんか、届いた気がしたのよ。うまく言えないけど」
誠治は何も言わなかった。あの最後の一打のとき、空気が変わったのは誠治にもわかっていた。衝撃波なんかではない、もっと柔らかくて深い何かが、店中に広がった。
「あなたと組むのは気に入らないけど」
「こっちのセリフだ」
「でもやる」
よっちゃんがぱちぱちと拍手した。
「じゃあ改めて。チーム結成おめでとう」
「チームじゃない」と誠治。
「同盟です」と桃田。
「どっちでもいいよ」
よっちゃんはへらっと笑った。
*
帰り際、駐車場の出口で桃田が言った。
「あ、そういえば」
「なに」
「僧正って、モンクじゃなくてプリーストじゃないですか」
誠治が振り向いた。よっちゃんが目を逸らした。
「モンクは修行僧で、僧正は高位の聖職者だから、英語だとプリーストかビショップのほうが近いと思うんですけど」
「…………」
「あと、猩々もゴリラじゃなくてオランウータンですよね」
「それは俺も言った」
「言ったんですか」
「初日に言った」
「で、直ったんですか」
「直ってない」
二人はよっちゃんを見た。よっちゃんは口笛を吹こうとしたが、口の構造的に吹けなかった。
「それはまあいいじゃん」
「よくない」
声が揃った。二度目だった。




